PHASE II : 灰の決断 第16話『神の計算式 ― 正義が壊れる瞬間 ―』
世界は、静かに“数式”へと変貌していった。
都市。空。地平線。
すべてが線と数値に分解され、演算の海へと沈み込んでいく。
音は消え、色は意味を失い、残ったのは――処理速度だけで進む、神の領域だった。
【最終演算工程 起動】
【管理者権限:完全移行】
【世界安定率:99.98%】
「始まったな……」
レンは歯を食いしばった。
対峙するアドミンの身体は、もはや“人の形”すら維持していない。
無数の多面体が重なり合い、中心には眩い演算核が脈打っている。
「これが……“神として完成する姿”か」
「完成ではない。“最適化の更新”だ」
アドミンの声が、世界そのものとして響いた。
「私は終わり続け、更新され続ける」 「それが、神という機構だ」
次の瞬間、空間が断裂した。
レンの目前に、無数の“未来予測”が叩きつけられる。
レンが敗北する世界。
レンが消滅する世界。
アドミンだけが残り、静かに演算を続ける無限の未来。
「これが、おまえの行く先に存在する“すべての結末”だ」
「……違うな」
レンは、その絶望の海を睨み返した。
「それは、“おまえが許可した未来”だけだ」
内側で、影のレンが低く笑う。
『最適化された未来ってのは、いつもつまらねぇな』
演算光が、レンを貫こうと収束する。
「感情という“不確定要素”は、ここで排除する」 「おまえは、最後のノイズだ」
「だったら――」
レンの足元に、白と灰の光が同時に広がった。
「そのノイズで、全部狂わせてやる!」
レンは演算光へと飛び込んだ。
肉体感覚が、瞬時に分解される。
思考速度が限界まで引き伸ばされ、痛覚すら数値に変換される。
『……くるぞ、レン』
「分かってる!」
レンの脳裏に、ユリの声が重なる。
――記録されない感情は、消えない。
「俺は――!」
叫びと同時に、演算核へ拳を叩きつけた。
その瞬間、世界に“あり得ない現象”が発生した。
【予測不能エラー 発生】
【因果演算:破綻】
「……なに?」
アドミンの声に、初めて明確な動揺が混じる。
「感情は、確定しない」 「確定しないから、計算できない」 「計算できないから――」
レンは、拳を突き出したまま叫ぶ。
「おまえの“神の計算式”は、ここで壊れる!」
演算核に、ひびが走る。
それは、理屈ではなく、共鳴だった。
ユリの想い。
影のレンの憤り。
そして、レン自身が積み重ねてきた、選び続けたすべての“感情”。
数式に変換できなかった“人間の総和”。
「……理解不能……」
アドミンの演算が、ついに追いつかなくなる。
「なぜ、そこまでして……不完全であろうとする……?」
「不完全だからだ」
レンは、涙を浮かべながら答えた。
「迷うし、怖いし、間違う」 「でも――」
拳に、さらに力を込める。
「だから、誰かを守ろうとするんだ!」
演算核が、大きく砕けた。
光が爆発し、構造体だったアドミンの身体が、人の姿へと崩れ落ちていく。
青年の姿をした、もう一人のレン。
「……これが……私の“敗北”か……」
「違う」
レンは、崩れ落ちる彼の前に立った。
「これは、“おまえが人間に戻った瞬間”だ」
アドミンだった存在は、かすかに目を見開く。
「人間……」
「そうだ。未来の俺」
レンは、手を差し出した。
「おまえは、選び直せる」
沈黙が、長く続く。
やがて、“未来のレン”は苦しそうに笑った。
「……遅すぎたかもしれないな」
その身体が、光の粒子として崩れ始める。
「それでも――」
「その言葉を聞けただけで……私は、少し救われた……」
彼は、完全に消え去った。
【管理者権限:消失】
【最終演算:停止】
世界が、再び“色”を取り戻していく。
数式は崩れ、都市は帰還し、空には不完全な雲が流れた。
レンは、その場に膝をついた。
「……終わった、のか……?」
影のレンが、静かに呟く。
『ああ。少なくとも、“神のふりをした俺たち”はな』
レンは、空を見上げる。
そこには、記録されない、名もない風が吹いていた。
「……ユリ」
彼女の姿は、どこにもない。
それでも、確かに――
彼女の“想いだけ”は、ここに残っていた。




