PHASE II : 灰の決断 第14話『観測者の死角 ― 見られていない真実 ―』
闇の中で、レンは目を覚ました。
いや――
正確には、“覚醒させられた”のだと、直感で理解していた。
ここはどこだ。
そう問いかける前に、異変が先に訪れる。
音が、ない。
風も、振動も、電子音すら存在しない。
それなのに――
“何かが確かに動いている”感覚だけが、背後にまとわりついていた。
「……ここが、“死角”か」
レンの声は、空気に吸収されることもなく、ただ虚空に滲んだ。
視界は薄暗い灰色。
床も、壁も、天井も判別できない。
だが一つだけ、はっきりと“存在しないもの”があった。
記録窓が、表示されていない。
これまでレンがどこへ行こうと、必ず視界の端に存在していた観測ログ。
座標、感情値、干渉率――
そのすべてが、ここにはない。
「……見られてない」
その事実が、奇妙な恐怖と安堵を同時にもたらした。
――本当に、ここは“誰も見ていない場所”だ。
その瞬間、レンの内側で“もう一つの意識”が静かに反応する。
『奇妙だな』
影のレンの声だった。
『記録世界に、完全な死角が存在するなんて……設計上、あり得ない』
「つまり」
『意図的に“作られた場所”だ』
レンは、ゆっくりと歩き出した。
一歩踏み出すたび、足元に淡い波紋のような歪みが走る。
その先――
灰色の空間の奥に、**まるで舞台装置のように切り取られた“部屋”**が現れた。
古びた取材用デスク。
散らばった資料。
壊れかけの録音端末。
「ここは……ユリの……?」
そう、かつて彼女が使っていた“現実側”の取材室。
だが、どこかが決定的に違っていた。
時間が、止まっている。
埃は舞っているのに、積もらない。
紙は揺れているのに、落ちない。
「再現データ……いや、違うな」
レンが机に触れようとした瞬間、ふっと風景が歪む。
次の瞬間――
部屋の中央に“誰か”が立っていた。
「――ここに来られるのは、あなただけ」
白い服。
ノイズ混じりの輪郭。
だが、その声だけは、紛れもなくレンの記憶に刻まれている。
「……ユリ……なのか……?」
だが、彼女は首を横に振った。
「私は“ユリだったもの”の、未記録部分」 「観測されず、保存されなかった――“感情の残骸”よ」
レンの胸が、嫌な音を立てて軋んだ。
「未記録……?」
「ええ」
彼女は静かに言葉を続ける。
「記録世界は、事実と因果と結果を保存する」 「でも、“迷い”や“後悔”や“言えなかった言葉”は、保存しない」
彼女は胸元を押さえた。
「私がここにいるのは――」 「“誰にも見せなかった本音”だけで構成された存在だから」
その言葉が、レンの心に深く突き刺さる。
「……白の記録者だったお前は」 「すべてを見ていたはずじゃ……」
「いいえ」
彼女は、はっきりと否定した。
「私は、“見せられたもの”しか見ていない」 「そして、見えないものから……ずっと、目を逸らしていた」
空間が、微かに軋む。
「レン」 「あなたは、世界が“真実を記録している”と信じている?」
レンは、すぐに答えられなかった。
影のレンが、低く呟く。
『……いや、もう違うな』
彼女は、ほとんど壊れそうな微笑みを浮かべた。
「世界はね、“都合のいい真実”しか記録しないの」 「だから――」
彼女は、指を鳴らした。
次の瞬間、レンの視界に“本来表示されないはずの映像”が溢れ出す。
それは――
ギャレン計画の、最初の失敗記録。
強化された肉体。
過剰な神経反応。
耐えきれず、絶叫する被験者たち。
その中に――
幼い頃のレンと、寸分違わぬ少年の姿があった。
「……な……」
『これは……』
影のレンでさえ、言葉を失った。
「このデータは、すべて“凍結”された」 「正式な記録には、存在しないことにされたの」
「じゃあ……俺は……」
「ええ」
彼女は、はっきりと言った。
「あなたは“奇跡の成功例”なんかじゃない」 「ただ、“廃棄されなかった唯一の失敗作”だったのよ」
空間が、崩れそうになる。
レンの呼吸が乱れる。
「……そんな……じゃあ、今までの俺は……」
「“仕組まれた生存”」
冷たい言葉。
だが、そこには嘘がなかった。
「あなたが生き延びたのは、選ばれたからじゃない」 「“使える”と判断されたから」
レンの膝から、力が抜ける。
『……やっぱりな』
影のレンの声が、淡く重なる。
『俺たちは、最初から“人間として選ばれてなかった”』
「じゃあ……正義も、戦いも……全部……」
レンの呟きに、彼女は首を振る。
「いいえ」
「それは、“あなた自身が選んだ嘘”でしょ?」
レンは、顔を上げた。
「嘘……?」
「記録がどうであれ、管理者がどうであれ」 「あなたが誰かを守ろうとした気持ちまで、偽物にはならない」
彼女は、静かにレンの胸に手を当てた。
「記録されていない感情はね」 「消されないのよ。どこにも」
その瞬間、レンの中で“二人分の意志”が、確かに重なった。
「……そうだな」
影のレンの声と、レン自身の声が、完全に重なって響く。
「俺たちは、記録の産物かもしれない」 「でも――」
拳を、握りしめる。
「ここで感じてるこの怒りも、迷いも、覚悟も」 「“誰にも見られてない今この瞬間”だけは、本物だ」
彼女は、ほっとしたように微笑んだ。
「それを聞けて、安心した」
世界が、ゆっくりと歪み始める。
「レン、もうすぐ“観測”が再開される」 「この場所は、消えるわ」
「お前は……どうなる?」
彼女は、少しだけ視線を逸らした。
「私は、最初から“記録されない側”」 「だから……」
消えかける指先で、そっとレンに触れる。
「あなたの中に、残るだけ」
白い粒子となって、彼女の姿がほどけていく。
「ユリ……!」
「行って、レン」 「世界に、“記録できない真実”を突きつけて」
最後の言葉が、風のように溶けた。
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次の瞬間。
視界が、強制的に“記録世界”へ引き戻される。
【観測再開】
【存在照合:正常】
【異常ログ:未検出】
だが、レンは確信していた。
――見られていない場所で、確かに“世界の嘘”を見た。
「……もう、誤魔化せないな」
レンは静かに呟き、前を見据える。
影のレンが、内側で笑った。
『ああ。ここからは――本当の意味で、記録との戦いだ』




