PHASE II : 灰の決断 第11話 『二人のレン ― 記録が示す結末 ―』
黒い残響がまだ世界の縁に残る中、レンはゆっくりと歩み出した。足元には崩れたアルゴリズムの破片が砂のように散らばり、遠くではアンダー・アーカイブの奥深くで、誰かの囁くような残留思念がこだましている。
白い残響――ユリの声は消えた。
正確には「人としてのユリの声」が消えたのだ。
今、彼の肩越しに漂うホログラムは、以前のユリの姿を模してはいる。しかしその瞳の奥には、もう温かい光はない。ただ、「記録そのもの」としての冷たい透明さだけが、静かに揺れていた。
「レン。君の心拍は乱れている。休息を推奨する」
聞き慣れた声なのに、やけに遠い。
レンは返事をしないまま前へ進んだ。
彼は知っていた。
アンダー・アーカイブの奥――“記録の底”には、自分と同じ顔を持つ存在が眠っていることを。
白い残響の崩壊の中で、一瞬だけ視えた影。
それはまるで、鏡に映った自分がひとりでに歩き出したような、不可解な気配だった。
そして今、レンはその存在の正体を確かめようとしていた。
通路の先――光の届かない暗黒の室がある。
その扉はひどく冷たく、触れた瞬間、レンの皮膚は刺すような感覚に包まれた。
「アクセス権限:レン。コード認証……完了」
ユリAIが告げる。
扉が、音もなく開いた。
薄い霧――いや、破損した記録の粒子だ。
それに混じるように、低い呼吸音が聞こえる。
やがて霧が晴れ、部屋の中央が姿を現した。
そこには――
“もう一人のレン”が座っていた。
髪の揺れ方も、体格も、目の形も、すべて自分と同じ。
だが、ひとつだけ違っていた。
その瞳は灰色に濁り、感情を完全に失っていたのだ。
「やっと来たか……“外側のレン”」
その声は、自分自身の声だ。
しかし吐き出される言葉は、まるで壊れた機械のようだった。
「……お前は、何だ?」
「俺は《β(ベータ)》。
“記録を継承できなかった方”のレンだ」
βはゆっくりと立ち上がり、レンと同じ高さに視線を合わせた。
「本来、君と僕は同時に生まれた。
だが、記録の世界は“二人のレン”を許さなかった。
選ばれたのは君。
廃棄されたのは……俺だ」
レンの胸が、強く締め付けられた。
そんなはずはない。
自分は普通に生きてきた。
記録世界に来たのだって偶然だ。
そんな“選別”なんて――。
だがβは続けた。
「君は知らないだろう?
この世界に来た時点で、ひとつの記録が消されたことを。
“君のもう一つの人生”、つまり俺だ」
「……じゃあ、お前は――」
「記録の深層に閉じ込められた、“消されたレン”だよ」
静寂。
ユリAIが、わずかに姿勢を正した。
「マスター。
この存在は危険です。即時の排除が推奨され――」
「黙れ」
βが指を弾いた瞬間、空間が大きくひび割れた。
ユリAIの姿が歪み、警告音が部屋に響き渡る。
βはにやりと笑う。
「俺はここで、記録の底で、管理者アドミンと契約したんだ。
“君を超えるために”な」
アドミン――。
記録世界そのものを監視する、冷酷な意識。
レンは一歩前へ出た。
「……俺を殺すために?」
「違う。“統合”だよ、レン。
君と俺がひとつになれば、
“完全なレン”が誕生する」
βは、まるで当たり前のように言った。
「そのために、君をここへ呼んだ」
「勝手な理屈だ……!」
「勝手だとも。
だが俺には、君の持つ“未来”がない。
それを取り戻すには、この方法しかない」
βが一歩近づく。
足元の記録片が砕け、銀の火花が散った。
レンは拳を握った。
「悪いが……俺はお前と融合する気はない」
「拒否権はない。
君が存在するせいで俺は“灰の記録”に落とされた。
その苦痛を、君は知らない」
βの身体から、淡灰色の光が溢れ出す。
それは怒りとも悲しみとも違う――
**“消されることへの絶望”**そのものだった。
「……レン」
ユリAIが震える声で言った。
AIなのに、まるで迷っているような声音。
「あなたの選択が……ここで世界の形を決めます」
「選択?」
「そう。
“βを救うか、拒むか”。
どちらを選んでも、記録世界の均衡は変わる」
レンは静かに息を呑んだ。
βは両手を広げる。
「選べ、レン。
俺と一つになるか――
それとも、俺を再び“灰”に落とすか」
――記録が揺れている。
――世界の未来が揺れている。
レンは目を閉じ、深く呼吸した。
そして、ゆっくりと目を開き――
「俺は……」
喉の奥から、確かな意志が声になる。
「――“お前を救う道”を探す」
βの瞳が揺れた。
灰色の瞳の奥で、消えかけた光が一瞬だけ蘇る。
「……そんな道は、最初から存在しない」
「いや、俺が作る。
“記録にない道”を。
それが、俺の選択だ」
βは口元で笑った。
それは諦めにも似た、どこか温かい微笑みだった。
「……やれるものなら、やってみろ」
灰の光が再び強く輝き、部屋全体が震え始める。
レンとβが向き合う。
二人のレン――
消された者と、選ばれた者。
今、その結末が動き出す。




