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聖女、グレる。  作者: 水神流文筆道開祖
第一章 聖女と悪魔の前奏曲
7/22

無に還りし命に安らぎを

 人が暮らす国は数あれど、どこも完全な階級社会だ。

 平民・貴族・聖職者、この三つの身分が互いを支え合い、そしていがみ合う。

 天より賜りし身分制度は、人民を管理し国を運営するのに必要不可欠である。

 だが、身分制度ゆえの弊害もある。

 貴族と平民の間には無慈悲なまでの格差があった。

 貴族が平民を虐げても許される。二つの身分だけではそうなっていただろう。


 横暴を阻止し、弱者を守る。その役割を担うのが聖職者である。


 何事も暴力で解決するのが一番だ。

 しかし、弱者を守護する聖職者の力は暴力ではない。

 残念ながら、全ての聖職者が貴族に天誅を下せるほどの実力者ではないのだ。

 女神教会には司法権があり、法律の名の下に公平に罪を裁く力がある。


 聖職者の力――法律。聖職者とは罪を裁き罰を与える裁判官でもあるのだ。


 聖職者は司法権を用いて罪なき人民を守り、法律による罰で国の乱れを正す。

 貴族は立法権を用いて議会で国の舵取りをし、社会のためにその身を尽くす。

 国王は行政権を用いて国を治め、人民に報いるためその命を捧げ、敵あらば武力で撃滅し、人民の規範として徳を示し、象徴として人民を幸福に導く道標となる。


 では平民は? 何の力もない平民だが、自由という唯一無二の権利があるのだ。


 貴族のように国に縛られず、聖職者のように教会に縛られず、平民は自由に人生を謳歌する。平民は好きな場所で好きなように生きていく権利があるのだ。

 もし暗君により国が傾き、貴族が悪政を敷くならば、そんな国出ていけばいい。

 平民はどの国にも自由に行き来し、どの国にも自由に住むことが許されている。


 これが天により定められた神聖不可侵なる身分制度である。


 女神教を信仰する証であり身分証明でもある女神のタリスマンは、所有者の身分により色が変わる特性がある。

 平民は銅、貴族は銀、聖職者は金、その三色が人民を区別する。

 各教会の神樹から生成される女神のタリスマンは、個人情報を記録しており情報を魔法で閲覧できる。本人認証もでき、偽証することは不可能である。

 女神のタリスマンは紛失しても必ず所有者の元に戻り、最終的に所有者の墓標となることを運命づけられている。

 ゆえに、破壊不可能だが所有者の魂が輪廻転生すると消滅する。

 一部の人類は女神がもたらす秩序に反逆した。その反逆者たちを魔族と呼ぶ。

 女神に反逆し真の自由を求めた魔族ですら、支配を巡り醜く争い血を流す。

 結局、生命は互いに殺し合う運命からは逃れられない。生き物の(さが)である。


「……性か……」


 誰にともなく呟いた。

 私のイザベラは隠していた本性を現し、本能のままに欲望を貪っていた。

 ベンチに座る彼女の眼前に私は立ち、優しげな声でさらなる堕落に誘う。


「ほら、イザベラ、あーん」


 何度も何度も卑しく貪ったイザベラの唇に、欲望に塗れた私の肉を突きつける。


「聖女様ぁ……もうダメぇ……」


 彼女は瞳を潤ませ許しを乞うが、その言葉に反し彼女の体は正直なようだ。

 彼女が舌なめずりした拍子に唾液が卑しい音を奏で、美しい唇を濡らした。


「先っちょだけだから……ね?」


 お願いしながら彼女に私の肉を咥えさせる。往生際の悪い彼女があがく。


「んっ!? ぁあ……聖女様ダメぇ……おなか、壊れちゃう……」


 彼女は仰け反り逃れようとするが、覆いかぶさるようにして退路を塞いだ。


「豚のように貪っていたくせに、鶏のように忘れやがって……この牛女が!」


 牛のごとく豊満な山脈を、鶏のごとく縦走すると、豚のごとく山彦をあげた。


「ひぎぃ!」


 豚は尾根をくねらせた。強行軍とは裏腹に雄大な鳴き声をあげ、水場に微笑む。

 白磁の豚に手で塩をすりこむ。傾国の豚が私の肉を咥え、卑しくビバークした。


「ふふ、豚のように貪りなさい」


 カマトトぶりやがって……胃袋にまだ余裕があるのはわかってんだぞ?

 最後の一本になるまで夢中で食べてたくせに、今更小食ぶるのは無理がある。

 イザベラの体型を見ればわかる。彼女は脂肪が全て胸にいくタイプだ。

 教会飯ですら彼女は三回おかわりしていた。かなり大食いなのは間違いない。


 ふと気がつくと、肉の串焼きは肉の欠片になっていた。


 おそらく、私の分であろう肉の欠片……それを残した理性を褒めるべきか?

 肉の欠片を咥え串から外すと、一口に貪り食う。醤油ベースのタレは濃厚ながら肉の旨味をしっかり引き立て、後味に余韻を残しつつもさっぱりしている。

 肉は牛のランプか? いや、違う。この肉汁の多さは……希少部位のイチボか!

 豚バラ肉も至高であったが、牛イチボ肉はまさに究極、筆舌に尽くしがたい。

 これぞまさに天上の味である。

 これほどの美食が屋台で食べれてしまうとは、飽食の時代ここに極まれり。

 豊かな食事こそが人々を幸せにする。よきかなよきかな。

 もぐもぐと咀嚼し肉を味わう彼女の表情は、至高と究極により恍惚としていた。


「お口、汚れてるよ」


 手巾を取り出すと、タレで汚れた彼女の口を拭う。そっと桃色の唇を清めた。

 元公爵令嬢のくせにまるで幼子のようで、つい世話を焼きたくなる。

 串と木皿を近くのゴミ箱に捨て、手を拭いて綺麗にすると、彼女に微笑んだ。


「よくできました。全部食べれて、偉い偉い」


 手巾をしまうと、両手で彼女の頬を優しく包む。

 嚥下した彼女を見つめ、頬をそっとなでた。彼女の唇から艶やかな声が漏れる。

 頬から手を離すと、合掌して祈祷の掌印を結び、目を閉じ食後の祈りを唱える。


「ごちそうさまでした。無に還りし命に安らぎを、六柱支えし世界に祝福あれ」


 六柱に祈りと共に魔力を捧げ奉る。輝く女神のタリスマンに信仰の証を立てた。

 イザベラは我に返ったようで、「ごちそうさまでした」と食後の祈りを唱えた。

 閉じていた目を開くと、彼女の背中に腕を回し、柔らかな胸にこの身を委ねる。

 ベンチに座る彼女のふとももの上に腰を下ろし、その瞳を見つめおねだりした。


「だっこ」

「ふぇ?」


 私のおねだりを理解できないようで、彼女は間抜けな声で聞き返した。

 股を開いて彼女に身を寄せる。白と黒、二人の服と服が密着し、熱く溶け合う。

 彼女の柔らかな体に抱きつく。その胸に顔をうずめて安らぎに沈んだ。


「午睡の時間だ。今日は天気がよい。ここで寝る」


 私のおねだりを正しく伝えると、心外にも彼女は無粋なことを言ってきた。


「えっ!? こ、このような場所でお眠りになるのは――」

「いいから早くだっこしろ」


 言葉を遮り再度おねだりすると、彼女は唇から耽美な吐息を震わせた。

 彼女の肩に頬ずりして甘える。腕に力を込めて彼女を強く抱きしめた。


「だっこ……」


 だっこしてほしい。ママを知らない私に教えてよ。底に眠る愛の欠片を。

 すると、彼女はふわりと優しく私を包み込む。甘い抱擁に心が歓喜する。


「少しだけよ?」


 彼女の声はとても優しい響きだった。ママのよすがを求め彼女の胸に抱かれる。

 彼女の左手が私の背中を摩り、その右手が私の頭をそっとなでてあやしつける。


「……ママ……」


 微睡みに落ちていく。展開していた心が収束し魂に収まると、意識が途絶え――


 薄暗い石壁の部屋、古めかしい調度品、すすけた絨毯、木製の……ゆりかご?


 ――夢を見ていた。部屋を眺めている。教会ではない。顔にすっと影が落ちる。

 誰かが私を覗いている。女だ。黒髪銀眼。泣いている。涙が私の頬を濡らした。

 伸ばした手は届かない。暗闇が全てを飲み込む。夢が終わる前兆、目覚めの時。

 残ったのは隠れた影だけ。懐かしい匂い、覚えていない想い、叶わない、願い。


    ◇


 午睡から目覚めた私はイザベラを連れて中央市場で買い物をしていた。

 彼女はクレニア公爵家から勘当され、着の身着のまま教会に送られたのだ。

 そのため、生活するのに必要な様々なものを新たに買い揃える必要があった。

 当然、彼女は無一文だ。教会から生活物資は支給されているが、それだけで生活するのはさすがに厳しいだろう。

 そういうわけで、彼女に必要なものを市場で見繕い買い与えることにしたのだ。

 彼女は固辞したが、説得すると恐縮しながらも受け取ることに同意してくれた。

 イザベラは私の侍祭なんだから、遠慮なんてすることないのに――


「イザベラ、この櫛なんてどうだ?」


 ――人々で賑わう市場の一角、猫の獣人が商う露店、陽光が反射する。

 すれ違いざま目に留まった煌びやかな櫛を指差し、イザベラに勧めた。


「っ!?……わたくしには……分不相応、ですわ……」

「遠慮するな。店主、この櫛を買おう。いくらだ?」


 金と螺鈿で細工された鼈甲の櫛は、鮮やかな意匠で見るからに高そうだ。

 だが、これくらい買い与えられないようでは甲斐性がない。

 半月型の櫛はこの辺りでは珍しい意匠だな……輸入品だろうか?

 座布団に座る店主は私をまじまじと見ると、にやりと笑みを浮かべて言った。


「これはこれはセイジョ様、お初にお目にかかり恐悦至極にゃ」


 店主は恭しく挨拶をしたが、「にゃ」とわざとらしい語尾に思わず眉を顰める。

 猫の獣人の……少女? 獣人は背が低いから、子供か大人か判断がつかないな。

 獣人族は人間族と比べると背が低いが、それでも子供の私よりは少し背が高い。

 左が金、右が銀、瞳は珍しいオッドアイ。さらさらとした青い髪のボブカット。

 頭の猫耳、鋭い犬歯、長い尻尾、それ以外は人間族と同じで白い肌をしていた。

 愛くるしい猫ちゃんだが、油断大敵だな。

 ケープ・ワンピース・ブーツを着ていて、その色は紫紺色。

 一見目立つように見えるが、夜間に隠密行動するための迷彩色と思われる。

 革製のようだが……まさか、魔獣の革か?

 あからさまに胡散臭いが……まあ、よい。

 少々慇懃無礼な態度に感じたが軽く流して、気にせず店主と商談を始めた。


「うむ、苦しゅうない。ところで――」


 ふと、露店に置かれた赤いポーチに目が吸い寄せられる。あれは……もしや?


「店主、そのポーチ……」

「お目が高い! これは魔法のポーチ、倉庫並みに荷物が入る優れものにゃ!」

「……本物か?」

「にゅ、なら確かめてみるにゃ」


 店主がそう言うと、私に魔法のポーチを手渡して確認させてくれた。

 矯めつ眇めつ眺め、ポーチの中に手を入れる。見た目より明らかに空間が広い。

 間違いなく本物だが……店主に問う。


「どこで手に入れた?」


 明らかに露店で売るような代物ではない。問われた店主がとぼけてごまかす。


「さあ? 覚えてないにゃ~」

「……この紋章に見覚えは?」


 ポーチの革に彫られた紋章を指差して、店主に詰問するごとく尋ねた。


「紋章? ただの模様だと思っていたにゃ」


 店主が(うそぶ)く。その瞳は私を見据え微動だにしない。

 だが、それがかえって不自然に感じ、嘘をついていると直感した。

 指差した紋章を一瞥(いちべつ)すらしないのは、いかにも怪しい。

 イザベラに視線を送り目配せすると、魔法のポーチをイザベラに手渡し尋ねた。


「イザベラ、この紋章はどこの家のものだ? おまえならわかるだろ?」


 イザベラは元公爵令嬢で王子の元婚約者だ。当然、王妃教育を受けている。

 彼女ならば紋章がどこの貴族のものかわかるはずだ。そう期待したが……。


「…………」


 イザベラは魔法のポーチをただ見つめるだけで何も答えない。

 どうした? 豚のように肉を貪るしか脳がない、なんてことはないはずだ。

 ないよな? えっ? な、ないよね?

 内心困惑していると、店主はにやついた顔で勝ち誇り、厭らしい口調で言った。


「おや? おやおやおや? おわかりにならない? ハハッ! これは傑作!」


 そう馬鹿にすると店主はイザベラを嘲笑う。

 口に手を当て笑いを噛み殺しているのは、気遣いからか目立ちたくないだけか。

 こいつ……調子乗りやがって……語尾の「にゃ」を忘れているぞ?

 感情が昂ったくらいで忘れるなら、中途半端な自己演出をするな!

 イザベラは呆然としていたが、その瞳に力が戻ると、緩んだ表情を引き締めた。

 すると、イザベラが視線を上げて嘲笑う店主を睨みつけた。そして、口を開く。


「これはお母様からの頂き物。モックス侯爵家の紋章がその証拠よ」


 感情が昂っているのか、イザベラは微かに唇を震わせ、毅然と言葉を続けた。


「公爵家所縁の品が、売られているなんてありえないことなの。おわかり?」


 イザベラは目に涙を浮かべながら断言した。だが、それでも店主は食い下がる。


「おいらを犯罪者扱いするのかにゃ? にゅー、人間はすぐ人種差別するにゃー」


 人種差別? 関係ねえ! 聖女の前では何人だろうと下等生物にすぎんのだ。

 ゆえに、人種差別などしない。聖女にとって命など等しく無価値である。

 しかし、どうする? あと一歩が足りない……イザベラ、なんとかしろ!

 イザベラの瞳をじっと見つめると、私の視線に気づいた彼女がこくりと頷いた。

 イザベラは魔法のポーチから決定的証拠を取り出し、店主の眼前に突きつけた。


「これは結婚指輪、お母様が公爵家に輿入れした時、お父様がお贈りしたものよ」

「にゃんですとぉ!?」


 桃色の金剛石が輝く美の粋を極めた結婚指輪を、イザベラは店主に見せつけた。

 白金のリングには緻密な意匠が彫られ、星のように宝石が散りばめられている。

 おそらく、リング内側にはイザベラの母親の名や家紋が刻印されているはずだ。

 これ以上ない決定的証拠だ。

 なぜなら、魔法のポーチは既知のものしか取り出せない仕組みだからだ。

 漫然と手を突っ込むだけでは何も取り出せない。収納物をはっきりと思い浮かべなければ、魔法のポーチから取り出せないのだ。

 これは盗難防止用の機能で、金庫なんかよりよほど信頼できる。

 魔法のポーチを盗んでも「破壊しない限り」中身を全て取り出すのは不可能だ。

 貨幣など既知のものなら取り出せるが、欲をかいて破壊するより魔法のポーチを売るほうが楽に儲かるのが道理であろう。

 チェックメイト――異世界の遊戯〈チェス〉を思い描き、店主を追い詰める。


「騎士団に通報すれば、盗品を扱った罪で逮捕されるな。どうする猫ちゃん?」


 腰に手を当て堂々と胸を張ると、得意げな顔を自己演出した。まいったか!

 よく考えると追い詰めたのはイザベラだし、私は大したことしてない気が……。

 まあ、よい。侍祭の手柄は聖女の手柄。そういうことだ。

 押し黙る店主が私を睨む。おや? おやおやおや? あえて店主を挑発する。


「どうした猫ちゃん? 随分大人しくなっちゃって、可愛いねぇ」


 店主は「ぐぬぬ」と悔しそうに呻く。殺意を覚えるほど可愛い店主が釈明した。


「セイジョ様、ご慈悲を! 盗品だなんて知らなかったんだにゃ。あの女が――」

「黙れ」


 一斉に鳥が羽ばたく――解放された私の殺気により、市場が一瞬で凍りついた。

 喧騒は絶え、人々は硬直し、屠殺されるのを待つ哀れな肉人形と成り果てる。

 間近で殺気にさらされた店主は、全身がこわばり身じろぎ一つできないようだ。

 店主の顔に汗が滲み、つうっと流れて滴り落ちた。

 その姿をじっくりと眺めた後、殺戮衝動を鎮め、顎に手を当て店主に告げる。


「私の言うことを聞けば悪いようにはしない。どうだ?」


 殺気を収めると店主に微笑む。店主は壊れた玩具のように何度も頷いた。


「いい子いい子。長生きしたかったら、ちゃんと言うこと聞くんだよ?」


 店主の頭に右手を伸ばすと、労わるようになでた。

 猫耳がぺたんと伏せられて、恐怖で萎縮しているのが手に取るようにわかる。

 獣人は感情が耳や尻尾に出るのが特徴で、それがもう本当にたまらなく可愛い。

 えも言われぬ喜びに満たされて高揚する。上機嫌で店主との商談を再開した。


「魔法のポーチを買おう。その櫛もだ。合わせて大金貨一枚、それで手を打とう」

「そ、そんな殺生にゃ……せめて大金貨三枚はいただかないと、大赤字にゃ……」


 金銀の輝く瞳を見据えると、怯えた店主が目をそらす。青髪がさらりと揺れた。


「嘘をつけ。どうせ盗品だとわかった上で、足元を見て買い叩いたのだろう?」

「うにゅにゅ、たとえそうだとしてもおいらは商人。赤字では売れないにゃ!」


 取引を持ちかけるが店主は応じない。だが、それならば奥の手を使うまでだ。

 店主の目の前でしゃがむと、手を店主の顎の下に伸ばし、指で優しくなでた。


「いけない子、お仕置きされたいの?」

「ひっ……ぅ……あ、ぃい、にゃ……」


 店主は艶めいた声をあげ、猫耳を僅かに外向きにし、尻尾を穏やかに動かした。

 獣人にはやはりこれが効く。甘い指使いでなでてやると店主は夢心地となった。


「大金貨二枚だ。これ以上の譲歩はない。今すぐ決めろ」

「にゅ、わかっ、た……っ……んっ!」


 可愛い声を出し体をくねらせる店主の猫耳に口を寄せ、注ぐように囁いた。


「いい子いい子。言うことをちゃんと聞けたね。偉い偉い」


 心から褒めると店主は蕩けた鳴き声で答えた。

 そのまま満足するまでなでてあげると、店主は座布団に寝転び恍惚となった。

 ポーチから大金貨二枚を取り出すと、店主の目の前に置く。これで取引成立だ。


「見逃すのは今回だけだ。次はない。わかったか?」

「……はひ……」


 櫛を手に取り立ち上がると、イザベラへと向き直る。

 魔法のポーチを大切そうに抱える彼女に、さっと煌びやかな櫛を手渡す。

 彼女を見つめると、その瞳が宝石のように輝いていた。


「じゃあね、可愛い猫ちゃん」


 店主に暇を告げ私たちは露店を後にした。

 この程度の罪なら不問でも問題あるまい。

 しばしの間、二人並んでゆるり散策する。

 市場は活気に溢れ多くの人々が行き交う。

 喉の渇きを覚え、露店でジュースを買うと、ベンチに二人揃って腰を下ろした。

 空を仰ぎ見て、一息つく。そのまま流し目で彼女を見やり、笑顔で話しかけた。


「それ、取り戻せて良かったな」


 イザベラの膝の上には、赤い魔法のポーチが置かれている。

 左手に持つジュースの紙容器に視線を移すと、ぐいっと一口飲む。

 蜜柑の爽やかな甘さが喉を潤した。

 保存技術の革新により、新鮮な食材がいつでも手に入るようになって久しい。

 この世界で培われた魔学と異世界で築かれた科学は、人々に幸せをもたらした。

 彼女は赤い魔法のポーチに触れ、指で紋章をなぞると、ぽつりぽつりと語る。


「幼い頃、お母様におねだりして……わがままばかり、何も恩返しできず……」


 言葉に詰まった彼女の瞳が潤み、その瞳から一筋の涙が流れ落ちた。


「お母様の、形見を……取り戻していただき……っ……ありがとう、存じます」


 やはり亡くなっていたか。母親の結婚指輪が出てきた時点で察していたが……。


「ああ、気にするな。運がよかっただけ……運命ってやつか? 女神の賜物だな」


 言葉に窮し、常套句で適当に返した。

 こういう時は、女神のせいにしとけば丸く収まるものなのだ。

 「女神の賜物」は聖女の常套句で、これを言っとけば間違いない。

 イザベラは母親の形見にそっと手を添える。

 赤い魔法のポーチが、彼女の麗しい赤い髪によく似合う。

 きっと彼女の母親もそう思ったから、愛する娘に与えたのだろう。

 イザベラの母親に思いを馳せる。大丈夫、あなたの娘を不幸には絶対しない。

 脳裏によぎった重たい言葉――彼女を幸せにできるのか?――自問自答する。

 そもそも、幸せとはなんだ? 求める資格があるのか? 怪物である私に……。


 再び空を仰ぎ見る。同じ空の下、師匠はどこで何をしているのやら……。


 師匠が旅立って一年がすぎた。

 帰りが遅いので私の聖騎士に捜索させたが、音信不通になってしまった。

 武力だけが取り柄のおバカは、私の命令を忘れてしまったか?

 私の聖騎士が役に立たなすぎてため息が漏れる。まったく、早く帰ってこい!

 それとも、今はまだその時ではないのか? これも女神の賜物なのだろうか?

 静かに瞑目する――不幸と幸福、戦争と平和、罪と罰、運命の時、復讐の時。


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