聖女の生活はわりとスローライフ
ここはミラデイン王国。
山海に囲まれた大平原が豊穣をもたらす大陸西部の大国。
女神たちを崇める女神教が主な宗教で、世界人口の九割以上が信者だ。
私は聖女、最強の生命体である。
ゆえに、些事などせぬ。くだらん些事は教皇に任せればよい。
私は聖女、最も尊き現人神、女神の恩寵賜る至高の存在である。
王都にある女神教の総本山〈聖地教会〉、その一角にある聖女の部屋は華美ではないが厳かな内装で、設えられた家具も歴史的資産価値のある一級品ばかりだ。
私は部屋で独り、ふかふかで大きなベッドの上で頬杖をつき本を読んでいた。
この本は大人じゃないと読んではいけないものらしい。
悪友から借りたのだが、九歳の子供には難解すぎたのか理解不能だった。
女の子たちがベッドの上で、踊り狂い、空を舞い、海に溺れる。
比喩表現だとは思うのだが、私には理解しがたい内容だ。
黒い瞳が皿に盛られたクッキーを捉える。白魚のような指でそれをつまみ貪る。
ベッドの上でおやつを食べるなんて行儀が悪いのだが、天におわす女神たちしか見ていないのなら、行儀など必要あるまい。
からんからんと星を讃える鐘声が響く。教会が夕を告げた。十六時、わりと暇。
私が着る「白い聖女の服」はくるぶし丈のゆったりとしたローブで、輝く金糸の刺繍が施されており、女神を讃える金色の詩が祝福を与える。
白い足をバタバタさせる。素足だが気にしない。はしたなくて何が悪い?
聖女の服一式は女神の祝福を受けた「神御衣」で、神樹を績み紡ぎ織られた神聖なる神衣で仕立てられている。縫製の跡など一つもない、無垢なる御業の神器。
黒髪がぱさりと視界を遮り読書の邪魔をする。美しい黒髪を手で後ろに払った。
一度も切ったことがない黒髪は、足首まで伸びていてうざったくて仕方がない。
聖女にはウィンプルの着用義務がないので、頭飾りを付けていない。
着飾るのが面倒なので、女神のタリスマンを首にかけてるだけで飾り気はない。
十字の中央に円を重ねた女神のタリスマンの意匠は、世界に遍く「十二属性」を現わし、金色の輝きが女神の威光を讃えている。
本来なら聖女らしく着飾るのだろうが、趣味じゃないんでね。あしからず――
「聖女様! 大変ですわ!」
――ノックもなく、いきなり部屋の扉が開かれた。
ずかずかと部屋に入ってきた美女が、私の元に息を切らせてやってくる。
何やら火急の知らせのようだが……。
女神教の聖職者は女性のみで構成されている。
ゆえに、教会内は一部を除き男子禁制の「女の園」なのは自然なことであった。
見習いの修道女、一人前の巫女、指導者の司祭と、人類皆平等をうたうわりには階級に縛られた完全な縦社会である。あーやだやだ、かったるいね。
とはいえ、そんな教会で最高権力者として君臨するのが聖女である。階級万歳!
「聖女様、無視しないでくださいませ。本を読んでいる場合ではございません!」
白肌の美女が私に注意し、不敬にも読んでいた本を取り上げた。美女を睨む。
美女が着る触り心地のよい黒い修道服一式は、清らかな純潔を表している。
頭にかぶるウィンプルは白い前立てと黒いヴェールのコントラストが禁欲的で、お尻まで伸びた美しい赤髪を覆い貞淑を示す。
美女がはく黒い革靴は教会の支給品ではなさそうだが……もしや、竜革か?
国宝級の代物をさも当然とばかりに着こなす姿が、実に楚々として奥ゆかしい。
首から肩にかけて白い付け襟を着用しているが、その首元には階級を示す刺繍が施されている。付け襟の中央に〈金色の百合〉が一つ――階級が巫女である証だ。
聖女である私に、巫女ごときが身の程知らずにも命令するとは、なめてんのか?
無視してクッキーを一気に二枚ぱくっと貪り、巫女を睨みながら咀嚼する。
だが、巫女は私のことなど露知らず。私から取り上げた本を夢中で読んでいた。
今年発売されるや否や、歴史的大ヒットを記録した『百合の楽園』である。
確かこの巫女は成人になったばかりの十五歳。大人の本を読んでもいい年齢だ。
「…………」
静寂の中で本をめくる音が響く。巫女がごくりと唾を飲み込んだ。
本をめくる速度が、徐々に上がっているように感じるのは気のせいだろうか?
私には理解不能だったけど、大人が夢中になるような本ではあるらしい。
巫女は熱心に読んでいるようであったが、手元の本に落としていた視線をすっと向けてきたかと思うと、美しい紫色の瞳で無言の懇願をしてきた。
巫女の奇行に呆れ、思わずため息をつく。だが、そこまで執心ならと提案する。
「……私にはよくわからん本だったが、読みたいのなら貸してもいいぞ」
「あ、ありがとう存じます。じっくりねっとり読ませていただきますわ」
私はごく自然に、借りた本の又貸しという非道行為をスマートにこなした。
巫女は喜びで飛び上がった。首にかけた女神のタリスマンと共に巨峰が揺れる。
自慢か? 平家に対する挑発行為を働くとは、なんと無礼な巫女であろうか!
だが、その罪を許したもう。
私は女性の胸が好きだ。なぜなら、そこにママのよすがを感じるからだ。
柔らかな胸に抱かれると、ママの面影に近づけるような気がして……。
ゆえに、私は探し求める、私のママになってくれる人を。
ママ、私を導いてくれ……おお、ままよ、ままよ……巫女をまじまじと見る。
修道服では隠せぬ美しい肢体、大きな胸に柳腰、芸術的なお尻、情熱的な赤髪。
もしや、この巫女は私のママになってくれるかもしれない人ではないだろうか?
ベッドから起きると、確かめるため巫女の元へ飛び込むようにして抱きついた。
「……ママ……」
巫女の胸に顔をうずめる。安らぐ感触と懐かしい香り……ママの匂い……合格!
一二八センチの私より巫女は頭二つ分ほど背が高く、ゆえに不可抗力であった。
心の井戸から郷愁が零れて思わず言葉を漏らすと、巫女が答えるように囁いた。
「せ、聖女様……」
巫女のウィンプルが乱れ、情熱的な赤髪が誘うように揺れる。
白と黒、服と服が擦れ合う。巫女は私を抱きしめると、確かめるようになでた。
巫女が手放した本が地面に落ちたようだが、そんなことは些細なことだった。
「わ、わたくし、は……」
巫女の声は美しく、そして震えていた。声音の艶めかしさに体がぞくりとする。
巫女を見上げ、美しい紫色の瞳をじっと見つめた。熱を帯びた視線が絡み合う。
この巫女の名は確か……記憶から聖職者の情報が検索され、声が名を紡ぐ――
「イザベラ」
――イザベラ・モックス・クレニア。
クレニア公爵家の継嗣と輿入れしたモックス侯爵家の令嬢との間に生まれた娘。
尊き血を継ぐ令嬢の中の令嬢……のはずなのだが、どうしてこんなところで巫女なんぞに落ちぶれているのだろうか?
私の呼びかけにイザベラはびくりとする。その艶やかな唇が甘い吐息を奏でた。
改めてイザベラをしげしげと観察する。
長く麗しい赤髪、白磁のような肌、煌めく紫の瞳、完璧な肉体美、傾国の美女。
彼女の手が私の背中を摩り、頭をなでて、細く美しいしなやかな指が頬を擽る。
優しく、熱く、希うように、芽生えた何かを確かめるようにイザベラが囁いた。
「聖女様ぁ……」
彼女は私をさらに強く抱きしめる。その巨峰を顔に押し付けられて息が……。
「ぷはっ、い、イザベラ! ちょ、息が、苦し、い」
「ひゃっ!? 申し訳ございません! わたくしとしたことが……」
イザベラが力を緩めてくれたおかげで、なんとか息ができるようになった。
しかし、これは弁解のしようがないほどの失態。教育的指導をせねばなるまい。
聖女は優しく労わるように扱うべし。女神教の常識である。抗議するために頭をぐりぐりと胸に押し付ける。機嫌の悪さを示すため、顔をしかめて睨みつけた。
イザベラの体をぎゅっと抱きしめると、ふと疑問を口にする。
「ところで、どうした? 急ぎの用事があったんじゃ――」
「あら、大変! すっかり忘れておりましたわ」
彼女は忘れていたようだが、忘れるくらいのことなら大事ではなかろう。
余裕綽々で『百合の楽園』を読んでいたのだ。緊急事態などあろうはずがない。
「緊急事態ですわ! 王子が重傷を負われて……準備をしてくださいませ」
思わずため息をつく。やれやれ、お仕事ですか……つーか緊急事態を忘れるな!
女神教は独立独歩。大国とはいえ、たかが一国の力に従ういわれはないのだが。
この仕事を前向きに検討し、お祈り申し上げようとしたが、ちと気が変わった。
「うむ、よかろう」
まあいっか。さくっと治して金でもふんだくりますかね。早速準備を始める――
白いオーバーニーソックスと革靴をはく。美脚が包まれ、奥ゆかしく隠された。
白い革靴はユニコーン革製で、足に合わせ形状が変わる殊勝な魔法の靴である。
白い神衣に金糸の刺繍、私のために誂えられた輝く神御衣。皺を伸ばし整える。
白いマントをふわりと羽織る。背に煌めく女神を讃える詩が、世界を祝福する。
――準備万端よし、鏡に映る美少女を指差す。いざ行かん、金のなる木の元へ!
◇
王子は教会の治療室に運ばれた。あちらから来てくれるとは、よき心がけだ。
しかし、だからこそ緊急性の高さが伺えた。はしたないが、全速力で向かう。
イザベラを従えた私は治療室の前に辿り着いた。
部屋の中がざわついているがノックせず扉を開け放つ。
失礼などと、わかりきったことは言わない。黙々と患者の元へと向かう。
肩で風を切り、患者である王子がいるであろう診察台の前に到着した。
眼下の現状を確認したが……視線を上げ睥睨すると、誰にともなく尋ねた。
「患者はどこだ? 王子が重傷だと聞いたが……」
周囲には聖職者の他に王女と侍女が一人、そして護衛の騎士が数人いるだけ。
どういうことだ? 周囲の面々を睨むも、なぜか目をそらして沈黙するばかり。
王女を見つめる。金髪碧眼、玉のような白肌をした絶世の美少女。腰まで伸びた美しい金髪は、サイドを縦ロールにアレンジしており華やかな印象を受ける。
王女は小柄な体には不釣り合いな名山を際立たせる、贅を尽くした青いドレスで着飾っていた。柳腰と幼さ残るお尻が艶めかしく、息を呑むほど美しい。
王国の豊かさの象徴、育まれた名産品を捧げるように、王女は私に体を向けた。
ミラデイン王国の王女――三歳年上の幼馴染、親友マリーに質問を投げかける。
「マリー、どういうことだ? 王子はどこにいる?」
王女マリー・カディーン・ミラデイン。
王族の彼女が幼稚な悪戯をするとは思えない。冗談や嘘をつくタイプではないはずだが……厳しい視線で彼女を射抜き、その瞳に問う。
青い瞳が瞬き、彼女は診察台を恐る恐る指差した。
大きなシーツがかけられている。平らな……いや、僅かに膨らみがあるような?
勢いよくシーツをはがす、鳥が羽ばたくようにシーツが空を舞い視界を覆った。
やがて視界が広がり、見覚えある影が瞳に映る。思わず声が漏れた。
「手……しかないな」
正確には左手首から先の部位しかない。薬指には王家の指輪がつけられており、その意匠から王子ジョセフ・カディーン・ミラデインのものであることは確かだ。
これを治せと? 無茶振りにもほどがある! いくらなんでも、これは……。
「ないわー」
さすがにこれはないわ。私にどうしろと? 重傷を超えた重傷、ご臨終ですよ。
よしんばこの状態から治すにしても、果たしてそれは本物の王子といえるのか?
王子Bが生まれるだけで本物の王子Aではないのではないか? 私は訝しんだ。
呆れる私を見て意気消沈したのか、消え入りそうな声でマリーが懇願してきた。
「聖女ちゃん、お願い、お兄様を助けて……」
しかしね、助けるという次元を、もうとっくにすぎてるのではないだろうか?
「マリー、残念だけど、これはもう死体だ。これを治してしまったら死霊術の領域になってしまう。死霊術は禁忌、教会の戒律で固く禁じられているんだ」
わかりやすく説明したが、知らないわけでもあるまい。
彼女は周囲に視線を向けると、手を払うような仕草をした。
周囲の聖職者と騎士一同がざわつく――
「そういえば教会の聖務がありまして……この場を失礼させていただきます」
「安全確保のため、全員外を重点的に警備せよ。殿下、御前失礼いたします」
――などと言いながら、次々と周囲の面々は治療室から退出していった。
そして、私とイザベラ、マリーと侍女だけが残った。マリーが再び懇願する。
「聖女ちゃん……治して、ね?」
「いやいやいや、いかんでしょ」
即座に拒否するが、マリーは狂気をギラつかせ、しつこく懇願してきた。
「聖女ちゃんなら余裕で治せるよね? ほら、早く治そ? 簡単だよ……ねぇ!」
ぐいぐいと迫るマリーが私の首を絞め始める。こら、死体を増やそうとするな!
あぁ握力ぅ、強すぎぃ……マリーに抵抗しながら、彼女の侍女に助けを求める。
「ライカ、マリーを止めろ! 王女が禁忌を犯すとか前代未聞だぞ!?」
王女の侍女ライカは、救援要請を聞いても微動だにせず、何の反応も示さない。
澄まし顔で王女に侍るライカは、私を完全になめていた――
侍女ライカ・レオニア・バーラン。
代々騎士団長を務めるバーラン伯爵家の長女で、騎士団長にも劣らぬ強者だ。
王女専属の護衛兼侍女。ライカは細身ながら男にも引けを取らない鍛えられた体をしているが、そのせいか一七四センチの成人女性としては貧相だった。
黒いお仕着せは地味だが最高級品で、純白のエプロンドレスとホワイトブリムが艶めく褐色の肌に映えており、屈強な体に意外なほど似合っていて可愛いらしい。
――彼女を見上げ、その茶色の瞳を睨むと、見下ろす彼女に声を荒げ抗議した。
「無視するなライカ! この貧乳地味ポニテ! 返事しろアラサー女子!」
「アラサーちゃうわ! ウチは十八歳のぴちぴちやで、しばくぞアホが!」
「ケツと態度がデカイ侍女陛下、王女の暴走を止めてくりゃんせんかぇ?」
「はあ? そんなん知るかボケ。ウチは殿下の命令しか聞かんわバカ聖女」
ライカは鼻で笑って小馬鹿にし顔を背けた。茶色の長いポニーテールが揺れる。
南部訛りの田舎者めが……調子こきやがって……ライカを射殺すように睨んだ。
王族ぅ、ごときがぁ、聖女にぃ、楯突くなんぞぉ……百年早いんだよ!
首を絞めるマリーの手を払いのけると、間髪入れず背後から拘束し身動きできぬように制圧する。その際に、私の手が彼女の胸を鷲掴みにしてしまうのは、体格差ゆえに仕方がないことだった。身長が一六センチも違うのだ。未必の故意である。
「ひぃあ!?」
マリーの甘やかな奇声が響き渡る。その胸は豊満であった。
立場逆転だな? わざと下卑た笑いを浮かべライカを脅す。
「ライカ、マリーを止めろ。でないと、マリーがどうなっても……知らんぞ」
豊満な山麓に取りつき、山頂へとシャトルラン、激しく上下し左右が開花宣言。
マリーの霊験あらたかな美声が現世を彩り、楽器のように柔らかく奏でられた。
「こ、こんなことが許されてええんか!?」
怒りで震えるライカが私を非難した。緊迫した空気が私たちの間に流れる。
ライカはスカートを翻し、ふとももに隠していたダガーを左手で抜刀し構えた。
隙を見せたほうが負ける。そう思わせるほどの鬼気迫る――
「争っている場合ではなくってよ! まず、落ち着きなさいませ!」
――突然、イザベラが間に割って入る。私は王女を解放しライカが受け止めた。
冷静な指摘に誰もが納得し矛を収める。彼女の行動に感嘆し、思わず声を零す。
「確かに言われてみればそうである」
ぽんと手を打ち、すとんと腑に落ちる。よくぞ申した。だがライカが口を挟む。
「そんなん言われんでもわかるやろ。ほんま救いようのないアホやな~」
「いちいち罵倒しないと喋れないのか? このメスブタァッ!!」
私とライカが罵り合い、互いにメンチを切る!
その無駄にイケメンな顔をひき肉にしちまうぞ?
剣呑な雰囲気の中、イザベラは平静な声を響かせた。
「いいこと? 事ここに至っては、真剣に考えねばなりませんのよ」
「といってもなぁ……」
私は言葉を濁した。正直言って、王子なんて別に死んでてもよくね?
どっちでもいいというか……むしろ、死んでたほうがいいまである。
「王子の本体はしまっちゃおうねぇ」
場を和ますため軽口を叩くと、診察台の王子だったものに再びシーツをかけた。
死力を尽くした感を演出、ふうと息をつく。もはやこれまで、迷わず踵を返す。
何やらライカがマリーに耳打ちしているが……関係ねえ! 関係ねえ! 帰る!
三十六計逃げるに如かず。まさしく金言也。こんなところスタコラサッサだぜ。
「聖女ちゃん!」
その声に足を止める。幼馴染のマリーに私は存外甘い。まあ、仕方がないか。
結局無視できず、マリーの方へと向き直る。腹を括って話を聞くことにした。
「お願い、聖女ちゃん。何でも……何でもするから、お兄様を助けて!」
マ? 今何でもするって……高鳴る鼓動を抑え、マリーに確認を取る。
「マ? 何でもするってマ?」
「はい、噓偽りなく本当に……マリーは聖女ちゃんの言うことを何でもします」
マ、マママママママママ!? マッー! いやっっほぉぉぉおおぉおう!
あんなことやこんなことが、できてしまうということなので御座候ふ?
いや、だが待て冷静になれ私。ここはまず願いを百個にしてもらって……。
違ふ違ふ、さもあらず、さもあらざり。私の願いを永遠に叶える奴隷に――
『ダメよ奴隷なんて!? 破廉恥な思考、聖女として恥を知りなさい! 恥を!』
突如、頭の中に神聖不可侵なる天声が響いた。守護女神である愛の女神から神託を受けたのだ。愛の女神と対話するため、心を天に解放し祈りと共に語りかける。
『愛の女神よ、奴隷はダメですが、パートナーならいかがでしょうか?』
『パートナー、ですか……ふむ?』
『奴隷は違法ですがパートナーは合法です。私の願いを永遠に叶えるパートナーにするのはセーフ。口約束ですが、互いに合意の元。ギリギリセーフであります!』
沈黙。否、熟考。私は裁きを待つ咎人のように、静かに愛の女神の判決を待つ。
『……そこに愛はあるのですか?』
愛の女神は重々しく私に問いかけた。だがしかし、それは愚問であった。
『逆に聞きたいのですが、愛って必要でしょうか?』
『は?』
『互いに納得している関係なら問題ないのではありませんか?』
『は?』
『政略結婚がいい例ですね。関係を築くのに必ずしも愛は必要ない――』
『黙れ』
『あっはい』
『悪魔のように汚れたその言葉を二度と口にするな汚物め』
『あっはい』
『聖女よ、愛は必要です。いいね?』
『あっはい』
――神託が終わったのを気配で感じる。この間〇・〇一秒。
それで、つまり、どういうこと? 愛が必要なのは理解した。
まあ、幼馴染のマリーに対して愛の欠片くらいはあるはず……あるよな?
このまま治療しても大丈夫か? 今年の流行語「問題ない也」と呟き自己承認。
本気でやばいときは愛の女神が止めるはずだ。止めるよな? 信じてるぞ!
「よし! いっちょ蘇生……じゃない、治療しますかね」
建前は大事。蘇生でも死霊術でもない。あくまで治療、重傷の治療である!
「ほんまにやるんか? もろ死霊術やんけ! 恐ろしゅうて震えてきおったでぇ」
「聖女ちゃん、ありがとう!……マリーの願いが叶う……芸術品にする夢が……」
「教会の戒律を破ることになったとしても、わたくしは聖女様と共にありますわ」
ライカ、マリー、イザベラ、三者三様の言葉を受けギュッと力を込め断言した。
「これは治療です」
「なんやなんや? そんな屁理屈通るんか?」
「これは治療です」
「聖女ちゃん? でも……」
「これは治療です」
「聖女様?」
察しろこのおバカ! 私は理路整然とした正論を吐き捨てた。
「本体の左手から些末な部位を再生するだけ。何も問題ない。いいね?」
「「「…………」」」
こんな仕事さっさと終わらせる。治療を施すため診察台の前に戻り眼下を睨む。
シーツが王子の本体である左手を覆っている。治療中の王子は直視に耐えがたい惨状になるのが目に見えているので、このまま治療を施すことにした。
聖女の力は魔法とは異なる――
魔法は魂の素粒子である「魔素」を練り上げ魔力にし、魔力の鉛筆で下書きするように現象を想像し魔力回路を描き、魔力の絵具で色を塗るようにして仕上げる。
例えば、炎の魔力回路に魔力を注げば「火」の赤色に染まり炎が燃え上がる。
様々な属性に変化する魔力と、想像のキャンバスに下書きした魔力回路、魔法は絵に似ているとよく言われるが、言い得て妙とはこのことか。
魔力回路を魔力で染めたら呪文を唱え魔法を発動し、現象を世界に顕現させる。
呪文は何でも構わないが、魔法が起こす現象と関係のある言葉がよいとされる。
逆に魔法が起こす現象と反する呪文を唱えると想像を阻害され発動に失敗する。
無詠唱と呼ばれる技術は心の声で呪文を唱える「魂声」という高等技術である。
「魔力の矢」などの純粋な魔力が起こす現象は「属性のない魔法」に分類する。
基本属性は〈四大元素〉の火風土水と〈秩序と混沌〉の光闇の六属性存在する。
基本属性を合わせた応用属性が六属性存在し、遍く十二属性が世界を構成する。
〈四大元素〉二属性の応用属性が金雷木氷で、四属性の応用属性が命である。
〈秩序と混沌〉二属性の応用属性が無で、文字通りあらゆるものを無に還す。
各属性には相性が存在する。
火は風に強く、風は土に強く、土は水に強く、水は火に強い。
金は雷に強く、雷は木に強く、木は氷に強く、氷は金に強い。
光と闇は表裏一体で、互いに相殺し合い、光と闇の間に無を生成する。
命は全てと対等に生を分かち合う。無は全てと対等に死を分かち合う。
――では、魔法とは異なる聖女の力とは何なのか?
聖女の力とは女神の力。粘土に似ていて、形は思うままだが粘土でしかない。
聖女には女神の一柱が守護女神となり「恩寵」として女神の力が下賜される。
つまり、聖女とは「女神の権能」を分け与えられた「現人神」なのである。
六柱おわす女神は矛盾を起こす反目した二つの属性を司る。
権能に呪文など必要ない。振るうだけで現象あるいは矛盾を顕現できる。
自由奔放、自縄自縛。理から外れた矛盾は、それゆえに奇跡を顕現するのだ。
守護女神である愛の女神の権能は、女神曰く『愛に不可能なんてない』とか。
戯言には懐疑的だが、権能で顕現する奇跡は「御業」としか言いようがない。
その力は、無垢であり邪悪。命と無を司る愛の権能は、まさに矛盾であった。
私は聖女の力を行使し、王子の本体に向けて手をかざして命の魔力を送り込む。
シーツで隠されているその中で、激しく蠢く何かが徐々に人の形を成していく。
愛とは何だろう? 曰く、不定形である。曰く、移ろうものである。曰く……。
骨肉を打ち鳴らすような不規則な怪音が室内に木霊し、人型の何かが痙攣する。
私はママとパパの愛を覚えていない。だから、愛が何か本当はよくわからない。
診察台のシーツをめくり中を確認する。そこには王子の形をした肉体があった。
「王子の肉体の再生は完了した。だが、これで終わりではない」
シーツを戻してみんなの顔色を伺う。
直視していないとはいえ、凄惨な治療風景に三人とも顔が青ざめていた。
まだ、肉の塊ができただけだ。最終工程を口頭で説明する。
「これより王子の魂を死霊術……ではなく、こう、ぐいっとして、すぽんとね?」
もはや誰もツッコまない。こんなくだらない仕事、さっさとすませてしまおう。
権能で無理やり王子の魂を引き寄せる。結構引きが強いな。力強く、ぐいっと!
「あっー!」
野獣のような咆哮が天を衝く。すわ何事か? 互い顔を見合わせ首を捻る。
しばらく様子を見ていると、扉が乱暴に開かれた。壮年の騎士がずんずんと私に近づいてくる。その後ろでは、若い騎士たちが担架で誰かを運んでいるようだ。
壮年の騎士は開口一番に大声で告げた。
「聖女殿! 重傷を負った王子をお連れしました! 治療をお願いいたします!」
担架の上で気を失っている人物を確認すると……王子Aがいた。本物である。
私はキャッチしていた魂をリリースした。王子Aにするすると魂が戻っていく。
「あっはい。治療ですね。承りました。そちらでお待ちください」
平静を保つため事務的に対応する。聖女の力で王子Aの怪我を完璧に治療した。
本体の左手も再生し、新品同様だ。動揺を悟られぬよう、極めて冷静に告げた。
「王子Aは完治した。お大事に、さようならー」
部屋から王子Aの一団を無理やり追い返す。消えろ、ぶっ飛ばされんうちにな。
さらに、用心のため治療室の内鍵をかけておく。ふう、驚かせやがってクソが。
王子Bはシーツに隠されていたのでばれなかったが……危ないところであった。
ライカ、マリー、イザベラを睨むも目が合うことはなく、俯き押し黙るばかり。
「……どうすんだよこれ……」
診察台の王子Bを指差し問いかけた。だが、その問いに答える者はいなかった。
愛の女神よ、ここからでも入れる保険はありますか?