秩序
少女は魔女である。
少女には百八通りの名があるから、なんて呼べばいいのか……。
少女の創造者を知る者はもういない。
冷たいガラスの中で創造されたことを、少女ですら忘れてしまった。
少女が初めて見た人間も、今では土塊であろう。
セイジョ――少女の脳裏に愛を表す言の葉が紡がれる。
少女は夢を見る、二人で溶け合い愛し合う幸せな夢を。
おそらく、極度の渇望が見せた泡沫の夢なのであろう。
けれども、今だけは秘めたる想いを語り明かすがいい。
なぜなら、夢は静寂に溶け全て忘れてしまうのだから。
目覚めた少女は、初恋の痛みを胸にしまうと落涙した。
セイジョさえいれば少女は幸せだった。見守ることが愛だった。今までは……。
◇
話をしましょう。
あれは今から三百十四万……いや、二億五千万年前でしたか……まあ、よい。
時にとっては昨日の出来事だが、観測者にとってはたぶん、明日の出来事だ。
パンゲア大陸西部、ミラデイン王国の王都アーゼンタム。
まだ天国が存在した時代、運命に導かれた二人の少女がいた。
一人目は聖女。聖女セイジョ・セイジョ。冗談のような名前だが実在の人物だ。
二人目は魔女。魔女とは魔族あるいは悪魔に加担する人類の敵に対する蔑称だ。
終末を恐れた神が求めた希望或いは絶望。
失われた太古の魔法文明を知る者たちは、もういなくなって久しいが……。
それゆえに、同胞が集められたのだろう? 秘密を知る者よ、観測者よ。
やがてこそ、夢を食み、語り明かそう――
◇
からんからんと始を告げる鐘声が響く。教会が愛を讃えた。四時、明星が瞬く。
王都の貴族区、その最奥に王宮が鎮座している。それはそれは美しい庭園が王宮にはいくつもあり、季節ごとに変容する雅な景色が密かに神々を楽しませていた。
おお、見よ! 木々の片隅で動く影、春が色づく中庭に、金髪碧眼の男が独り。
かの男の名はジョセフ・カディーン・ミラデイン。
悲劇の王子と呼ばれ、歴史に残るほど芸術的な死を迎える哀れな人間だ。
マリー作『葬送の生け花』――ジョセフが死にゆく瞬間が描かれており、陰惨な美と醜い光芒の対比が素晴らしく、初めて見た時は感嘆で動けぬほどであった。
夜明け前、黎明の地で、ジョセフは一心不乱に剣の修練を重ねていた。
ジョセフの夢は果てしない。だが哀しいかな、その夢が叶うことはない。
今年の夏、兄で遊ぶのに飽きた妹にあっさり殺されるからだ。
享年十五歳。誰にも愛されなかった王子に墓碑はなかった。
◇
からんからんと朝を告げる鐘声が響く。教会が時を讃えた。八時、光明が差す。
王都の公共区、青空市の朝は早い。中央市場は多くの人々で賑わっていた。
ミラデイン王国は大陸で覇を争う三大国の一角で、王都に〈聖地教会〉が鎮座しているおかげで、多種多様な人々と商品が行き交う世界最大の都市となった。
刮目せよ! これが縁の力だ。人が集まり群れとなる。そして、国が生まれた。
まさに神々に弓引く所業。追放された咎人が楽園を築くとは、誠に不敬である。
さて、注目すべきはいつもとは違うあの長蛇の列。あれこそが変化の兆しなり。
その列の先にあるのは年季の入った屋台。
先祖代々肉の串焼きを売る若い女が独り。
かの女の名はナナ。この時代に生まれ変わった転生者であるが、さりとて転生者なんぞ掃いて捨てるほどいて珍しくもない。
ナナの前世は普通の高校生だった。誇れるのは弓道歴の長さだけだと自虐する、なんてことない普通の女の子だった。
弓道五段の昇段も確実と太鼓判を押されて、初めてナナは自分を誇りに思えた。
そう話す娘の姿に成長を実感したナナの母親は、夫の墓前で涙を流して喜んだ。
だが、ナナは弓道五段にはなれなかった。ナナは白血病に罹ったのだ。
昇段どころではない。さらに悪いことに末期であった。もはや助かる術はない。
ナナは己の命を諦めた。冷静に考えた結果、さして生きる理由がなかったのだ。
六日間部屋に閉じこもり悲嘆に暮れ、時に思索し時に発狂し、その果てに悟る。
前世はそれぞれなれど、ナナは幾千幾万幾億の転生者の一人であった。
転生後、修行し、名うての冒険者となる。栄光と挫折を繰り返す、青春の日々。
そして、転機が訪れる。
親不幸だった前世に思い悩み、親孝行のため冒険者を引退し家業を継いだのだ。
両親は別の街で二号店を開き、ナナは一号店の店主になった。
夢見て努力し、誇りと共に生き、守るべきものを見つけた。
なんてことない転生者。
ナナが売る肉の串焼きを聖女が大絶賛。孤児たちに買い与えたことで噂が一気に広まり王都の話題となる。そして、長蛇の列の大繁盛に至ったのだ。
青髪のボブカットが似合う猫の獣人の少女が、肉の串焼き三種盛りを購入した。
獣人のオッドアイ――左右金銀――が矯めつ眇めつ肉の串焼きを観察している。
かの獣人の名はターニャ。いや、ここで語るには余白が狭すぎる。後にしよう。
何? もったいぶらずに教えろと? 知っていること全部? 確かに一理ある。
その説明をする前に、今の世界の状況を理解する必要がある。大分長くなるぞ。
◇
からんからんと昼を告げる鐘声が響く。教会が理を讃えた。十二時、天を戴く。
王都の貴族区、王宮に最も近い一等地にミドラーシュ公爵家の邸があった。
いや、もはや邸とは言い難い。その大きさと豪華さはまさに宮殿であった。
敷地内でも格別に美しい中庭に、聖女派と国王派の貴族が勢揃いしていた。
宰相が合図すると、この日のために特注した格式高い青いドレスを着た王女が、騎士団長とその娘にエスコートされ、麗しくも楚々とした歩みで壇上に上がった。
幾百の視線に射抜かれた王女は動じることなく、さも当然とばかりに次期女王になることを宣言した。王子ジョセフを廃することを誓い、今後の展望を語る。
なんてことはない。とっくの昔に宰相は王子を見限っていたのだ。
国王派の筆頭貴族でありながら、王女と繋がり着々と国王派を切り崩していた。
最後まで忠義を尽くそうとした騎士団長もついに折れ、王女に屈した。
かの王女の名はマリー・カディーン・ミラデイン。
狂気の女王と呼ばれた、歴史に名を轟かせし、大陸全土を統一した覇者である。
狂気の女王はありとあらゆる街を焼き、見渡すもの全てを弄び、汚し、辱めた。
全てを玩具にし、飽きたら壊す。狂気の名の下に、命は皆平等に芸術となった。
賢明なる観測者ならお気づきでしょうが、あえて言いましょう。
まともなやつはいないのか? ええ、ごもっともでございます。
ですが、ご安心ください。所詮、苦しむのは低次元の存在です。
どれだけ苦しんだとしても、観測者には関係ないことでしょう?
おや!? しばしお待ちを……なんと……またもや変化の兆しあり。
カイ、メイ、レイ、孤児の三人組がなぜこんなところに? 何をしているのか?
三人で透明化の魔法を維持しているようですが、果たして魔力が足りるのやら。
なんと!? 現地調達というべきか、料理を早業で盗み食いしているではないか。
食事すれば魔素を少しばかり補給できるのは自明の理。塵も積もれば山となる。
大陸を焦土と化した狂気の女王と、三人組の運命が交わるとは誰が予想したか!?
いやはや、特異点はこれだから恐ろしい。
蝶の羽ばたきのように、意図することなく、運命を捻じ曲げてしまうのだから。
おお、我らが特異点よ、無法者の孤児たちですらお救いになるというのですか?
悪逆非道を尽くしあっけなく死んだ孤児たちを、どこに導こうというのですか?
◇
からんからんと夕を告げる鐘声が響く。教会が星を讃えた。十六時、地に満つ。
王都の公共区、その中心にある〈聖地教会〉の大浴場に聖務を終えた聖職者たちが続々と汗を流しにやってきていた。
セイジョとイザベラが大浴場に入場すると、いつにもまして注目を浴びた。
非公認団体〈聖女を愛でる会〉の面々が、セイジョを見極めんと監視している。
救貧のツェータ、普化のイオタ、巨擘のパイ、智将のサリア、四天王揃い踏み。
教会の最大勢力〈教会百名山〉の首魁アルファは、気配を消し周囲を観察する。
シータは今日同室になった美しい白痴の修道女を、甲斐甲斐しく世話している。
特定非営利活動法人〈毛食み隊〉の特攻たちは、理事長の不在を嘆き涙を流す。
今朝、セイジョとイザベラは大浴場で汗を流した。
その姿を目撃され、脚色された初夜の噂が教会内に瞬く間に広まったのだ。
イザベラがセイジョを洗い清める。イザベラの一挙一動から愛情が見て取れる。
セイジョがイザベラを洗い清める。洗いっこは幼い頃からの習慣と化していた。
ゆえに、セイジョには何の感慨もないが、イザベラは有頂天になった。
本来ならば、イザベラは神樹で首を吊り自殺するはずだった。
二人が湯に浸かると、はしたなくもイザベラはセイジョを後ろから抱きしめた。
命知らずなっ!? セイジョの背後は死地なり――イザベラ死す――と思いきや、強靭な理性でセイジョは殺戮衝動を抑え込み耐えたようだ。
ああ、いとおかし。なんと目が離せぬ二人であろうか。
初夜を妄想で脚色し、詩を交え情熱的に愛を語るイザベラのなんと滑稽なこと。
セイジョは愛を知らぬのだ。知らぬ者には何も語れぬ。それが道理であろう?
無論、知識だけならある。医学の知識は大聖女からしっかりと伝承されたのだ。
繁殖法も知識としてなら知っている。しかし、セイジョは同性愛を知らぬのだ。
なんという盲点! 同性愛を想像すらできないのだ。子供であるがゆえの盲点!
同性でスキンシップしても「それはそれ、これはこれ」と暖簾に袖押しである。
賢明な観測者の皆様方に恐るべき「セイジョの真実」を伝えねばなりません。
セイジョは九歳。まだ子供。色を知る年齢か? 冷静にお考えいただきたい。
聖職者にとって侍祭が実質「結婚」と同義であることをセイジョは知らない。
侍祭として初夜を迎えたことに、イザベラがなぜ言及するのか理解できない。
機微に疎く愛を知らないセイジョに愛を説いたところで、馬耳東風であった。
セイジョの「人に対する感情」は、食べ物の好き嫌いと同じ重さしかないのだ。
セイジョは賢い。表面上は聖女として期待されている振る舞いを擬態できる。
大人を参考に、子供ながらも態度や口調を状況によって使い分けているのだ。
しかし、それは外的側面でしかなく、奥底に隠された姿はまさに怪物だった。
けれど、けれどね、退屈な平和を破壊するのは、いつも怪物であろう?
◇
からんからんと夜を告げる鐘声が響く。教会が戦を讃えた。二十時、星が蠢く。
王都の貴族区、豪華絢爛な白き王宮、三階の執務室、その窓辺にて佇む影独り。
かの孤独な影は国王ミルザ・ドミナリアス・ミラデイン。
ミルザの憂いを帯びた視線の先、窓から遠くに見えるはミルザの息子――
語らねばなるまい。
何? 全部聞いた? お腹いっぱい? 遠慮せずとも、また聞かせてあげよう。
とはいえ、同じ話を聞くことほど苦痛なものはない。ゆえに、簡潔に述べよう。
一年前、王妃が死んだ。
王女が聖女に王妃の蘇生を依頼するが、国王は法律違反だとして猛反対する。
国王と王女の間で意見が対立し、王子はどちらの味方をするのか、迫られる。
王子は沈黙したまま、国王と王女が言い争う中で、身動き一つ取れなかった。
王妃は国王派の婦人会筆頭で、厳格な人物だった。恥か誇りか、苦渋の選択。
議論の末、答えは見つからず一旦解散となるが、国王は王妃の遺体を隠した。
王女は激怒した。激しく怒り狂い、暴れ回って、国王の骨が七十二本折れた。
国王は王女の怒りを受け止め不問にした。
しかし、国王は王妃の遺体を隠し続けた。王女は失望し、王子は後悔した。
後日、王妃の女神のタリスマンが消える。王妃は転生し蘇生の機会は失われた。
――修練を重ねる王子の姿に何を見る?
ミルザは窓辺から離れ机に向かうと、仕事を再開した。
◇
からんからんと終を告げる鐘声が響く。教会が縁を讃えた。〇時、常世は巡る。
王都の貴族区、王宮から離れた郊外にシェオルノーン男爵家の邸が佇んでいた。
貴族が暮らすには質素だが、歴史を感じる古き良き邸で、地味だが趣があった。
二階にあるバルコニーのベンチに座り、夜風に当たり、月を眺める女が独り。
女の名はエリシア・シェオルノーン。貴族の父と平民の母から生まれた庶子だ。
エリシアは努力の天才だった。
それゆえに、基礎学校の卒業後に受けた魔法学院の入学試験に一発で合格という快挙を平民で成し遂げたのも必然だった。
唯一無二の高等教育機関として、大陸全土から才能が集まる魔法学院は狭き門。
誰もが憧れる最高学府。胸弾む新生活。日々切磋琢磨し、学徒と真理を語らう。
エリシアは幸せだった、母親が死ぬまでは。
エリシアの母親は男爵家の侍女だった。
ありきたりな恋の末に、エリシアの母親は男爵の子を身籠り出産した。
エリシアの母親と男爵が結婚する可能性もあったが、結局そうはならなかった。
エリシアの母親は病床の死の間際に男爵と再会し、男爵に娘を託して息絶えた。
エリシアは誰も愛さない。愛する母親が死んで、エリシアの愛も死んだのだ。
エリシアは己も愛さない。愛を失った己には、何の価値も見いだせないのだ。
絶望したエリシアは、女王の側近として殺戮の限りを尽くす……はずだった。
エリシアは月を見上げる。母親がよく口にした、陳腐な愛の言葉が脳裏を過る。
愛などいらぬと捨てながら、それでも愛してしまった……エリシアは絶望した。
愛を守れぬ己に絶望したのだ。エリシアは苦悶し、愛と狂気の狭間で絶叫した。
◇
少女は月を見るのが好きだった。最愛の人と見る月が。
恋に堕ち、まどろみに落ち、堕落した夢と添い遂げる。
セイジョ――少女の脳裏に愛を表す言の葉が紡がれる。
少女は夢を見る、二人で溶け合い愛し合う幸せな夢を。
おそらく、極度の渇望が見せた泡沫の夢なのであろう。
けれども、今だけは秘めたる想いを語り明かすがいい。
なぜなら、夢は静寂に溶け全て忘れてしまうのだから。
目覚めた少女は、初恋の痛みを胸にしまうと落涙した。
セイジョさえいれば少女は幸せだった。今までは……。
何度も夢を見る。虚しく忘れてしまう甘く幸せな夢を。
幸せは与えられるものではなく至るもの。でも本当に?