狂想曲「初夜」急
人と獣の違いとはなんだろう? 聖典には「知恵」と記されている。
では、知恵の源はなんだろう? その源は「本」であると私は思う。
紙が発明され印刷技術が発展し、今では本は安価な大衆娯楽となった。
紙が安価になったことで、ある習慣が流行することになる。すなわち、日記だ。
日記に記された文字を見つめる。
その昔、大陸では数え切れぬほどの言語があり混沌としていた。
そのため、人々は言語の統一を試みるが、どの言語で統一するかで争いとなる。
見かねた女神が未知の言語を賜はし、その言語で統一するように神託を下した。
統一言語の始まりである。
統一言語は異世界の「日本語」を元にし、さらにローマ字やアラビア数字などが組み合わされた独特の言語体系となっている。古代語にはない特徴だ。
発音が簡単で聞き取りやすく覚えやすい反面、筆記の習得は難易度が高い。
女神教会は統一言語を広めるため基礎学校を発足し、識字率は劇的に向上した。
基礎学校は法律により義務教育として定められている。費用は全て無償だ。
六歳から十二歳まで、六年間の学校生活、青春の日々。ああ、羨ましい……。
悲しいかな、私に青春はない。基礎学校に通うことは叶わぬ夢だった。
とはいえ、珍しいことではない。
貴族など高貴な身分の人々は、基礎学校のような生温い教育を必要としない。
家庭教師や従者から、身分に相応しい高度な教育が施されるのだ。
当然、義務教育以上の知識を学ぶのだから、基礎学校に行く必要はない。
では、聖女に必要な高度な教育とは何か?
聖女に必要なのは破壊する術。すなわち、聖女神拳である。
必殺の暗殺拳を源流とする聖女神拳は、その習得に被験者が必要不可欠だ。
当然である。数多ある技の効果を確かめなければならないのだから。
確かめるということは、それすなわち犠牲にするということである。
極めるためには大量の犠牲が必要だった。
三歳から修行のため被験者たちを玩具にする日々――血に塗れた暴力の記憶。
獣で遊び、人で遊び、魔で遊び、妖で遊び、霊で遊び、神で遊び……。
ありとあらゆる敵を玩具にし尽くした。
終戦後、賊共が跋扈し治安は最悪だったが、玩具にしすぎて平穏を取り戻した。
ああ、悲鳴が、血しぶきが、なぜだか懐かしい。師匠とすごした赤熱の日々。
血潮が滾り思わず足をばたつかせる。白いネグリジェの裾がふわりと舞う。
背後の窓から月明かり、魔道具の灯揺れ、長い黒髪が床に広がる様は影のよう。
いつもの習慣、私は机に向かい日記に今日の出来事を書き記していた。
「……聖女全裸抱擁会で……ツェータが抱きついて……次にイオタが……」
大浴場で体を洗い清め、食堂で夕飯を食べ終え、自室の机で日記を書いていた。
今日の出来事を思い起こすと信じられないほど滅茶苦茶だが、これが平均的日常であるのは聖女的に明らかであった。日記には阿鼻叫喚の日々が綴られている。
いや、違う。日常に一つ変化が起きた。
イザベラだ。退屈な日常に現れた、平穏を乱す美しき魔女。
私の侍祭となった彼女は、今日から私と同じ部屋で暮らすことになる。
イザベラはソファに座り、私が貸した『百合の楽園』を熱心に読んでいる。
噂では〈聖地教会〉内部の事情を赤裸々に綴った告発本のような内容らしい。
大人しか読んではいけない本だが気になり、悪友のレイに貸してもらったのだ。
だが、読んでも内容が理解できなかった。
二人でベッドに入ると空を飛べるのはなぜだろう? まるで意味がわからんぞ!
『百合の楽園』は今年発売されるや、世界中で空前絶後の大ヒットを記録した。
そんな大衆娯楽のベストセラー本が、読書家の私には理解不能なのだ。
ああ、悔しい。あんなに楽しそうに読んでいるイザベラに嫉妬すらしてしまう。
いっそ内容をレイに聞いてしまうか? いや、ダメだ。それは敗北に等しい。
同い年に負けるのは聖女の沽券に関わる。レイにだけは弱みを見せたくない。
「……どうしたものか……」
ぽつりと心の声が漏れる。私の囁きを聞き逃さず、イザベラは美声を響かせた。
「どうかなさいましたか?」
どうかなさいましたかと聞かれれば、どうかなさっているけれども。
だが、イザベラに聞くのも屈辱的であることには変わりないわけで……。
いや、待てよ。子供の質問に大人が答えるだけだ。恥ずかしくなんかない!
とはいえ、嫌な予感がするのも事実。ここは慎重に質問をせねばなるまい。
日記を書く手を止める。机の正面、ソファに座るイザベラに視線を向けた。
来客用のローテーブルを囲むようにソファが四つ設置されている。
黒いネグリジェを着た彼女は向かいに座り、熱を帯びた瞳で私を見つめていた。
教会の支給品である黒いネグリジェが、美しさを引き立たせよく似合っている。
いや、違う。傾国の美女である彼女なら、何を着ても似合うのだ。
その美しさについ見とれてしまう。ああ、私のイザベラ……っていかんいかん!
正気に戻ると、眉間に力を込める。気合いを入れ直し、イザベラに質問をした。
「それ、貸した本……面白い?」
まずはジャブ、牽制で様子を見る。私の軽い質問にイザベラは軽やかに答えた。
「ええ、とっても」
彼女の顔がほころんだ。その奥ゆかしい姿が本の面白さを雄弁に物語っている。
よし、次は懐に入る。ボディが甘いぜ! 一気に踏み込んだ質問を投げかけた。
「ふーん、それで、そのう……内容ちょっと気になってさ」
「内容?」
「私、子供だから。それ、読んでも意味わからなくて……」
「…………」
私の質問に沈黙でイザベラは答える。否、熟考しているのだ。
私にも理解できるように、内容を要約するべく頭を働かせているのだろう。
揺らめく灯、彼女の長い赤髪が煌めく。
子供の質問に答えるのは難しい。無垢なる魂は繊細で、だからこそ慎重になる。
そもそも子供が読んではいけない本の内容を教えるべきか?
という問題もあるわけだが、果たして彼女はどう答えるのだろうか?
しばしの後、彼女の花唇が声を紡いだ。
「ある種の……技術書ですわ」
「技術書?」
「今まさに、わたくしに必要なことが記されておりますの」
「…………」
今必要なこと? 嫌な予感がひしひしとするものの、何のことだかさっぱりだ。
もうすぐ夜の鐘が鳴る。後はベッドで寝るだけだ。なのに、どうしてだろう?
今から楽しみが始まるのだと言わんばかりに、彼女は頬を赤らめ微笑んでいた。
これ以上踏み込むのは危険な気がする。
彼女はそれ以上何も語らない。子供の私に伝えられるのはそれだけなのだろう。
ならば、もう聞くまい。疑問は晴れないが、今そのことは置いておく。
日記に視線を落とし、筆を執り直す。あえて興味のないそぶりをする。
文字を書き記す滑らかな音、本をめくる乾いた音、静かに夜は更けてゆく。
からんからんと戦を讃える鐘声が響く。教会が夜を告げた。二十時、寝る時間。
その昔、人々にとって教会の鐘だけが時間を知る手段だった。
一日を二十四時間に分割し均等に扱う定時法の由来には諸説あるが、異世界からもたらされた知識であるというのが通説だ。
教会の鐘は四時間ごとに鳴らされる――
四時、始の鐘。
八時、朝の鐘。
十二時、昼の鐘。
十六時、夕の鐘。
二十時、夜の鐘。
〇時、終の鐘。
――六柱を讃える鐘声が迷える人々を導き、人々は女神たちに祈りを捧げる。
筆を置き、日記を閉じる。両手を突き上げて大きく伸びをすると、一息ついた。
「もう寝る時間だから、灯りを消してくれ」
彼女にそう告げると、日記を机の引き出しにしまい筆記具を片付けて灯を消す。
椅子から立ち上がると、視線を窓の外、満天の星空に向けた。
満月の下、私の師匠と聖騎士はいったいどこにいるのやら……早く帰ってこい。
ああ、なんだか腹が立ってきた。むしゃくしゃした時は寝るに限る。
机から離れると、部屋の隅にある大きなベッドに飛び込んだ。
ふかふかな感触が私の体を受け止める。
布団に潜り込むと猫のように丸まり、全身をぐっと伸ばす。
その勢いで頭が枕の元に辿り着き、小さな冒険譚が終わりを告げた。
「おやすみなさい」
イザベラに就寝の挨拶をするが、彼女は返事をしてくれなかった。
妙だなと、違和感を覚えたものの、まあいいかと流すことにした。
寂しいけれど、挨拶を強制するほど無粋ではない、寂しいけれど。
瞳を閉じて暗闇の世界に沈む。ぱたんと本を閉じる音が静謐な部屋に響いた。
イザベラの気配をうかがう。彼女は立ち上がると命令通りに部屋の灯りを消す。
彼女はあてがわれた部屋には行かず、なぜか私の元にゆっくりと近づいてきた。
寝首でもかくつもりか? いや、さすがにそれは……なら、何をするつもりだ?
おやすみのキスでもしてくれるのだろうか? 想像しただけで胸が高鳴る。
手に入るはずだったもの。母の愛を、その欠片を、与えてくれるのだろうか?
「…………」
ベッドの横、すぐ近くにイザベラは佇んでいる。心臓の鼓動が早まる。
おやすみのキスは額にするのか? それとも頬? 口は……さすがにダメだよ?
ベッドが微かに揺れる。気配が徐々に近づき、彼女の静かな息遣いが聞こえる。
聖女のベッドは特大サイズ、キングサイズよりさらに大きい。
ゆえに、おやすみのキスをするためにベッドに乗るのは自然なことであった。
何もおかしくはない。それなのに……この漠然とした不安はなんだ?
ふわりと、いい匂いが香る。香水ではない。体臭でもない。彼女は私を虜にする魔性の香りを身に纏っていた。彼女の鼓動が聞こえる。まるで早鐘のようだ。
彼女の温かな手が私の頭をそっとなでる。ああ、こんなに喜ばしいことはない。
おやすみのキスは私の憧れだった。覚えている限り、キスをされたことはない。
両親がしてくれたかもしれないが、そんな甘い記憶は私に残されていなかった。
待ちかねたぞイザベラ……さあ、母の愛を教えてくれ、その欠片をわけてくれ!
愛を知らない私は怪物。知らないからこそ、愛を求めてしまうのだ。
哀れなものだ。何が「愛の女神の聖女」だ笑わせる。まるで道化ではないか。
仄暗い思考が頭を冷やす。何を期待しているのだ? 他人に何も期待するな!
彼女が静かに布団の中に潜り込む。左肩に彼女の柔らかな体がそっと触れた。
横から彼女に抱きしめられる。彼女の左手が私の胸を滑るようになでた。
ネグリジェの擦れる音が耳を擽り、ぞわりと鳥肌が立つ。鼓動が冷えて静まる。
彼女は、イザベラは、何をしているのだ?
私の体を弄るイザベラが、あまりにも、あほらしいほどに、酷く滑稽に思えた。
心の井戸から、沸々と怒りが湧き上がる。
怒りに気づかぬほど耄碌したのか、彼女は夢中で私の体を貪るように弄ぶ。
胸を腋を腹を、汚らわしい手で弄られる。
しばしの間、上半身をなで回された後に、魔女は下着に禍々しい手を伸ばした。
ぷつりと何かが切れる音が頭に木霊する。痴れ者死すべし、慈悲はない。
刹那、体が疾風のごとく動き出す。布団をはねのけ、魔女の両腕を掴んだ。
そのまま馬乗りになると魔女を磔にする。腕を千切らんばかりに力を込めると、骨が軋む心地よい音色が奏でられた。
魔女は苦痛の表情を浮かべ、私はただただ無言でそれを見下ろす。
「…………」
その腕を手折ろう。私を失望させたのだ。だから、私に殺されるべきなんだ。
ああ、魔女のイザベラ。おまえは私を怒らせた。現人神である私を怒らせた。
結局、おまえは殺していいやつだった。ああ、本当に本当に心底失望したよ。
ああ、涙を流すのだな。その涙は己が為の涙だ。なめるな腐ったメスブタが。
その首を手折ろう。寝所を汚さぬために。そして、美しい肉体を壁に飾ろう。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
魔女は壊れた玩具のように、震える声で私に謝罪を繰り返す。
ごめんなさいですめば、聖女なんていらねえんだよ。儚げな声が苛立たしい。
もういいや、殺そう。壊れた玩具なんて必要ない。臭い口を閉じろ下衆が――
『聖女よ、おやめなさい! その者を殺めることまかりなりません』
突如、頭の中に神聖不可侵なる天声が響いた。守護女神である愛の女神から神託を受けたのだ。愛の女神と対話するため、心を天に解放し祈るように語りかける。
『愛の女神よ、なぜですか? イザベラは魔女、聖女の敵、殺すべき異端者です』
『そこまで言わなくても……』
『お言葉ですが、あえて言います。屑であると! 聖女を弄ぶなど万死に値する』
沈黙。否、熟考。私は裁きを待つ咎人のように、静かに愛の女神の判決を待つ。
『……更生の機会を与えるべきではありませんか?』
愛の女神は重々しく私に問いかけた。だがしかし、それは愚問であった。
『逆に聞きたいのですが、更生って必要でしょうか?』
『は?』
『罪を償うのが罰ならば、更生を贖罪とするのはおこがましくありませんか?』
『は?』
『同害報復がいい例ですね。罪を償うのに必ずしも更生は必要ない――』
『黙れ』
『あっはい』
『悪魔のように汚れたその言葉を二度と口にするな汚物め』
『あっはい』
『聖女よ、更生は必要です。いいね?』
『あっはい』
――神託が終わったのを気配で感じる。この間〇・〇一秒。
それで、つまり、どういうこと? 更生が必要なのは理解した。
まあ、イザベラも後悔してるようだし更生の余地はあるはず……あるよな?
このまま許しても大丈夫か? 今年の流行語「問題ない也」と呟き自己承認。
罪を許し更生させるため、罰を与えるべきだ。与えていいよな? 信じてるぞ!
「よし! いっちょ拷問……じゃない、贖罪させますかね」
建前は大事。拷問でも暴力でもない。あくまで贖罪、罪を贖う罰である!
泣いて許しを乞うていた魔女は、事態が飲み込めないのか呆然としていた。
魔女は目をしばたたかせる。緊張が緩んだのか、口からぽつりと思考が漏れた。
「え……あっ……ごー、むーん?」
「違う違う、拷問、罪を贖う罰だ」
魔女の問いに即答し心の底から微笑む。さあ、楽しい楽しい拷問の始まりだ!
今夜の主役は大罪を犯した魔女。どんな芸術作品に仕立てあげてやろうかな?
まずは献立を決めなければならない。さて、どう料理したものか?
殺すのはご法度。命で償わせず、それでいて罪を贖う罰……まるで禅問答だな。
『愛の女神が聖女の侍祭を救うため、更生の機会を与えるよう求めた。なぜか?』
『レズのサディストだから』
『……不正解です』
理がもたらす問いに星が答える。理の女神と星の女神から神託を賜った。
意味不明な回答――禅問答で遊んでいるようだが、よほど暇なのだろうか?
『拷問だ! とにかく拷問せよ!』
『永遠とは悲しいもの。平和とは退屈なもの。聖女よ、世界を芽吹かせるのです』
『聖女なら殺さずに拷問するのは容易なこと。とにかく拷問だ、拷問にかけろ!』
戦が求める苦痛と縁が導く希望。戦の女神と縁の女神から神託を賜った。
私と師匠以外の聖女が死に絶えたせいか、女神たちはやたらと絡んでくる。
聖戦が終わり守護する聖女もいない。女神たちが暇を持て余すのも仕方がない。
愛の女神ですら暇そうなのだ。私で暇つぶしするのも仕方がない。
戦の女神がお狂いになられているのは、拷問の期待感で興奮しているからか?
ふと冷静になる。果たして、イザベラを拷問する必要性があるのだろうか?
こうも拷問しろとせっつかれると、逆に興醒めするというか、萎えるというか。
よくよく考えると、同棲相手を拷問するってなくない? まあ、ぎり、ないな。
だいたい拷問した後、どう接しろと? 殺せない拷問とか、逆に拷問だろ。
拷問するときは、楽しくて、なんというか、さっぱりしてなきゃダメなんだ。
苦痛、絶望、無関心。拷問して、殺して、忘れるからこそ心から楽しめるのだ。
この状況に苦慮していると、そんなこと気づきもしないイザベラが喋り出した。
「聖女様? いったい何をなさるおつもりで――」
「黙れ」
煩わしい声を遮った。今は声を聞きたくない。殺戮衝動の手綱を微かに緩める。
「許可なく喋れば殺す」
殺気を込めて告げると、彼女は硬直し、無言で汗を噴き出した。言葉を続ける。
「例えば、貴族の娘が従者に襲われたとして、その従者はどうなると思う?」
殺気を緩めイザベラに返事を許す。紫の瞳を見据え、無言でただ返事を待つ。
二人の吐息が静寂に溶ける。しばしの後、イザベラはおもむろに口を開いた。
「……殺される、かと……」
歯切れが悪いのは私刑だからだ。名誉を守るため秘密裏に……そういうことだ。
とはいえ、裁判したところで死刑確定だろう。それほどの重罪だ。彼女に問う。
「聖女である私が、侍祭に襲われたわけだが……殺さない理由を教えてくれ」
彼女に弁明の機会を与えることにした。さて、どんな言い訳をするのやら。
「わ、わたくし……きっと、下手、でしたのね……」
うん? 下手? 何が? 雲行きが怪しいが、一応最後まで話を聞こう。
「は、初めてで……それでも、ご満足いただけるよう、努力いたしましたの……」
初犯ってことか? 余罪がないだけましか……いや、そういう次元の話か?
「……聖女様、名誉挽回の機会をわたくしに! どうか、どうか、何卒……」
何だか知らんが、反省してるようではある。更生の余地あり。ならば――
「まあ、よい。許すゆえ、全身全霊で尽くしなさい」
「っ……せ、聖女様……ありがとう、存じます……」
――結局、許すことにした。全部水に流して、刹那で全部忘れる。
聖女を汚そうとした罪人を許すだなんて、己の優しさに感動すら覚える。
彼女が何を求めたのか知らないが、求めるならまず与えなければならないのだ。
求めても与えられることはなく、与えなければ求められることはない。
だから私は与える、望みを叶えるために。
瞳を見つめて微笑むと彼女に顔を寄せる。
息がかかるほどの距離、鼓動重ね合わせ、赤い髪に手を伸ばすとそっとなでた。
額にかかる赤い髪を指で優しくかきあげる。二人の間で微かに赤い糸を引いた。
「イザベラ……」
唇を寄せ、目を閉じ、イザベラの額に口づけをする。思いが伝わるように希う。
「……あっ……」
微かな声を聞き、不思議と胸が痛む。額から唇を離し、目をゆっくりと開いた。
りんごのように赤い頬、涙を湛えた彼女の顔が真っ赤に染まった。
これで仲直りだね。もうおいたはダメよ?
馬乗りになるのをやめて、布団を掴むと、彼女の左隣に寝転んだ。
彼女の左肩、その付け根に頭を乗せると、体を寄せて、腕で首を支えてもらう。
彼女に布団をかける。春とはいえまだ夜は冷える。一緒に寝るのも悪くはない。
「おやすみなさい」
再び就寝の挨拶をするも、イザベラの返事はなかった。寂しい。
流し目で見る暗い天蓋が、まるで失くした井戸の底のようで……。
もう何も考えまい。イザベラにこの身を預け、温かい、目を閉じ夢の中へと――
弄られる。何度も、何度も、執拗に……イザベラ、おまえ、おまえ、おまえッ!!
――まだ、まだだ。今なら許してやる。見過ごしてやる。寝てるふりしてやる。
だから、なで回すのをやめろ。舌の根も乾かぬうちに、罪を重ねるのをやめろ。
彼女は私のネグリジェをめくり、その手で肌に直接触れると感嘆の声をあげた。
「……怖いくらい、気持ちいい……」
血の運命か、私はあらゆるものに好かれやすいという呪いの力を持っていた。
当然、洗脳のような危険な力ではない。
可愛い声、いい匂い、安らぐ気配、美しい姿、狂おしい味、幸せな触り心地。
マリー曰く「愛され体質」らしい。
特に肌の触感が奇跡的らしく、ライカ曰く「全身麻薬人間」だとか。
私のマッサージを「至上の喜び」とマリーは絶賛していたので的を射てはいる。
イザベラはお腹がお気に召したのか、ずっとその手で弄んでいたが、するすると胸に手を伸ばしてきた。恥知らずにもほどがある。低く冷めた声で彼女に問う。
「なぜ触る?」
所詮、全ての命は等しく無価値である。
とはいえ、殺していいかどうか見極めなければならない。ああ、めんどくさ。
イザベラ、教えてくれ……殺さない理由があるか? 六文字以内で述べよ。
「ふぇ!? あの、わたくし、そ、その……」
六文字超えたぞ? ああ、どう殺そう。ベッドは汚したくないな。無に還すか?
「……聖女様と、幸せに、なりたくて……」
幸せとは何だ? 無遠慮にべたべた触ることと、幸せがどう繋がるのだ?
「……ごめんなさい……上手に……できなくて……ごめんなさい……」
屈辱を与える手腕なら上手かもしれんぞ? 自殺選手権の絶対王者かてめえ?
「……初夜を成し遂げるには……もう……これしか……ご、ごめんあそばせ!」
布団をはねのけて、彼女が私を押し倒す。
仰向けにされ馬乗りかと身構えるが、予想に反し彼女は驚くべき行動を見せた。
彼女が私の股間に噛みつく――直前、ふとももで彼女の頭を挟み攻撃を防いだ。
イザベラはついに狂ったらしい。辞世の句くらいは聞いておくべきだろうか?
「言い残すことはあるか?」
冷たく問う。むしろ褒めるべきか? ここまで聖女を侮辱した者もおるまい。
「お、お任せくださいませ」
任せる? おまえに任せられるのはイザベラ処刑ショーのプロデュースだけだ。
「最後のチャンスをやる。私の機嫌を取ってみろ。許してやるかもしれんぞ?」
最終通告。最後の慈悲を与えることにした。生きるか死ぬか、選びなさい。
「恐れ入ります。身命を賭して、精一杯、努めさせていただきますわ!」
その意気やよし! 脚の力を抜き彼女を解放した。信じてるぞ、イザベラ。
すると、彼女が私の下着に手をかけ脱がす――直前、手で下着を抑え阻止した。
「何をする気なのかな?」
一応聞いておく。理由くらいは知っておくべきだ。彼女は躊躇いがちに答えた。
「な、舐めるの……ですわ」
なめてんのか? いや、まだなめてないが……なめてんのか? なめてんな。
聖女ポイントマイナス百億。もはや何回殺すかの段階に入ってんぞ、てめえッ!!
私を辱めようってことか? そっちがその気なら、もはや手加減などできんぞ!
瞬間、起き上がると下着を掴む手を払い、彼女に組みつき反り投げで押し倒す。
そのまま馬乗りになると、彼女を睨みつけ、怒りを爆発させ大声で言い放った。
「子供に欲情するな! このド変態がッ!!」
異常性愛者というやつか? まさか、子供の私に欲情するとは信じられん。
傾国の美女のくせに……いや、だからこそ危険だ。主として修正せねばならぬ。
殺そうかと思ったが、心の病気なら治療できるかもしれない。
心理療法は専門外だが、試す価値はある。
傷つけないよう優しげな声で、彼女の心の奥底に語りかけた。
「いいかい、イザベラ。私は九歳の子供で、おまえは十五歳の大人なんだ」
できるだけ柔らかな声音で語り続ける。
「言ってる意味がわかるね? たとえ欲情しても、手を出してはいけないよ」
紫の瞳からぽろぽろと、宝石のように輝く涙が零れ落ちて、幾筋の滝となる。
イザベラは静かに泣き出した。客観的事実を認識して、正気に戻ったのか?
それとも、願望を成就できない己の悲劇に泣いているのか? 言葉を続ける。
「添い寝は許そう。体に触れるのも許そう。だが、私を汚すのは許さない」
イザベラが異常性愛者だとしても、だからといって見捨てることはできない。
幼子に言い聞かせるように教える。導くのが主の義務だ。ああ、めんどくさ。
賢さを評価して侍祭にしたのに、予想に反して彼女は超弩級のおバカだった。
おバカは私の聖騎士だけで十分なのに、おバカ二人の世話とか憤死させる気か?
なんだかバカバカしくなって、感情が抜け落ちる。冷めた思考、いつもの私。
熱しやすく冷めやすい。悪い癖。あれだけ満ちていた殺意も既に霧散していた。
母性本能というやつだろうか? 彼女が哀れすぎて世話してあげたくなるのは。
馬乗りをやめて布団を掴むと、イザベラの左腕を枕にして寝転び布団をかける。
彼女のふとももに足を絡ませて、手を腰に回し、体を密着し力強く抱きしめた。
これだけくっつけば、安眠を邪魔できまい。イザベラめ、抱き枕にしてくれる。
「いい? もうおいたはダメよ? ほら、一緒に寝よ。仲直り、ね?」
幼子を諭すように語りかけた。イザベラの心の奥底は、まだ幼く柔らかいのだ。
静かに嗚咽するイザベラのお腹を優しく摩る、心が壊れぬよう、温めるように。
彼女は元公爵令嬢、温室の汚れを知らぬ花だ。血に塗れた殺戮者の私とは違う。
「おやすみなさい」
これで何度目だ? もうこれ以上言わせんなよ? 就寝の挨拶をし目を閉じた。
相変わらず返事はない。嗚咽が静寂に響く。とんとんと手で触り優しく労わる。
しばしの後、嗚咽の中で甘い吐息が耳を擽る。肩を抱かれ、脚と脚が絡み合う。
瞳に差す月明かり、劫初の夜に一首。狂い咲く柳神座花乱れ有明の月寂に玉響。
一人で狂い咲く彼女が涙を流す。物静かで奥ゆかしい、彼女の二面性、別の顔。
乱れた彼女を慰めるため、お腹をなでて落ち着かせる。喜悦の声が静かに響く。
額に柔らかな感触が触れる。芽生えを確かめるように、彼女が花を落とす。
やまない姉妹愛。幸せな感触のはずなのに、煩わしい。なでる手を止めた。
二人の間に静寂が訪れる。情感の雨はやみ、月明かりが陰り、闇に微睡む。
「ぉ……おやすみ、なさい……ぁ……っ」
欲した言葉、彼女が囁き、心を通わせる。でも、わからない。わからないんだ。
イザベラは私を愛してくれたのだろう、彼女なりの方法で。それは理解できた。
でも、私は幸せを感じない。心の井戸は底なしで、何もかもが零れ落ちていく。
愛さえあれば、幸せになれると信じていた。イザベラは私を愛してくれたのに。
なのに、なのに、何も感じない、何も感じないんだ。私は、私は、怪物だった。