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聖女、グレる。  作者: 水神流文筆道開祖
第一章 聖女と悪魔の前奏曲
11/22

狂想曲「初夜」破

 大浴場の湯船に肩まで浸かる。

 混雑しているとはいえ、湯船は広大で各々がゆったりと湯に浸かり、ゆっくりと疲れを癒すのに十分な空間の余裕があった。

 倒れ込むようにして背中から湯にその身を預ける。湯に沈み、浮かび上がる。

 行儀が悪いが、そんなことは気にしない。髪を湯につけることも気にしない。

 なぜなら、聖女だからだ。聖女は正しい。聖女こそ道標。聖女は間違えない。

 ゆえに、清廉潔白であらねばならぬのだ。私よ私、克己せよ。


 体を伸ばし力を抜く。湯にその身を浮かべ、大浴場の天井をぼんやりと眺めた。


 豪華絢爛な天井画には創世神話が描かれている。

 神代の時代から〈聖地教会〉は存在するので、この大浴場は気が遠くなるほどの昔から聖職者の疲れを癒してきたのだろう。なんともありがたいことである。

 風呂を発明した先達に感謝し、この世界を創り賜うた愛の女神に祈りを捧げた。

 祈りとは心の所作。だらしなく湯に浮かんでいても問題ない。


 問題が山積みだが、今そのことは置いておく。とかしてるから山積みなのだ。


 あまり器用ではないのだ。並列処理が苦手で、一つのことに没頭していたい。

 そういう質だからか、問題の解決を先送りにしがちなのは私の悪い癖だった。

 まずは整理しよう。早急に始末するべき問題を思い浮かべて、羅列するのだ。


 第一の問題、王子ジョセフ・カディーン・ミラデイン。

 ジョセフはしくじった。公衆の面前で私に斬りかかった。もう終わりだ。

 平民も貴族も聖職者も、誰もがジョセフを見限るだろう。だからこそ、危うい。

 そして、違和感、その根源、男爵令嬢エリシア・シェオルノーン。

 本当にジョセフの恋人なのか? エリシアにその気はなさそうだが……。

 ジョセフはエリシアと共謀しイザベラを陥れた。しかし、それは自殺行為だ。

 王位が遠のくだけなのに……まったくもってらしくないぞ……ジョセフ……。

 赤子の頃からよく遊んでくれた。ジョセフとマリー。初めての友達。

 ズキリと抉るように心が痛む。ジョセフが破滅しようが、私には、関係ない。


 第二の問題、元公爵令嬢イザベラ・モックス・クレニア。

 彼女は私を狂わせる。私のイザベラは魅力的すぎるのだ。

 彼女は侍祭として同居し侍ることになる。寝室は別だが、嫌な予感しかしない。

 私は正気を保てるのか?

 私の聖騎士よ、おまえのアホ面が恋しい。おバカに頼るのは癪に障るが……。

 止めることができるのは、おまえだけだ。早く戻ってこい、私の聖騎士よ。


 第三の問題、大聖女ハオウ・セイジョ。

 いや……これは優先順位をつけれるような問題ではない。

 今は処理できない問題だから後回しにされているだけだ。

 これは生涯を賭けて始末しなければならない問題である。

 ママとパパを殺した師匠を許すことなど、絶対にできない。だから、私は――


「セイジョ……どうしたの? 怖い顔して……」


 ――湯に浮かぶ私に声をかけた少女が、上から私の瞳を覗き込む。

 深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ。

 師匠の著書『心に残る金言集』に書かれていた言葉だ。

 少女の深淵を覗き込む。金色の光明な瞳には、黒色の暗澹な瞳が映されている。

 闇夜に潜む獣のような黒い髪、病的で不死者のような白い肌、瞳に映る私。

 怪物を金色の瞳に映す、足首まで伸びた金色の髪が美しい、艶めく白肌の少女。

 少女が心配そうな……実際、私のことを心配しているのだろう。

 世界一好きな声なのに、久しぶりに聞いた気がする。

 ああ、ああ、どうして、私を見捨てたの?

 優しく、聡明で、美しい。彼女に、何か、返事をしなければ……でも、何を?


「……アルファ……」


 彼女の名を口にする。生まれて初めて、口にした言葉――世界一好きな言葉。

 気の利いた言葉をかけることができればよかったが、どうにも思いつかぬ。


 暗い気持ちを引きずったまま、ただアルファを眺めていた。


 アルファは私と同じ背丈で、胸がなだらかな、見た目は九歳前後の少女。

 だが、彼女は私が赤子の頃からずっと変わらない。全く成長しないのだ。

 エルフなど、長命種との血縁というわけでもないらしい。

 私と同じく両親を知らない孤児で、出生についても謎だ。

 彼女の優しい眼差しをじっと見つめていると、彼女は私に右手を差し出した。

 立て、ということらしい。

 湯に浮かぶのをやめて起き上がると、彼女に向き直り、差し出された手を握る。

 彼女の体温がじんわりと伝わる。その感触をじっと確かめてから立ち上がった。


「…………」


 二人、無言で見つめ合う。視線と視線が交じり合い、息と息が絡み合う。

 彼女は私の手を離すと、おもむろに、優しく、その身で私を包み込んだ。

 彼女の両手が私の背中を摩り、彼女の胸が私の胸に吸い付く。

 彼女と私、腹と脚が密着し、熱く蕩け、私たちは溶け合った。

 抱きしめられた私は、彼女の背に手を回し、瞳を閉じ、彼女を抱きしめ返した。


 赤子の頃から世話をしてくれた彼女は、母親代わり、なのだろうか?


 司祭アルファ。世話をしてくれたのは彼女だけじゃない。教会の全員が家族だ。

 いや、家族代わりか。縁の姉妹。本物ではない。このぬくもりですら、偽物?

 違う、真偽では測れぬものだ。わかっている。だからこそ、許せない。


 もし私が師匠を殺したら……アルファは、私を、殺すのだろうか?


 このぬくもりを与えてくれる彼女が、私を憎むのか? 私は、耐えられるのか?

 怪物にならなければ……本当に? 罪を許すことも必要なのだと理解している。

 それでも、それでも、心は叫び続けている。許すなと、復讐しろと、惑うなと。


 だが、今そのことは置いておく。復讐相手がいないのだ。置いておくしかない。


 強張った体から力が抜ける。この身をアルファに預け、赤子のように微睡む。

 温かな手が頭をなでた。ああ、このぬくもりを永遠に浴びていたい。私は――


「そこ! 列を乱さず、ちゃんと並べ!」


 ――うるさい……誰かが大声で……ん? んんん? なぜ大勢の気配がする?

 すわ何事か? 周囲の様子を確かめるため、意識を叩き起こして瞳を開いた。

 アルファの肩越しに見た景色は、人、人、人、長蛇の列……いやいやいや!?


「なんで?」


 思わず声を漏らす。彼女から身を離しその瞳に問うが、困惑した表情を浮かべるばかりで状況を飲み込めていないようだ。何もわからないまま、ただ二人佇む。

 いつの間にか近くにいた見慣れた褐色の女が、アルファの肩に手をかけた。


「次の方どうぞ~」


 言うや否や、アルファが私から引き離されてしまった。

 まるで壁紙でも剝がすように、軽々とぬくもりを奪われる。

 いや、それよりもこの状況……まるで意味がわからんぞ!

 こういう時は素直に聞くのが一番だ。包容力Gの褐色の女、司教サリアに問う。


「どういう状況? 説明を――」


 だがしかし、問う前に健康的な肉体を弾ませた可憐な幼女が私に抱きついた。


「ツェータ、なぜ――」

「ああ! 聖女さま!」


 抱きついてきた幼女――ツェータに問うが、興奮しているのか耳に入らぬ様相。

 意味不明な状況だが、私よ、冷静になれ。

 サリアはツェータの肩に手をかけ私から引き離すと、長蛇の列に向けて告げる。


「次の方どうぞ~」


 言うや否や、待機列の先頭から健康的な肉体を弾ませた狐女が私に抱きついた。

 状況は理解できないが、元凶だけは察しがついた。元凶であるサリアに言った。


「サリア! おまえ、何してくれてんの?」


 王子並みに背が高い、精力的な褐色の肌が眩しい司教サリアを鋭く睨む。

 だが、さも当然といった具合に、飄々としたサリアは悪びれもせず言いのけた。


「聖女全裸抱擁会でございます」


 ございます、じゃないが? いやいやいや、聞いてないよそんな会!?


「聞いてないんだけど……」

「ええ、言ってませんから」


 私の問いにサリアは即答する。あ、そっか、言ってないんだ……っておぃいい!

 ざっけんなこらー! 本人の了承を得ずに変な会を催すな! サリアァアァア!


「死にたいらしいな」


 抱きついてきた狐女――イオタを体から離すと、怒りとは裏腹に低く冷たい言葉を送った。脅しの言葉としては簡素で、最期に手向ける言葉としては凡庸だった。

 だが、脅しなど気にもしない。サリアは野性的な短い青髪を右手でかきあげる。

 碧眼を輝かせたサリアが、鍛え上げられた体を見せびらかすように私に向けた。

 大人の余裕か? 腹筋が割れて、四肢は強靭、それでいて優美な曲線が美しい。


「教会は言うなれば運命共同体。俺はそう信じて生きてきました」


 急にサリアが語り出した。大仰な仕草を交え、サリアは私に訴える。


「本当の家族は俺を捨てた。けど、俺には教会のみんながいる! みんなが一人のために、一人がみんなのために。だからこそ、この世界で生きていける」


 聖職者には孤児が多い。

 聖職者は世俗から切り離され、還俗は許されず、結婚もできない。

 家族が存命にもかかわらず教会に送られるということは、家族から捨てられたも同然であり、血を分けた家族から縁を切られるということにほかならない。

 司教サリア・ルーエン・ハート。

 元伯爵令嬢で、度を越した男性的な振る舞いが原因で勘当され教会に送られた。

 十年前、当時サリアは十歳の少女だった。

 サリアも赤子の頃から世話をしてくれたのだが、静かに見守るアルファとは違いなんというか……情熱的というか……はっきり言えば、サリアは狂っていた。

 いつにもまして狂っているサリアは、己の行いを正当化するため熱弁する。


「教会は姉妹、教会は家族。互いに頼り、互いに庇い合い、互いに助け合う」


 嘘ではない。私たちは血の繋がりがなくても、固い絆で結ばれている。

 長い歴史の中で互いに支え合うことで教会は生き残ってきた。

 私たちは家族、私たちは姉妹、尊き縁。

 サリアは情熱的な仕草を交え、みんなの賛同を求めるように熱弁を続ける。


「俺たちは、何のために集められたのか? それは、聖女を愛でるためだ!」


 ん? 聖女を守り導くためでは? いや? 似たようなものか?

 雲行きが怪しくなってきたが、ここで止めるのも無粋であろう。熱弁が続く。


「俺たちには! 平等に! 聖女を! 愛でる権利がある!」


 確かに言われてみれば……そうだろうか?


「聖女は! 俺たちを! 平等に! 愛でる義務がある!」


 義務と言われると、なぜだか心が冷える。


「これは教会創立以来、変わらぬ理念であり、魂の救済である!」


 うーん? 拡大解釈すれば、そう捉えられんこともないかもしれんが……。

 それと変な会がどう繋がるのだ? 疑問を吹き飛ばすようにサリアは叫んだ。


「ゆえに! 聖女全裸抱擁会の開会を宣言する!! みんな! 集まれぇえぇえ!!」


 おいぃいぃい! おいぃいぃい! 何してくれてんだ、おまえぇえぇえぇえッ!!

 サリアの宣言により、事の成り行きを見守っていた家族が一斉に列に加わった。

 今この時をもって、大浴場は聖女全裸抱擁会の会場と成り果てた。

 成り果てた、じゃないが?

 にやにやと笑うサリアが勝ち誇ったように胸を張り、私に問いかけた。


「まさか家族と抱擁するのが嫌? アルファとは親密に抱擁しといて、嫌なの?」


 確かにサリアの言い分は正しい。正しいが……いや、本当に正しいか?

 全裸の子供を大勢で抱擁するのは何らかの法に触れるのでは? 私は訝しんだ。


「私は子供だぞ。大勢で全裸の子供に触れるのは、どう考えても違法行為では?」

「聖女は現人神であらせられる。ゆえに、人ではありません」


 問いにサリアは即答し、さらっと私の人権が葬られた。続けてサリアは言った。


「家族が現人神との交わりを待ち望んでおります。その抱擁で、家族に救済を!」


 現人神が人ではないのは事実。それにアルファとは抱擁しといて他のみんなとはできないなんて、そんな不義理なことがあるだろうか?

 思い悩んでいると、ダメ押しとばかりに、真剣な声音でサリアは囁いた。


「俺たちは家族として聖女の御心に触れたいだけ。さあ、公平にお与えください」


 御心に触れる? その手段が抱擁? そうかな……そうかも……どうだろう?

 公平に与える? 何を? 慈悲? だが、慈悲とは何だ? 抱擁が慈悲なのか?

 教会は公平を重んじる。

 現人神である聖女が、公平の理念を踏みにじるわけにはいかない。

 たとえ何が何だかわからなくても、公平に与えねばならないのだ。

 私の姉妹、私の家族は、私を求めている。それくらいはわかった。

 ええい、ままよ! 救われるというのなら……全員まとめて、どんとこいや!


    ◇


 虚無。巨乳ではなく虚無。いや、巨乳?

 そうだけど、そうじゃない。私の心は虚無で満たされていた。

 なぜだろう? アルファから感じたぬくもりが、他の者からは感じられない。

 いや、大切にされているのはわかる。だけど、アルファとは何かが違う。

 百人から先は数えていない。女を抱くのはもう飽きた。

 放蕩を尽くした遊び人のような気持ちになるのも、仕方がないことであろう。

 ただただ流れに身を任せて抱擁する。


 もう何も考えられない……されるがまま……いや、待て、待て! 正気に戻れ!


 おかしくないか? なぜこんなことを? まるで玩具ではないか?

 現人神に対する礼儀かこれが? とても敬い奉る扱いとは思えぬ!

 だが悲しいかな、正気に戻るも長蛇の列はなくなり、最後尾ただ一人であった。


「シータ、おまえもか……」


 最後尾の修道女シータにうんざりしながら言った。

 まともな大人だと信じていたのに、結局おまえも私を玩具にするのか?

 欺瞞でやさぐれた心が猜疑に揺れる。

 シータは私に近づくと、柔らかな腕で包むように抱擁し耳元で優しく囁いた。


「ご立派です、聖女さま」


 ご立派? 何が? 女を抱くのが、そんなに立派か?

 丸め込まれてるような違和感が拭えないのはなぜだろう?

 それとも、私の心が汚れているからそう感じるだけなのか?

 だが、今そのことは置いておく。シータの背に手を回すと、抱きしめ返した。


「ぁあ……聖女さまぁ……」


 シータは甘やかな声を漏らすと、遠慮がちに私をなで回した。

 柔らかな感触にうずもれる。背中を摩ると、シータは歓喜の声を奏でた。


 家族として抱擁を求められたのなら、ただ黙って抱擁するだけだ。


 私の姉妹、私の家族、幸せを願い、その人生が喜びで満ち溢れるよう天に希う。

 私がこうすることで喜ばぬ女はいなかった。ならば、喜ばしいことではないか?

 だがしかし、なぜこうも心は晴れぬのか? もやもやするのはなぜなのか?

 シータが喜びに満ちてゆく。なぜそんなに喜ぶのか? 私にはわからない。


「次の方……はもういないか」


 サリアがそう言うと、その手によって軽々とシータが私から引き離される。

 やっと終わった。やり遂げた。私はやったんだ! いや、何をやってるんだ?

 達成感と虚しさが入り混じる。いや、本当に何をやってるんだ私は……。

 複雑な気持ちなど露知らず、サリアは私を抱き寄せると、大声で力強く告げた。


「聖女全裸抱擁会の閉会を宣言する! なお〈聖女を愛でる会〉はいつでも寄付を歓迎している! 参加者の面は全員覚えているからな! そのことを忘れるな!」


 ん? んんん? 寄付というよりは恐喝に聞こえるのは気のせいだろうか?

 真意を確かめるためサリアの瞳を覗く。目は口ほどに物を言う。

 大抵の場合、その瞳を覗き込めば、真意が透けて見えるものだ。

 サリアの瞳は愉悦で蕩け恍惚としていた。サリアが私を見つめてにやりと笑う。

 幼い頃より見慣れた、サリアが私をからかう時の、太陽のような笑顔。

 騙された――直感がそう言っている。もやもやを吐き出すように疑問を呈した。


「いくら家族だからといっても、全裸で抱擁するのはおかしくないか?」

「まあ、そうですね、一般的には」


 あ、やっぱり。なんか変だと思ったんだ。そっかそっか、私は正しかったのか。

 どうも家族との接し方というものが、私にはいまいちよくわからないのだ。

 それでもさすがに、全裸で抱擁は「ちょっとおかしいかな?」とは思ったんだ。

 疑問が晴れたものの、新たな疑問が湧き上がる。サリアに疑問をぶつけた。


「なら、どうしてこんなことを?」

「ちょいとばかし金が入用で……」


 司教という立場だからか色々と金がかかるということか?

 素直にごまかすこともなく、告白したことには感心する。

 サリアはなんだかんだで私には嘘をつかない。だが――


「おいぃいぃい! ざっけんなこらー!」


 ――凶器のごとき邪悪な言霊で私はサリアを罵倒した。

 聖女を金儲けに利用するなんて洒落じゃすまねえぞ?

 だが、私の罵倒に怯みもせず、サリアは宥めるように言った。


「まあまあ、もうすんだことだから――」

「どぐされっがー! だまらっしぇー!」


 感情が高ぶり聖女らしからぬ言葉が出てしまった。女神よ、本当に申し訳ない。

 師匠の著書『心に残る金言集』には、なぜか罵倒としか思えぬ言葉が多い。

 全文暗唱できるほど熟読した弊害か、感情が高ぶるとつい口に出てしまうのだ。


「聖女様!」


 怒りの感情に身を任せる私の耳に、澄み渡るような美しい声が注がれる。

 イザベラだ。ぱっと心が晴れやかになり、怒りが嘘のように霧散した。

 声のしたほうを見やると、イザベラが私の元に馳せ参じるため急いで湯船をかき分けて向かってきていた。それだけのことなのに、私の心が弾む。

 サリアの手を振りほどくと、イザベラの元に飛び込むようにして抱きついた。

 彼女に触れると心が安らぐ。腰に手を回し、ぎゅっと抱きしめて体を寄せ合う。

 柔らかな胸に顔をうずめて、互いの肌と肌が溶け合うように接する。

 彼女は私を受け止めて頭をなでてくれた。


「…………」


 二人、無言で抱き合う。ああ、イザベラ。まるで蕩けるような、不思議な抱擁。

 どうしてイザベラに触れると安らぐの? どうしてこんなにも嬉しいの?

 ああ、これがそうなのか。家族が私に求めたもの。体中に喜びが満ちる。

 同時に不安がよぎる――イザベラはどうなのだろう? 同じか、それとも……。


「聖女様、一つお願いがございますの」


 イザベラの急なお願いに戸惑うものの、「うむ」と頷き話の続きを促した。


「聖女様に付けていただいた傷跡、治していただけないかしら?」


 彼女は傷跡を見せつけ、言葉を続ける。


「胸に歯形がくっきりと残っていて……そ、その、恥ずかしくて……」


 イザベラの言葉に大浴場がざわつく。洗い場でのいざこざで付けたあの傷跡か。

 先程は治さなくてもいいと言っていたのに気が変わったか。

 当然である。傷跡なんて、治せるなら治すに越したことはない。

 彼女から体を離すと傷跡を確認し言った。


「ああ、すまない。痛かっただろう? すぐ治すよ」


 イザベラの左胸にはくっきりと私がつけた傷跡――歯形――が残っている。

 出血はないが目につく位置に傷跡がある。恥ずかしいと感じるのも当然だ。

 完璧な肉体美を持つイザベラだからこそ、ただ一つの傷跡がより痛々しい。

 だが、なぜだろう? 傷跡を見ていると、えも言われぬ喜びに満たされるのは?

 仄暗い感情で心が満たされることに、私は戦慄いた。心の中に棲む怪物が蠢く。

 だが、今そのことは置いておく。彼女の傷跡に右手で触れると、優しくなでた。


「んっ……」


 イザベラが甘い声を漏らす。傷跡を治療すると、心地よい感触から手を離した。

 彼女に触れていると、まるで溶けるように混ざり合い離れがたくなる。

 まさに彼女は私を狂わす魔女であった。

 だが、抗いがたい。魔女の抱擁、彼女が私を包む。喜びへと誘う美声が響いた。


「ありがとう存じます。わたくしの聖女様……」


 イザベラの指が這うように私の白肌に触れる。吸い込まれるように堕ちていく。

 熱が合わさり一つになる。心地よい感触。抗う? なぜ? なんでだっけ……。


 突如、後方で響く水しぶきの音。「サリア!?」と誰かが悲鳴をあげ騒然となる。


 すわ何事か? 鈍くなった頭を働かせ振り返ると、サリアが失神し倒れていた。

 サリアは湯船に仰向けでぷかぷかと浮かんでいる。白目をむいて、意識がない。

 ふと周囲を見回すと、澱んだ空気が大浴場に漂い、みんなの元気がないような?


 先程まで私に抱擁されて喜んでいたみんなは、生気のない表情で沈んでいる。


 いや、それだけではない。他にも異常な状態の家族が、ちらほらと散見された。

 ツェータは口から泡を吹き痙攣し、シータは鼻血を吹き出しながら笑っている。

 視線を前に戻し見上げる。世界で一番美しいイザベラの瞳を眺めながら問うた。


「何が起こったんだ?」


 私の問いにイザベラはくすくすと笑うと、口角を僅かに上げ妖しく微笑んだ。

 問いの答えを得られず、ただただ戸惑う。イザベラは答えを知っているはず。

 私の直感がそう言っている。だが、得られたのは魔女の微笑みだけだった。

 疑問を抱えた頭を彼女は優しくなでる。ああ、溶けてしまう。喜びに微睡み――


「セイジョ!」


 ――堕ちていく心を揺り起こす、私への呼びかけ。凛とした私の一番好きな声。

 声の主を流し目で見る。私とイザベラの間に割って入るようにアルファがいた。

 アルファは私に右手を差し出した。来い、ということらしい。

 右手を差し出すとアルファは私の手を握りしめた。アルファが私を引き寄せる。

 だが、イザベラは私を離さない。アルファも私を離さない。

 つまり……どういうこと?

 イザベラとアルファ、二人が睨み合う。一触即発、ひりつくような怒気が漂う。


「邪魔をなさらないでくださる?」


 イザベラがアルファに冷たく言い放つ、ゴミでも見るような、蔑むような瞳で。


「みんなを救護する。手伝いなさい」


 アルファが私の瞳をじっと見つめて静かに言った。その言葉が心に鋭く刺さる。

 無理やり突き放すように、イザベラの甘い抱擁から逃れた。

 アルファはいつも正しい。

 この世で信じられるものは、アルファだけかもしれない。ふとそう思った。

 私の姉妹が倒れている。私の家族が苦しんでいる。放っておけるわけがない!


「ありがとう」


 アルファに感謝した。彼女はいつも私を救ってくれる。

 あまり感情を表に出さない彼女が珍しく微笑んだ。

 私だけの聖女、私だけのアルファ、それなのに、どうして?

 私の侍祭になってほしいとアルファに何度も懇願したが、にべもなく断られた。


 それが私をどれだけ傷つけたか、アルファは知らないのだろうか?


 冷たく突き放しといて、今更なぜ優しくしてくれるのか? 彼女がわからない。

 だが、今そのことは置いておく。今やるべきことのため、置いておく。

 アルファが救護のために指示を出し、みんなで滞りなく要救護者を助ける。

 なぜこんなことになったのかわからないが、おそらくイザベラのせいだろう。

 もはや看過できぬ。お仕置きが必要だ。魔女は成敗せねばならない、絶対に。


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