電車の窓ガラスの可能性
最近、駅近くのマンションを借り始めたSさんは、電車通学をしている。
「けっこう頻繁に電車が来ますし、便利ですよね」
お陰で朝はギリギリまで寝ていられる。
一人暮らし特有の不便はなく、非常に快適だった。
だが、最近はそうでもないそうだ。
「……変なのが、出るんです」
以前より、他のおかしなものに付きまとわれていたが、さらに増えたそうだ。
「帰りの電車で、ドア側に立っていたんです」
手すりにつかまり、夜の様子を眺めていた。
「たしか、夜の6時とか、そのくらいだったと思います」
夜景の中をぽつぽつと電灯がついた。
「後ろに、人がいたんです」
窓ガラスの反射越しに、それが見えた。
「女の人にも、男の人にも見えました」
女性にしては肩幅が広く、男性にしては背が低く華奢だった。
白いコートを着ていた。
「前髪を長く垂らして、顔はわかりませんでした」
某映画を思わせる風貌だった。
「ただ、陰気じゃなかった」
恨みや憎しみなどの暗さはなく、むしろ活動的だった。
ときおり笑い、肩を震わせた。
「電車内の通路中央に、そういう変な人がいたんです」
問題は、それがSさんの方を向いていたことだった。
「あの電車、断続的に短いトンネルを通りますよね?」
そうした地点がいくつかあった。
「街が見えているときは、うっすらとしかわからないんですが、トンネルを通るとき後ろの様子がハッキリわかります」
ガラスが全面的な鏡となるたび、異常人物は接近した。
「気のせいかと思ったんですが、気づけばすぐ後ろにまでいました」
ぶつぶつとした声も聞こえた。
調子外れのそれは、日本語には聞こえなかった。
ひどく陽気だが、理解できない類の明るさだった。
「誰かわからないけれど、不審者だ、って思って」
警告の声を上げようと、勢いよく振り返った。
「……いなかったんです」
むしろ、突然振り返ったSさんに対して不審の目が向けられた。
「けど、顔を戻してガラスを見ると、たしかにいて……」
すぐ後ろを越えて、もはや真横にいた。
その姿を直接確認することはできなかった。ガラスにだけ映っていた。
「口元が、笑ってました」
背丈はSさんと同じくらいだ。
しゃっくりのような笑い声が聞こえた。
「ここから近寄られたらどうしようって思って……」
そうはならなかった。
「次のトンネルに入ったとき、その変な人、消えたんです」
どれほどガラスの反射に注目しても、見つからなかった。
「なんだったんだろう、って思ってたんですが……」
一安心ではあった。
「ヘンなものは、ただヘンなだけで、こっちが緊張する必要なんかなかったんだって……」
肩の力を抜き、ぼんやりしていると、違和感があった。
「視界の端に、チラチラと見えたんです」
白だった。
白色のコートだ。
「消えたわけじゃなかった。外に、出ていたんです」
ドアを通過し、車外へ行った。
「電車が線路と直角に交差する道路を通るたび、そのヘンな人の姿が見えました」
パラパラ漫画の類のように、歩く様子が映った。
見るごとに距離が離れた。
「異常なことです、おかしなことです。でも、わからないものに接近されるよりは、安心できました」
これは一体何なんだろうかと探るだけの心の余裕すらできた。
窓ガラスをこすってみたが、異常はなかった。
あの白いコートは「ただ道を歩いている」ようにしか見えなかった。
「でも、妙求市の駅に到着しようとして……」
背筋が震えた。
「私の住んでいるマンションは、駅から近いんです……」
電車内から見えるほどだった。
徐々に離れる不審者の遠さと、Sさんの自宅がぴったり重なった。
その白コートは立ち止まり、横を向いた。
「私の部屋に入ろうとしていました」
鍵をかけていたにも関わらず、当たり前のように扉を開けた。
ガチャリという開閉音を確かに聞いた。
部屋に、侵入していた。
電車側のドアが左右に開き、その姿が見えなくなった。
Sさんは降りることもできず、立ち竦むしかなかった。
咎めるかのように、スマホの着信音が鳴った。
「見てみたら、「ただいま」ってだけ書いてあって……」
心当たりのない連絡先だった。
「その日は友達に頼み込んで、泊めてもらいました」
事情を話し、助けを求めた。
「翌朝、友人といっしょに自室を確かめました」
友人はバットを構えて事態に備えた。
何の異常も発見できなかった。
昨夜、誰も人が訪れなかった自室だった。
「きっと、疲れていたんだって笑い合ったんですが……」
その友人と共に、学校へ向かうための電車に乗った。
「見たんです……」
白いコートの人物が、Sさんの扉を開けて出た。
友人もまた目を丸くして、その事実を確認した。
「スマホに、連絡が入りました」
そこには「行ってきます」と書かれていた。
「今日もそっちに泊まるの? ついて行くね、とも書いてあって……」
友人をこれ以上は巻き込めない。
だが、たとえ引っ越してもついて来る。
そう思えた。
一体どうすればいいのかとSさんは切実に訴えた。
市職員は役所の仮眠設備の利用を薦めた。
一人でいるよりは安全だ。
ただこれは、一時的な対処にしかならない。




