不動産地図の可能性
阿左美通りに居を構えるS・Nさんは、帰りがけに不動産屋をよく見ていた。
店内ではなく、外に張り出されている物件情報だ。
「あー、まあ、今の部屋に不満があるわけじゃないんだけど、もっといい所あったら知りたいし?」
現実的な部屋探しというよりも、もしそこに住めたら、という夢想だった。
「ネットで探せばいいのかもしんないけど、ちょっとさ、ほら、やる気起きなくてさ」
ついつい動画や配信を見てしまうそうだ。
「いい部屋があって、こっちのやる気がマックスで、えいや、って引っ越しできたらいいよなぁ、って」
日常の中のちょっとした趣味としての物件探しだった。
「部屋って、よくよく見れば面白いんだよ」
間取りや入居条件はもちろん、家賃や窓の位置など、様々な要素があった。
「で、だ」
そうして不動産屋の外に張り出されている間取りを見る内に、妙なシミを発見した。
「印刷ミスかな、いい加減な仕事してんなぁ、ってのは、違った」
なぜなら、そのシミは動いた。
虫の類ではなく、インクのような黒色が紙を移動していた。
「黒い点、ってくらいのものなんだけどさ、徐々に動いて、部屋の中に入って、洗面台に向かった」
そこで微細に揺れた。
「手ぇ洗ってんだな、ってなんとなく思った」
物件表示を確認すれば、紙の右上に、売買契約済みの印刷が貼られていた。
「その後、トイレに向かって、しばらく動かなくなった、黒い点が振動してた、そこでわたしは顔をそらして離れた」
不思議さよりも先に、本当だという直感が勝った。
本当に、「そこに住んでいる人の動きだ」と。
その真上からの視点の映像だ。
「どうしてそんなもんが、って考えも浮かばなかった」
ただの黒点の動きだというのに、妙なリアリティがあった。
「たぶん、顔を近づけたら、もっとわかったんじゃないか、あれ」
次の日以降も、その現象は続いた。
ときには寝転がっている人の様子まで分かった。
「だいたいはシルエットでしかないんだけどさ、でも、形はわかるんだ」
してはならないことだと思えた。
「これって覗きだよなぁ」
それを自覚した上でなお、止めることが難しかった。
「本当に詳しい部分はわからないんだよ、どこにいて、なんか動いてんな、ってのがわかるくらいだ。その情報そのものも、本当だって保証は無かった」
詳しいことが理解できたのは、もうしばらくしてからだ。
「……わたしの部屋の物件情報が、貼られてた」
間違いなく自室のそれだった。
住所が一致していた。
「そこで、黒い点が動いた」
これは自分だ、とS・Nさんは理解した。
「他の人からすれば、絶対わからないんだろうな、けど、自分のことだから、わかる」
細かい動作。
たとえば玄関で靴を叩いてから脱ぐこと。
洗面台の蛇口をひねりってしばらく放水させ、古い水を抜いてから手洗いやうがいをすること。
ベッドに腰掛け、30秒ほど過ごすこと。
そうした「自分がした動作」を、黒い点は行った。
「わたし自身が、本当にそこにいるみたいだった」
情報としては本当に最低限のものしか表示されていない。
だが、ありとあらゆる行動に憶えがあった。
「これは、自分だ。それはわかったんだよ。けど、いつのだ? そうも思った」
今こうして見ている以上、部屋には誰もいないはずだ。
ならば昨日か、一昨日か、もっと前の出来事か。
「やってることは割とルーチンだから、平日だってことしかわからなかった」
S・Nさんは、ただ自分の点を見続けた。
まるで動かない状態であってすら、その場で体験しているようにありありと想像できた。
「で、黒い点が増えた」
それは、玄関の外に現れた。
「たぶん、勝手に入ってきた」
玄関ドアの鍵を閉め忘れることはよくあった。
寝る前に気づき、慌てて閉めたことも。
「入ってきたそいつが誰か、わからない」
当然だ、しかし。
「知っている気がした」
平面上の、物件情報に記された点でしかないS・Nさんは、その闖入者を当然のように受け入れた。
「誰か、知ってる相手なんだ、たぶん」
何人かの顔が思い浮かんだ。
だが、どれもしっくりは来なかった。
距離感が、やけに近いように思えた。
そこまで親しい相手に憶えがない。
「なんで、どうしてなのか、わからないんだ、本当に、マジで憶えもなんにもない」
S・Nさんは台所に赴き、何かを手にした。
そのまま引き返し、慌てて逃げ出す黒い点へと追いついた。
「やっちまった、んだと、思う」
そのような記憶はなかった。
「手応えがあった」
見ているだけだというのに、その動作をリアルに感じ取れた。
「包丁だ、わたしはあれで何度も料理した。その大きさも、癖みたいなものも、威力、って言っていいのか、それも知ってる」
黒い点は微動した。
重なったままだった。
何度も、振り下ろしていた。
「ああ、恨んでたんだな、ってわかった」
激怒があった。
許せないからこその行動だった。
「気づいたら、物件は別のもんになってた」
そんな表示など、最初からされていないかのように。
不動産屋に入り確認したが、不審そうな顔をされただけだった。
すべてが夢だと言われたかのようだった。
「けど、感触が忘れられない」
S・Nさんは、自らの手を見つめて言った。
市職員は引っ越しを薦めた。
過去に憶えがないのであれば、それは未来の出来事だ。
場所を変えれば防げる可能性はある。
「なんでだ?」
だが、S・Nさんは不思議そうに言った。
「あの感触が、忘れられないんだぞ?」
目を輝かせ、鼻息が荒かった。
何度も手を開閉させていた。
「待ち遠しいんだ」
市職員は、強制的にS・Nさんを転居させた。
発生する悲劇には対処する必要がある。
拒否されたが受け付けない。
今のところ、殺人事件は発生していない。




