表札の選択の可能性
これは、ゲームを仕掛けられた可能性が高い。
「ここです」
妙求市南、阿左美通りの団地に住むNさんは、そう言って表札を指さした。
「今は、たなか、って書いてありますよね」
インターホンの上に、見慣れた形の表札があり、手書きでそのように表記されていた。
「けど、昨日までは、あんざい、だったんです」
表札が毎週変わる、それが相談だった。
駅から二十分、広い敷地に広がる団地はさまざまな人が住む。
ご近所同士のトラブルも絶えない。
「もちろん、これだけじゃないんですよ」
団地とはいえ、それほど広い作りではない。
主に独身者を相手にしたものだった。
「よくよく確かめたんですが、書かれている文字も違います」
Nさんから、写真を見せてもらった。
連続して映してあるそれら表札の文字は、たしかに別人が書いたと思えた。
「気にしすぎだ、って言われたらそれまでなんですが……」
それでも、気分が悪いのだという。
「隣の人が毎週引っ越してるなんて、あるわけがない、かといって、イタズラとかにしても変です」
Nさんの部屋は一番奥の角部屋であり、問題の部屋はその隣だ。
変化に気づく人間は、配達員などを除けばNさんしかいない。
「これなら表札なしの方が良かった」
団地内は、そうしているところが大半だ。
部屋番号は表示されているため不便はない。
「ひょっとしたら、何かの犯罪とかじゃないか、って気もして……」
現実的にこれは、表札の文字が変わっているに過ぎない。
「ええ、それでも……」
気持ちが悪いのだという。
「かといって、直接訪ねるのも、ちょっと」
隣人と交流しているわけではなかった。
見知らぬ人の家のチャイムを押すことには抵抗感があった。
「すいません、こんなことで」
その隣人の部屋の前で、こうして喋っている。
声量は落としているが人は人の気配に敏感だ。既に知られている可能性がある。
「うぇ、ちょ、ちょっと引っ込んでますね?」
聞いた途端、Nさんは自らの部屋のドア内側へと引っ込んだ。
素早く鍵をかける様子からすると、本当に隣人が恐怖の対象らしい。
市職員は、問題の部屋のチャイムを鳴らした。
今は「たなか」であるはずの、その部屋のを。
はぁい、という声が聞こえた。
ドアスコープで確認することも、インターフォン越しにやり取りすることもなく、その人はドアを開いて出て来た。
「どなたですか?」
Nさんだった。
つい先程、隣の部屋へ入ったはずの。
角部屋の扉を見たが変化はない。
急いだ足音なども聞こえなかった。
市職員は、Nさんであるかを聞いた。
不審そうにしながらも、その人は頷いた。
「ええ、はい……」
その表情に騙してやろうという作為や悪意はなかった。
少なくとも市職員には、そう見えた。
表札の「たなか」の意味を尋ねた。
「ああ、前に住んでいた所に変な人がいて、その警戒のためなんです」
そんなことかという安堵の表情だった。
市職員は安堵できなかった。
僅かに覗けた部屋には、生活の様子が見て取れた。
この「Nさん」の説明によると、余計なトラブルを避けるために表札の名前を変えているのだという。
以前、街中で「Nさん」と呼びかけられ、咄嗟に振り向いたことがあった。
「知らない人でした」
近くに住んでいる人間であり、ひょっとしたらと呼びかけたのだという。
「何も裏は無いと、本人はそう言ってました」
近くに住んでいる人が誰か知りたかった。
だから表札の苗字で呼んでみた。
こういう人だったのかと分かって安心した、そのように言った。
「正直、気色悪いですよね?」
だから、表札を変えることにしたのだという。
固定化した苗字にしていない理由は、「たなか、なあ、お前って、たなかだろ?」と絡まれることを警戒してのことだ。
市職員は、隣の人間について聞いた。
「いえ、知りませんけれど?」
見れば表札がなかった。
角部屋の、そのチャイムを押してみた。
後ろには、不審そうな表情を浮かべるNさんがいた。
誰も出なかった。
「あの、どうしたんです?」
少しばかり考えた。
一体、この状況はどういうことだろうかと。
ただのイタズラである、という可能性がもっとも高い。
あるいは、たまたまNさんと同じ苗字の、同じ顔の人間が住んでいたでもいい。
「ええと……?」
沈思黙考する市職員に不審を見せるNさんを無視して、これが異常であるパターンを考える。
前者の、ただのイタズラであれば、市職員が騙されただけで済む。
だが、これが妙求市特有の異変であれば?
市職員は、目の前で発生した被害を見過ごすことになる。
それは認められない。
対処する必要がある。
可能性としては二つ。
一つは、この「たなか」こそが本物のNさんであり、市職員は「角部屋」のNさんという異常に騙された。
もう一つは、「角部屋」こそが本物のNさんであり、この「たなか」のNさんは何らかの異常である。
どちらもありうる。
現在、妙求市に救う異常のひとつは、ある種のイタズラを行う存在だ。
「あのたぶん、その角部屋は、人が住んでないと思うんですけど……?」
恐る恐るというようにNさんは言った。
その顔には再び不審があった。
選べと言われている。
直感的にそう思った。
どちらが本物のNさんかを、市職員が選ばなければならない。
「もう、閉めますね?」
そろりそろりとドアは閉じる。
これが閉められ、次に正解を引き当てる。
もし偽物を選べば「Nさん」に被害が出る。
そのようなゲームを仕掛けられている。
誰が仕掛人かはわからない。
こんな問題を出される意味も。
だが、それでも、手がかりがない。
「たなかNさん」の説明は理解できるものだった。
「角部屋Nさん」こそが偽物と考えるのが妥当だ。
もし逆であった場合、「角部屋Nさん」はチャイムに出れない状況にある。
幾度押してもまったく返事がない。
ヒントはあるのかもしれない。
本物か偽物かは、よくよく観察すればきっとわかる。
だが、市職員には見分けがつかない。
選ぶとしたら、ただの賭けにしかならない……
従って、市職員は完全に閉じる前の「たなかNさん」ドアに指を入れて強引に開いた。
同時に後ろに下がって助走を付ける。
「え、なに?!」
突然全開となったドアに驚く「たなかNさん」を無視して、市職員は駆け出した。
助走の威力を存分につけた蹴りを、角部屋ドアへと直撃させた。
住宅地にふさわしくない轟音が響く。
蝶番部分を破壊されたドアは鍵の機構を破壊され、反動でゆっくりと開いた。
どちらかを選ぶのではなく、両方を強引に開けた。
「へ……?」
角部屋の開いたドアからは、呆然としたNさんの姿が現れた。
最初に相談された方だった。
不安そうに、その場に立っていた。
振り返り確かめれば、「たなか」の方には誰もいなかった。
「な、なんで? え、どうしたんです!?」
どうしてチャイムに応答しなかったのかを尋ねたが、聞こえていないとのことだった。
開いた「たなかNさん」の部屋は空っぽだった。
家具のひとつもなく、誰かが住んでいる様子もなかった。
市職員はネームプレートの表札部分を回収し、ドアノブ破壊の弁償をした。
「あの、あの?」
事情がわからない様子だった。
ふたたび表札が変わるようなことがあれば、もう一度知らせてほしいと伝えた。
以降に表札は変わることがなく、また、誰かが引っ越してくる様子もないとのことだ。




