透明階段の可能性 後編
一部流血表現があります
ご注意ください
その賭けは、行わない方がよい可能性が高い。
Tさんはひどく落ち込んでいた。
「夢だよ、間違いなく夢なんだよ」
Tさんもまた透明な階段を登る夢を見た。
「けど、ひでえ罠だった」
シャトルランの音に合わせて上昇した。
「一端昇ったらもう引き返せねえ、隣を登る別のやつを落とさなきゃいけねえ、そういうデスゲームを強制された」
Tさんの側からも、隣の人はシルエットだとしか分からなかった。
「……一回、俺は勝ったらしいんだ」
その手応えのようなものを感じていた。
「それで、報酬を手にした」
亡くなったはずの飼い猫と、再び出会えた。
「同じ報酬が欲しいわけじゃない、望むようなことはなんにもなかった。けどよ、負けるわけにも行かなかった」
勝利のための努力ではなかった。
「負けたら、相応のペナルティが待ってる、それが分かった」
隣の人の顔や様子はわからない。
だが、その手が妙なことに気がついた。
「どっかのハグレもんが小指落としたとかじゃねえんだ。まるで最初からそうだったみてえに、そいつの指は四本だった」
負けた場合、そのように姿を変えられ、周囲を含めた認識を変えられる。
そう直感的に理解した。
「だから、罠なんだよ。勝ちたいわけじゃねえのに、負けることもできねえ」
必死に登り続けた。
すでに階段を上がるというよりも、壁を登るようだった。
「何度も続ける内に、クソほど疲れた。シャトルランの音が死ぬほど嫌だった」
十分な休息が取れない内に、再び昇らなければならなかった。
「景色とか見る余裕もなかった」
すでに妙求市内のもっとも高いビルを越えた。
夜景だけは平穏だった。
「時々、落ちたときの記憶も強制的に見させられた」
足元が崩れ、身一つで落下した。
頭を抱え、できるだけダメージを減らそうとしたが、無駄だった。
背中から叩きつけられ背骨が砕けた。
下半身が失われたと思えた。
脊髄を通る神経が切断され、そこから先のことがわからなくなる。
喉から血が溢れ、呼吸ができない。
「何十回も、何百回も、早く夢から覚めろって、願うんだよ」
ランダムに、いつ来るかわからないタイミングで、落下の記憶は想起された。
「これも、ヘンだよな?」
Tさんは不審そのものの表情で言う。
「俺は、前は勝ったんだ。だってのに、どうして落ちたときの記憶があるんだ?」
何度もこの勝負を繰り返したとは思えなかった。
「これさ、本当に、っていうと変だけどよ、実際に落ちたんだと思う」
実際に落下し、痛みを味わい、そして引き戻された。
無傷の状態で勝負が再開された。
落下した本人と、隣からは「見えない」ようにされた。
夢の中で見た夢でしかないと。
「ひでえ嘘だ。けど、何が一番の問題かっていうとよ、落下時間だ」
登るほどに地面との距離は開いた。
落ちる時間は、その分だけ長くなった。
「その内、シャトルランに間に合わなくなる」
無限に続くと思えた透明階段の、時間制限だった。
落下時間が音階音を越える。
「たぶんだけどよ、前に俺が勝ったのは、隣のやつがこの「長すぎる落下」を先に踏んだからだ」
階段ひとつ分離れた相手に、何かをしたわけではなかった。
「隣の階段は見えたけどよ、微妙に距離が離れてた。その上、階段の長さが問題だ。ジャンプして相手を押し出しても、そこで上手に止まれるなんて自信は、俺には無かった」
階段はちょうど一人分の広さだ。
登るのに支障はないが、二人で争うには狭すぎた。
「俺の性格からして、そういうギャンブルはしねえ。そういう思い切った賭けができるようなタイプじゃねえんだよ」
だからこそ、今回も同じだと思えた。
勝つか負けるかは運次第であり、どちらが先に「落下の夢」を見るかだと。
「隣の、誰か分からねえやつは、そうじゃなかった」
賭けとなる行動に出た。
それは、Tさんを押し出す選択ではなかった。
「そのときの俺はもう割と疲れて、バテバテだった」
だが、隣のシルエットは、さらにもう一段、即座に昇った。
シャトルランの音が終わり切るより前に、休まず先を行った。
「あ? って思った。なんの意味があんだよ、それ、って」
透明な階段が消える条件は、シャトルランの音が終わったタイミングと、両足が離れた瞬間だ。
「先行する意味がねえんだよ。単純にスタミナ消費するだけだ、落下する夢を踏む危険だって増える」
そうではなかった。
「階段二つ分を先行したそいつが、「俺の階段」に向けてジャンプしたのが、見えた」
Tさんは慌てて昇ったが遅かった。
「そいつは、俺の階段を先行して消した」
両足が離れた瞬間、透明な階段は消える。
「俺のを一段分消した後、昇った先でまた元へとジャンプしやがった」
二段分の階段を消された。
「しばらく、呆然としたよ」
シャトルランの音は、容赦なく続いた。
妙求市は、はるか下方だった。
透明な階段は、二段ぶん無くなり、その先で薄っすらとした輝きを見せた。
先行した人影が、振り返った様子が分かった。
「選択肢なんて贅沢なもんは、無かった」
一つ呼吸し、覚悟を決めた。
「俺は、狭い階段で助走をつけた」
すでに階段は、一段でTさんの胸元程度の高さだった。
二段ぶんの高さに手を掛ける必要があった。
一般人の垂直跳びの平均値は55cmだ。
「まあ、届かねえよ」
手は空を切り、為すすべもなく落下した。
「俺は落ちながら、ただそいつを見上げた」
輝く何かが、生き残ったシルエットへ降りようとしていた。
「指、みたいに見えた」
一度は失ったそれを、取り戻した。
「良かった、とは思えなかった。やりやがった、って悔しさがあった」
そうしてTさんは、ひどく硬いものが割れる音を聞いた。
何度も体験したそれは、最後だけひどく呆気なかった。
「……ただ寝てただけだったみてえに、俺は自室で目を覚ました」
幾度も確かめたが、身体に変化は起きていなかった。
「やっぱり、夢か、って思った」
そうではなかった。
「……俺が拾ってきたタヌキの置物、それが壊れてた」
棚の上に飾られたまま、きれいに砕け散った。
「たぶん、身代わりになってくれたんだろうな」
Tさんはそれをかき集めた。
捨てる気にはなれなかった。
「……俺が言うべきことじゃねえんだろうけどよ、いくら願いが叶うからって、あんなゲームはやっちゃいけねえ」
続ける内に、絶対に大切なものを失う。
そう言うTさんの声は、ひどく沈鬱だった。




