素数錠前の可能性
それは、実在しない可能性がある。
対処課へと相談に来たその人は、酷く疲れた顔をしていた。
「……こんなところがあったんですね、知りませんでした」
相談内容を尋ねると、酷く言いづらそうにしていた。
「……すごく、馬鹿みたいな話なんですよ、それでもいいですか?」
よくあることだった。
「はは、すごいですね、その無感動っぷり。いえ、むしろ気が楽です、助かります」
スーツ姿のその人の悩み事は、鍵だった。
「いつも通る道の途中、マンション同士の間にある路地にフェンスがあって、そこに錠前がかかっているんです」
スチールメッシュと呼ばれるものだ。
目隠しとしての機能はないが比較的安価であり、通り抜けを防ぐ役には立つ。
「扉とかもないから、本当にただひっかかっているだけで、なんの意味もないんですけどね」
三桁のダイヤル番号によるロックだった。
「小学生くらいの子供がいじっているのを見て、俺もやってみたくなったんですよ」
行き帰りのたびにダイヤルを適当に回した。
「ある時、鍵が開きました」
番号は997だった。
「なんで今まで誰も開いてなかったんだ、って数ですよね」
000から始めれば遠いが、999からやればすぐだ。
「鍵を入れ直して、ダイヤルを991にしました」
それは、ちょっとした冗談のつもりだった。
「……翌日、錠前が変わってました」
ダイヤル番号式であることは同じだった。
四桁に増えていた。
「まさか、と思って、9973にしました」
鍵は開いた。
「なに考えてるんだろうと思ったんですが、今度も同じようにしました」
ロックし直し、数字を9967にした。
「これ、素数なんですよ」
1とその数字だけでしか割れない整数のことだ。
「997は三桁の中で最大の素数、9973は四桁の中での最大です」
991と9967は、それらから一つ下の素数だ。
「次の日も、同じでした、桁数が増えた」
5桁となっていた、99991で開いた。
次の日は6桁だった、999983で開いた。
更に次の日は7桁だった、9999991で開いた。
「錠前は、もう普通のじゃなくて専用のものになっていました」
長い桁数に対応する、引き伸ばしたUの形をしていた。
「解くたびに桁数は増えました、途中からは俺も意地になった」
ときには行き帰りに解くことすらあった。
ダイヤルに触れる時間が伸び、指は汚れた。
「素数って、上限が無いんですよ」
自力ではもう解けなかった。
さまざまなサイトを巡り答えを探した。
「ダイヤル1個につき1センチもない長さだ。けど、終わらない、いつまでも」
じれったくなるほど遅く、だが確実に錠前の長さは伸びた。
「俺の背の高さを越えて、さらに高くなりました」
気づけば近くに梯子が設置された。
錠前はニ階にまで届きつつあった。
「ここまでくると、ダイヤルを回すだけでも一苦労です」
フェンスの高さなど、とっくにオーバーしていた。
むしろ錠前の方がフェンスに寄りかかった。
「今発見されてる最大の素数は4千万桁を越えます」
1秒に1回と計算しても合わせるのに1年3カ月かかる。
ダイヤルの初期数字はランダムであり、いちいち変えなければならない。
「さすがに、馬鹿らしくなった、付き合いきれない、そう思ったんですが」
恐ろしくもなった。
親指や人差し指の、すっかり汚れた指の腹をその人は見せた。
「俺は、言ってしまえば楽ですよ、単純にダイヤルを回すだけだ。けど、作る方はそうもいかない。一体どれだけの金を使ったのか」
タイミングとして考えると、すでに「次の制作注文」はされている。
「……今、錠前は三階の高さにまで届きつつあります」
最近は一日では合わせきることができず、数日に分けてダイヤルを回している。
あまりに異様過ぎるためか、他に触れる人もいないという。
「もう、止めたいんです。こんなの終わりがない。なんとか仲立ちをしてくれませんか? これをやった奴と直に会うのは、ちょっと、いや、かなり怖いんです」
止めることは恐ろしく、かといって直談判もまた恐ろしかった。
市職員はその場所を調べた。特定できず、電話による連絡を取ることができなかった。
「ええと、でも、間違いないはず……?」
一緒に現場に向かい、確認することとなった。
予想通り、何もなかった。
荒涼とした空き地があった。
市職員が知る限り、ここは以前、家事により焼失した場所だ。
事情を聞こうと振り返ると、先程まで間違いなく後ろにいた人は消えていた。
隠れる時間的余裕はないはずだった。
周囲を探し回る間、ダイヤルの回る音を聞いた。
あの汚れた指が動き、素数が揃い、錠前が生長する音だった。




