塞がれた呼吸の可能性
それは、偽りである可能性がある。
対処課に来たその人は名前を名乗らなかった。
「ええ、あまり、必要じゃないのかなって。すいません、だめですかね?」
多くの場合、イニシャルのみの記載だが、必須というわけではない。
「ありがとうございます。ええと、それで、悩み事なんですが、なんと言えばいいんでしょう。私は今、普通に見えますよね?」
質問の意味を掴みかねた。
「ああ、そうですね、申し訳ない。私自身の感覚の話なんですけどね、どうも、こう、呼吸がしづらいんですよ」
いつの頃からかはわからない。
だが、上手く酸素が肺に取り入れられない感覚があるのだという。
「一時期、流行り病のせいでマスクが必須だったじゃないですか、中には二重にマスクをつける人もいて。あれ、ちょっと息を吸いにくいな、って思ったことありません? あれの酷いバーションです」
空気を吸い込む動作が阻害される、そのように思えるのだそうだ。
「ですがね、ほら、私はこうしてすっぴんだ。なにも身に着けていない。なのにどうしてだか、呼吸が難しいんですよ」
それは病院にて検診を受けるべき事態だ。
「ええと、説明が前後してしましましたね。それはすでに受けました。タバコは止めなさいと言われただけでしたよ」
その点以外には注意すべきことはない健康体だと太鼓判を押された。
「実を言うとですね、タバコを吸っているときだけは呼吸しやすくなるんです」
普通は逆だ。
「とはいえ副流煙などの問題もありますし、歩きタバコなんてもってのほかです。そうそう吸えません」
だからこそ、一日の大半は息苦しいのだそうだ。
「ここ対処課の、過去の記事は読みました。色々と不思議な出来事が起きていましたよね? 私に類似したもの、実はあったりしないのかなぁ、と期待してみたんですが……あ、ないですか? そうですか……」
ガッカリとした様子だった。
原因不明の息苦しさの解決として、最後の頼みの綱だったようだ。
その頬に、ビニール片らしきものが張り付いていた。
「え、どこです?」
視界に入らない位置のためか、本人からは取りにくいようだ。
許可を取ったのち、市職員がそれをつまんだ。
「お、お?」
べり、と剥がれた。
その皮膚が。
「ははは、え、え? いや笑ってる場合じゃない、なんです、これ?」
それはちょうど、サランラップを剥がしたときのようだった。
横へと動かすほどに、剥がれる範囲が広がった。
口元を通過し、反対の頬まで行った。
ぷはあ、という吐息が肌にかかった。
「あ、これか、これですね」
これ以上は危険だろうと手を止めたが、代わりに本人がそれをつかんだ。
歓喜していた。
「顔に、こんなものが張られていたからだ。道理で呼吸がしづらかったはずだ」
べり、と音を立てて剥がした。
顔全体をつつむほどに、その縦の範囲は長くなった。
皮膚が剥がれたと表現したが、より適切に言えば透明なラップ状のものだった。
繰り返し、自身の手に巻き付けるように剥がし続けた。
何周もそれは繰り返された。
市職員の静止の声は無視された。
「ああ、ああ、こんなに、巻き付いていたんだ、そりゃ、呼吸だってできないはずだ。どうして私は気づかなかった? いやだ、いやだ、まだ口に張りついてる、何度剥がしても残っている、なんて嫌な、汚らわしい……」
頭を下げるような体勢で、ラップを巻き取り続けた。
頭部の体積が、減った。
「あ……ああ、そうか……」
その声は、巻き取った方から聞こえた。
ゴロン、とその人の身体は転倒した。
すべてを巻き終えたその頭に、中身はなかった。
乱雑に取られたラップには、顔の様子がうっすらと写っていた。
倒れた人を、新入りやアルバイトは人間であるとは認識できなかった。
後日、空き時間を使い、市職員がラップを巻き直した。
偽警官の格好をしたその人が、目を覚ますことはなかった。




