空きテナントのマネキンの可能性
そのマネキンは、あなたにしか見えていない可能性がある。
丙玲横丁には細々とした店が立ち並ぶが、昨今の物価高騰の影響もあり、空きテナントも多い。
内外を仕切るガラスには閉店の二文字が刻まれた紙が貼られ、内部はコンクリートが剥き出しだ。
現在、対処課にてアルバイトをしているUさんは、よくそこを通る。
「入ってすぐの、右? そこに、小さな店があったんですよ」
周囲のビルに埋もれるような、奥まった位置だ。
「小物店だったのが、なくなってしまって、中が空っぽで、寂しいな、って」
通るたびに横目で見た。
「……最近、そこにマネキンが運び込まれました」
天井からは電源用のコードが垂れ下がり、床や壁が剥き出しの中、ぽつんと裸のマネキンが立っていた。
「なんだろうなぁ、って不思議ではあったのですが、それだけです」
日の出ている間はうっすら見えたが、日が沈めば完全に暗闇に沈んだ。
「誰かまた殴ってくれないかなぁ、って思いながら通っていたんですけど」
夢の中の話だ。
Uさんは特発性過眠症であり、そのような白昼夢をよく見る。
「マネキンが、動いた、ような気がしました」
視界の端で、上げた手を揺らした。
まるで挨拶するかのように。
「引き返して、しばらくじっと見てたんですけど、動きませんでした」
当然だった。
「だから、入ってみることにしたんです」
閉店し、空っぽになったとはいえ、土地所有者に無断で侵入することは違法だ。
「ええ、そうですね」
話が通じなかった。
「たぶんこれ、私が見た夢です」
Uさんが見る夢は、現実との境を自覚できない。
「だって、ありえないです、●●様が、本当にいただなんて」
●●とは、マンガに登場するキャラクターの名前だ。
スポーツ系のマンガであり、主役ではないが人気のあるキャラだという。
「ガラスで出来た扉を開けて店に入ったら、マネキンじゃなくて、●●様のお姿がありました」
手を振る動作も、いま思い返せば、その●●がよく行っていた動作だったそうだ。
「喋っている声は聞こえなくて、けど、困っている●●様の姿はとてもキュートでした」
2次元のキャラクターが3次元で動けば違和感が出る。だが、そのような違いは認識できず、ごく自然なものとして受け入れた。
「私、思いました」
真剣だった。
「●●様を捕獲しなきゃ、って」
逃がしてはならぬと覚悟を決めた。
「夢だろうと何だろうと関係ありません、こんな機会は二度とないんです、だから、連れて帰ります」
冗談を言っている様子は微塵もなかった。
「●●様はスポーツ選手です、私一人では捕まえられません。どうして日頃からスタンガンや麻酔薬を常備しておかなかったんだろうって、とても後悔しました。こうしたことが起きる可能性くらい、予想しておかなきゃいけないのに」
一度は引き返し、準備をするという選択肢なかった。
やれば取り逃すと直感した。
●●を一人にして、この空きテナントを探らせるわけにはいかない。
「心のどこかで、これはただの夢だって自覚があるんです。同時に、夢で終わらせないチャンスだってことも」
人差し指で触れれば、たしかに実在した。
マネキンの冷たさではなく、人の温かみがあった。
「●●様はそんな私に困惑し、何かを訴えました」
変わらず声は聞こえなかったが、「帰りたい」のだと分かった。
Uさんはその必死な様子と、後ろの壁から目を逸らした。
「ちょうど大切な試合の直前でした、道に迷っている場合じゃない、それはわかります。けど、もっと私だけを見てくれたっていいじゃないですか」
マンガの連載が、そのような展開を迎えていた。
ピンチの展開に、ようやく●●が復帰するタイミングだった。
「……●●様は女とか興味がないんです、試合と仲間が一番なんです」
表面上は卒無くこなしながらも、中身は誰よりも不器用で情熱的。それが人気の理由の一端だった。
「悩みました、すごく」
気分としては10時間以上懊悩したとのことだが、実際にはそこまではかからなかっただろう。
「一番の決定打は、ここ日本で●●様はプロスポーツ選手になれるのか、ということでした」
技術や、どう見ても二次元キャラの見た目の問題ではなかった。
前触れもなく現れた人間に戸籍はない、その点が重要だった。
二次元から三次元への移民が認められていない以上、日本国民だとは認められない。
非合法的手段を取るより他にないが、●●はそれを良しとする人ではなかった。
「表面上は、助かった、気にしないときっと言ってくれるんです、でも、それでも……」
時折浮かべる、心からの笑顔は失われる。
表向きの傲岸と中身の誠実という●●の良さが損なわれる。
良い女になろう、とUさんは決意した。
それは監禁して独り占めにしようという欲望よりも、わずかに上回った。
「あと、こうした状況を助けた私のことを、●●様はきっと心の片隅に留めます」
凡百のモブより上に立てる栄誉を得た。
「渋々に、いやいやながら、扉を開けました」
その扉は、●●からは見えた様子がなく、Uさんが必死に目を逸らし続けたものだった。
「●●様は少し驚いた様子で、けど」
不器用な感謝の所作を行い、扉の向こうへ行った。
閉めた途端、扉は陽炎のようにあっけなく消えた。
後に残されたのは、空きテナントの外に立つUさんと、手を振る動作で固まったマネキンだけだった。
「これで良かったんです、これできっと……」
Uさん自身を説得するような声色だった。
翌週、●●に付き合っていた恋人がいることが発覚し、Uさんは奇声を上げて世界を呪った。
掘削用ハンマーを手に空きテナントへ向かうのを、市職員は止めた。




