ダウンジャケットの可能性
その言葉は、陥れるためのものである可能性がある。
髪を染め、服装を真面目なものとしたOさんは現在、予備校に通っている。
「……なんか親が勘違いしたんだよ。俺の中身まで真面目になったって」
周囲の受けもよかっため戻す機会を失ったOさんは、そのまま流された。
「まあな? 案外、楽しいんだよ。今まで話せなかった奴とも話せるしな」
勉強の為ではないようだった。
「あー、でも、気になるというか、どうなんだよこれ、ってことがあって」
Oさんが気になっているのは、ダウンジャケットだった。
前の座席の人が、椅子にかけたものだ。
「あのやたらペカペカしてるやつ、やべカッケーって奴と、くっそダサ、どこの勘違いバカが着るんだよ正気? てのが分かれるタイプな。ちょうどいま着てるこれみたいな感じ」
ポリウレタンや塩化ビニルにより表面の光沢を出しているものだ。
「これさ、割と表面にシワ寄るよな」
ある時、そこに文字に見えた。
中の羽毛が寄らないよう縫分けられたライン、そこを下線部とするかのように意味のある言葉が出た。
前座席の予備校生が体重を預け、ダウンジャケットの表面が揺れたタイミングだった。
「good morning、って書いてあった」
筆記体によるわかりにくい文字だった。
「これって、たまたまなんだよ、わかってるんだよ。けど、おもしろいだろ? だからさ、返事したんだよ」
ノートに「今はもう夜だ、馬鹿め」と書いてそのジャケットへ見せた。
「返答があった」
前の人の体重移動のタイミングと同時に、「I just woke up. Good morning at times like this, right?(俺は今起きたんだ。こういうときはグットモーニングだろう?)」と記されていた。
「ハテナのマークまできっちりと書いてやがった」
授業中のスマホ所持への対応がことさら厳しい授業だったからこそ、そのダウンジャケットとのやり取りはOさんにとって助けとなった。
「こっちはそんなに英語は得意じゃないんだぜ? なのにあのジャケット、遠慮なくガンガン書いて来んだよ、クソムカついた」
言い負かすために英語の勉強に熱が入った。
特に念入りに覚えたのはスラングだ。
Oさんはその時間が楽しみとなった。
前座席の人間がダウンジャケットを隣の席に置いたときなど、頭を下げて椅子にかけるよう頼んだ。
「すげえ困った顔されたけどな、まあ、意味わかんないわな」
筆記によるチャットは、授業時間中ずっと続いた。
「……けどな、だんだんと変なことを書くようになってきた」
他愛もない会話が主だったが、徐々にダウンジャケットの持ち主についての情報が増えた。
住んでいる場所、好きな飲み物、性癖、階段を右足から降りる癖、あるいは独り言の内容まで。
「そういうのは興味ないって、こっちがいくら言っても止まらなかった」
段により分けられたダウンジャケットの、全行を使い持ち主の個人情報を筆記した。
「これ以上やるなら、俺はもう止める、別のところに行くわ、って伝えたら、ようやく止まった」
sorryの文字が記されたのは、しばらく時間がたってからだった。
「まあ、別にいいよ、って和解しようとしたらな、おかしなことを続けんだよ」
どうしようもなかったんだと嘆いた。
信用してもらうしかなかったんだ、と続けた。
「意味わかんね、って返答したら、理由が返った」
持ち主は殺人犯だ。
止めて欲しい。
そう記されていた。
「Murdererに別の意味がないか、こっちは必死に調べたよ」
無かった。
「いつ、どこで、どうやって殺したのか、すげえ細かく書くんだよ」
Oさんはジャケットの持ち主を覗き見たが、平凡で気弱そうな人間だとしか思えなかった。
だがジャケットは、人気の少なくなった阿左美通りで子供を狙い、殺傷行為に及んだのだと嘆いた。
右の腰付近に血の痕跡が残っている、これは返り血だ。
死体をビルへと運び入れた、その途端、死体は消失した。
手にした筆箱を、戦利品として隠し持っている。
愛でるのに飽きたのか最近、戦利品を陽爻神社の境内に捨てた。
きっと次の獲物を求めている。
「警察がだめだっていうのは、俺も知ってる」
陽爻神社の言われた場所には、本当に捨てられた筆箱があった。
こっそりとジャケットの様子を確かめれば、血が付着した痕跡もあった。
「あいつ、繰り返し言うんだ、止めてくれ。俺にしかできない、もうたくさんだ、って」
だから、階段から突き落とせと要求した。
別に、殺す必要まではない。
怪我をさせて身動きできなくすれば、十分だ。
この持ち主は、右足から階段を降りる癖がある。
タイミングを見計らって、軽く肩を叩いてやれば、それでいい。
「授業時間、ずっとそう言われた。もう時間がない、最後のチャンスだ、きっと明日にもこの殺人鬼は実行する、ってな」
終了の合図とともに、それぞれが席を立った。
席から持ち上げ、着込むジャケットの持ち主の後ろを、Oさんは付けた。
「you are rightって繰り返し書きやがった」
ビルの五階に位置するが、エレベーターは小さいものしかなかった。
大半は階段を利用して降りていく。
「俺は、あいつの背に触って――」
ジャケットをつかみ、そのまま引きずり上げた。
Oさんが何かするよりも先に、持ち主は足を滑らせていた。
「気の所為かもしれないけどよ、踏み外す直前、ダウンジャケットが妙な具合に縮まった気がした」
Oさんの行動は、結果として転倒を防いだ。
階段上まで引き上げた手のひらの下、ダウンジャケットを握った痕跡には「coward(臆病者)」の文字が浮かんだ。
「とりあえず、中指立てといたよ」
その後、ダウンジャケットの持ち主と一緒に帰った。
「話してみると、普通のやつだった」
とても殺人鬼だとは思えなかった。
「俺の偏見かもしれないけどよ、熟女の魅力について熱く語るようなやつが、子供を殺す殺人鬼になるか? てかジャケットが言ってた情報、ほとんど間違ってやがった」
そのダウンジャケットは、中古ショップで買ったものだった。
Oさんは同等の値段を支払い、そのジャケットを買い取ることにした。
「今着てるこれな」
言ってOさんは示した。
「神社でお焚き上げとかやるよな。そのとき一緒に燃やしてやる」
ジャケットの表面にシワが寄り、「HELP」と文字が記された。
市職員はOさんの予定に賛同した。




