懐中時計の可能性
そのミスは、致命的である可能性がある。
妙求市のスマートフォンのアンテナショップ店員であるGさんが対処課に来たのは、物品を預けるためだ。
「やっぱり、その、説明しなきゃ駄目ですかね、俺としても半信半疑というか信じてはもらえないだろうって話なんですが」
対処課のバックナンバーを見せることで、納得してもらった。
「……もともと、海外で買ったものなんですよ」
大学の卒業旅行の際に購入したのだという。
「割ときれいな懐中時計で、気に入ってたんですけど、変なボタンがあったんです」
竜頭というゼンマイを回す箇所にそれはあった。
「なんだこれと思って押したんですけど、なんにも起きませんでした。けど、変なことにはなりました」
持ったまま通ったというのに、税関で見咎められなかった。
「俺、迂闊なことにチェーンつけて首からかけたまんまだったんですけどね、金属検査にすら引っかかりませんでした」
Gさんは税関のミスだと笑ったが、そうではないとしばらくしてから気付いた。
「おしゃれとして見せびらかしてたんですけど、誰も指摘してくれなかった」
それどころか、何も見ずに正確に時間を言い当てることに驚かれることすらあったという。
「ちゃんと俺、懐中時計を見て言ってるのにですよ?」
その懐中時計はGさんにとって特別なものになった。
「誰からもわからないもんですからね、ちょっと凄い人になった気分でしたよ」
その懐中時計の特色は、不可視だけではなかった。
「仕事でミスしましてね、上司からネチネチ言われたんですよ。いや、本当に俺のミスだったから怒られるのは当然なんですけど、ぶっちゃけて言うと、時間の無駄だなぁ、って……」
見えないこと良いことにその時計を弄り、スイッチを押した。
「……気づけば、俺は帰宅してました」
Gさん本人の意識としては瞬間移動のようだった。
「ちゃんと時間も過ぎていたから、そういうのじゃないっていうのは、わかったんですが」
翌日、同僚に聞いたが、Gさんは頭を下げて粛々と叱られ、仕事に戻ったそうだ。
「俺にとっての無駄や、嫌な時間をスキップできる、これは、そういうボタンでした」
Gさんが行っているスマートフォンに関する仕事は、長々とした時間が必要となる。
料金プランの説明、身分証明書の確認、あるいは重要事項の確認、他店員によるダブルチェックなど、細々としたものが重なり時間を消費する。
「その大半は、間違えさえしなければルーチンワークです」
トラブルがない限り、退屈な作業だった。
その時間をスキップしても問題ないほどに。
「……俺は、定期的にこの懐中時計のボタンを押しました」
ミスがない堅実な仕事ぶりに、Gさんの評価は上がった。
「同時に、トラブルが起きるたびに俺が出張ることになりました」
それは無駄でもなければ嫌なものでもなかった。
「俺本人としては、楽しい毎日でした」
何もなければボタンを押すだけで1日の仕事が終わった。
Gさんは元気なまま夜を楽しんだ。
「だんだん、おかしなことになったんです」
ある時、同僚に言われた、昨日のトラブルは大変だったよな、と。
「俺としては何も無い日だったんです、ええ、いつの間にか突発的なミスや困難すら、俺にとって「無駄で暇な時間」になっていました」
Gさんが起きない時間が増えた。
ときには遊び時間ですらもスキップしていた。
「スキップしても構わないと思えてしまうような時間の割合が、どんどん増えたんです」
だが、ボタンを押さないわけにもいかなかった。
「退屈だけど堅実でミスのない仕事、今の俺にそれができるとは思えなかった」
Gさん自身の意識としては、上司に怒られたときとまるで変わっていなかった。
「まるで二重人格ですよ、俺じゃない俺は、上手くやっている」
ひきつった笑顔で言った。
「毎日、ボタンを押すたびに怖くなるんです」
一日どころか、ついには数日がスキップした。
その間に起きたすべてはルーチンワークであり、無駄と判定された。
「たぶん、この時間範囲は伸びるんです。つ、次にこのボタンを押したときは、もう俺が爺さんになってるか、棺桶に入ってるかもしれない」
それでも手放せなかった。
少なくともGさん一人では無理だった。
「意識がないときの俺は、みんなから信頼されている。俺は、その信頼を手放すことになる。それでも、これ以上、俺は俺を消したくない」
だから、懐中時計を対処課に預けたいのだという。
「お願いします」
取り出した懐中時計は、市職員から視認できなかった。
力を込めて、惜しむように机の上へと置いた。
「これを俺の手に届かない場所に――」
顔を上げたGさんと目があった。
その瞳は凪いでいた。
先程まであった恐怖と混乱はすべて消えていた。
「……大変失礼しました。この度はこのような機会をいただきありがとうございます。しかし、やはり預けることは止めにいたします」
理由を訊いた。
肩をすくめられた。
「掲載することも止めてはもらえないでしょうか。私個人といたしましても、このような荒唐無稽な話を広げ、信頼を損なうことをしたくはありません」
ルーチンワーク、あるいは退屈な作業とは、その懐中時計のボタンを押す作業も含まれるかを訊いた。
「さあ、どうでしょう」
本人でなければ掲載を取りやめることはできない。そう伝えた。
Gさんだった人は黙って微笑み、見えない懐中時計をポケットへしまった。




