自転車群の可能性
その自転車の群れは、実在しない可能性がある。
Kさんの趣味はサイクリングだ。
休日ともなればあちらこちらに出かける。
「運動不足解消とか、うん、そんな感じで」
気ままに遠くまで進んでは、スマホの地図を頼り帰るのが常だった。
「それでも、けっこう迷うけどね」
日が沈み、阿左美通りを順調に進む途中ですれ違う集団がいた。
「ライトを光らせた自転車の人たちで、けっこう速かった」
歩道向こうから来るそれの光量は眩しく、乗る人の姿形は分からなかった。
「けど、後から後から続くの」
立ち止まるKさんの横を、自転車が次々に過ぎ去った。
何人かは大きく歓声まで上げていたそうだ。
十台、二十台と通過した後でも、さらに続いた。
「なんかの自転車レースでもやっているのかな、って思った」
暗闇に紛れ、乗っている人はシルエットしか分からなかった。
「いろんな人がいるみたいだった」
Kさんは最後尾までその流れを見続けた。
一分以上、通過は続いた。
「自分でも不思議なんだけど……」
それについて行ってみよう、と思った。
すでに遠くまでサイクリングした後であり疲労していたが、好奇心が勝った。
「その場でUターンして、追いかけたんだ」
すぐに捕まえることができた。
「最後尾についたとたん、楽になった」
前から吹く風が軽減された。
「さっきより、もっと早く漕げる気がした」
そうして全力で走らせていると、肩を叩かれた。
「怒らせちゃったかな、とか思ったんだけど、違った」
歓迎の動作だった。
同じ喜びの匂いがあった。
「どこを走っているのか、分からなかった。すぐ前の人について行くので精一杯だった。横を景色がびゅんびゅん流れて、うおー、ってちょっと叫んだ」
気づけばKさんの背後にも人がいた。
自転車の群れはその長さを伸ばしていた。
「なんなんだろうね、あの嬉しさ」
ひょっとしたらそれは、Kさんの走る姿を追いかけて来た人だった。
「長さだけじゃなくて並走する人の数も増えて、たぶん、最後の方は車道を走ってた」
不思議と車はなかった。
前後はもちろん、対向車線にすら車はなかった。
「よく通っているルートだったから、わかった」
特徴的なカーブにより、今どこにいるのかを理解した。
「阿左美通り一丁目からずんずん上に行って、須園通りから丙玲横丁を通り過ぎて、もっと北へ」
Kさんは、もはや漕いでいるのか自動的に動いているのかすら分からなくなった。
「どんどんスピードは上がった。もう限界だって思うのに、諦めるタイミングで隣の人が背中を支えてくれた。その人が落ちようとしたら、こっちが支えた」
競争ではなかった、とKさんは言った。
「みんな、スピードが欲しかった」
顔も名前もわからない人たちとの一体感があった。
「切っ掛けなんて適当で、意味も理由もなんもなくて、だけどみんなが全力で漕いだ、無償に楽しかった」
一晩中走り続けてやると思った。
「けど……」
不意に、ペダルが空転した。
事故を起こしたわけではなかった。
矢管区へと入った途端だった。
「……支え合って、笑って、一緒に叫んで、たしかに隣にいたはずだったのに……」
気づけば周囲に誰もいなかった。
「一人で自転車を漕いでた……」
どれほど見渡しても、影も形もなかった。
車道から歩道へと戻り、ブレーキをかけた。
「怖いくらい、静かだった」
全身で呼吸し、体中から汗が出ていた。
体力の限界であり、口からは絶え間なく白い息を吐き出した。
その寒さの中、追いつかなきゃ、と思ったそうだ。
「だって、消えてなくなるはずない。みんな待ってる。だから、見つけないと」
その前に、声をかけられた。
「友達の、Hちゃんだった」
寒さに弱いHさんは、いつものように着ぶくれしていた。
「どうしたの、って聞かれて、正直な話、邪魔だな、って思った」
先程までの出来事を、上手に説明できる気がしなかった。
早く追いつかなければと、それだけを考えた。
「でも、Hちゃんが言うんだ。さっき、変な自転車をたくさん見かけた、ライトがすごくて顔は分からなかったけど、なぜか追いかけたくなった、って」
Hさんの家は、すぐ近くだった。
その家に自転車があることを、Kさんは知っていた。
Hさんの顔には、取り憑かれたような熱狂が浮かんでいた。
「なんかね、思い浮かんだんだ」
Hさんが衣服の大半を脱ぎ捨て、自転車で駆ける姿を。
そのときの喜びの表情ですらも、現実的に想像できた。
「強引にHちゃんの手を引いて連れ帰って、一晩中ずっと一緒に家で遊んだ」
あの集団に、友達は行かせられない。
Kさんが諦めた理由だ。
「けど……」
それでもKさんは、サイクリングを趣味としている。




