68 恩讐の炎、復讐の牙(9)
オルトロス視点です
「おら、くらえ!」
「……の隙に《天使の沈黙》!」
鼻っ面に斧が叩き込まれる。それを避けるために半歩後ずさって、視界の悪い右側から飛んできた黒色の魔弾が身体をかすめる。
地面にぶつかった斧の一撃は、容易く地面を割った。かすめた魔弾が後方の木々を軽く薙ぎ倒す音が響く。それらの脅威に浸る暇もなく、視界の通らない遠くから矢や魔術が迫る。
うっとうしい遠距離攻撃の雨の元を絶つために身を翻そうとすれば、やつが必ずその隙を見逃さない。
「オルトロス、今日はお前が狩られる番だ。10年前の借りはここで返す――《炎刃・薔薇棘》!」
10年前にこの身の右目をえぐり左前足に癒えない傷を叩きこんだ忌まわしき人間は、魔物・魔樹と成り果てた身体を十全に我がものとしている。
ひと噛みして呪いを吸い出してやればやつは果てるというのに、そのことを知ってか必要以上には近づいてこない。あごに巻き付く蔓もあと少しのところでほどけない。
「覚悟しろオルトロス。オレはもう、人間としての尊厳すら捨てた!」
奴はひとつ間違えば身体ごと燃え尽きてしまうだろうに魔樹の身体を燃焼させ、伸ばした枝腕の先をさらに細かく分岐させては尖らせて棘とし、それを何十何百とこちらに発射しては執拗に左目を狙ってくる。炎熱と刺傷の二段構えであった。
息を荒げたオルトロスが、軽くステップを踏んでフェイントをかけようとした矢先、後ろ足に引っ張られたような感覚が走った。
それはやつだった。魔樹だった。足元の地面から這い出てきた分身にオルトロスは足を掴まれ、強引に回避体勢を崩されたのだ。
「――逃がさん!」
「うっ、味方ながら複雑な気分」
「罪悪感があるぞこれ……」
「尻込みすんな、分身なんざ巻き込んででも攻撃しろって言われただろうが!」
厄介にもほどがある、とオルトロスはほぞをかんだ。
避けなければいけない攻撃を確実によけようとするあまり、後ろ足に矢傷ができた。続けて火の玉が尻尾を撫でる。傷が着実に積みあがっていく。そして魔樹の分身が継続的にスタミナを削る。
オルトロスの動きはコントロールされていた。視界が完全にさえぎられてしまえば、オルトロスは聴覚と嗅覚のみに頼らざるを得ず、それは事実上の敗北になる。我が子を助ける難易度は際限なく上がる。
オルトロスは最初の一手を間違えたのだ。初手で攫った人間を見せつけるように殺すのではなく、拠点を急襲した後でゆっくりとそうすればよかった。
あれは人間たちの士気を下げるのが目的だった。ドタドタと走る音を聞きつけこっそりと後を追い、拠点を見つけたことを幸運だと嗤い、そのために攫ってきた人間を見せしめにしようなどと考えたのは、振り返ってみれば蛇足だった。
見せつけるのは死体だけでよかった。煮えたぎる執着が正常な思考から自分を遠ざけたとオルトロスは後悔した。あの人間は取り返された。完全な失敗だ。
復讐に燃えるあまり、余裕さえいつの間にか切り捨てていた。あまつさえ人間風情に不覚を取り、顎を封じられ呪いの吐息も遠くまでは飛ばせなくなった。
ああ、なんたる屈辱。なんたる失態か。年を取るあまり慢心さえ宿せずにいたとは。
――では、遊ぼうか。
思考を切り替える。痛みは避けるものではなく必要経費だと割り切る。
野生に生きて怪我をするのは当たり前だ。その当たり前を受け入れるだけの話。
死なないことを念頭に置きすぎていた。違うだろう、なすべきことは最初からそこにはない。自分の生死は、あの子の生存以上に気に掛けるものでもないのだから。
さあ決死行を楽しもう。所詮、生とは息絶えるまでの暇つぶし。それが今日になっただけ。
10年前のあの日のように。驕りを胸に秘めて。高慢を脚に込めて。もう一度あの街を蹂躙しに行こう。
童心に帰った大人のように、オルトロスは全力を脚に込めて走り出した。




