56 事態急変
オルトロスは10年前に嗅いだきりの匂いを覚えていた。
一度殺したはずの、呪いの吐息で身体が崩れたはずの人間の匂いを。何の奇跡か肉体を失い転がり出た魂を呪いが容器となって包み込み、魔物としてよみがえらせた己の不手際を記憶していた。
だからその匂いが染みついていた若い人間を狙った。きっとこれはあの人間にとって家族かそれに類する大事な存在だろう、とオルトロスは攫ってきた小さな人間を見下ろした。
意趣返しは成功した。賭けではあったが、これで多少は溜飲が下がるというものだ。
ああ忌まわしい。やつに負わされた傷跡は、10年たっても癒えない屈辱だ。我が子を攫ったのもやつに違いない。
だからやつにとって大事な人間を攫ったのだ。これでようやく対等だ。我が子を今にも助けに行きたい衝動を抑えた甲斐があった。
人間は我が子を殺せない。苦痛を与え悲鳴を上げさせることしかできない。それが呼び鈴として機能するはずだという希望に縋らずにはいられない。なぜなら、人間とは自分たちで作り上げた舞台で戦いたがるものだからだ。
今も沸騰しそうな理性を何とか押しとどめて、オルトロスは死なないくらいの力加減で攫った人間を蹴り飛ばした。
我が子が負わされている苦しみはこんなものではあるまい。ここ1週間、ずっと痛みにあえぐあの子の声が聞こえてくる。万が一死んでしまうことがあったなら、という不安がいつも背中に付きまとっている。オルトロスは漆黒の毛を逆立てて怒りに震えた。
別にこの人間は人質でも何でもない。この人間を助けにやってきたやつの目の前で潰してやるのも一興だ。その時までは生かしておいてやろう。もちろん、悲鳴はたっぷりと上げてもらいたいものだが。
かの憎たらしき人間に届くように。耳をふさいでも聞こえるように。
もし眼前に相まみえる時が来れば、我が身から噴出した呪いを引き取ってやろう。その身体を構成しているものを取り込んでやるとしよう。己の内から溢れ出たものなのだから、改めて吸収してしまえばいい。吐瀉物を食むような汚い行為だが、この際やり方は選ぶまい。
ああ楽しみだ。どんな力に目覚めていようとも、どんな覚悟に身をやつしていたとしても、しょせんは我が呪いの恩恵で生きながらえている枯れ木に過ぎない。
あと一歩で仇を打てると顔がほころぶとき。もう少しで大切なものに手が届くと安堵したとき。たかがひと舐めで崩壊していく身体を眺めながら、お前はどんな顔を浮かべてくれるのだろうな?
オルトロスは邪悪な顔を浮かべて笑った。それはまさしく復讐鬼の顔だった。




