39 親心子知らず
そのオルトロスは、10年前に訪れた街を遠くの山頂から見下ろしていた。
右目と左足に癒えない傷を刻まれた、若きの至りを思い出す。親から自立したばかりの彼女は、人間社会に興味があった。親は人間が上手い餌だと教えたうえで、人間には関わるなと念押しをした。
その禁を破って、脆弱な人間たちをむさぼり喰らって、手痛いしっぺ返しを食らった。親の教えが身に染みたのだ。人間は大抵弱いが、強い人間が報復しに来る。逃がすものかと鬼気迫る。なるほど、関わるだけ損だ。
――だから、我が子にも人間には関わらないようしつけたのに。
隙を見ては抜け出しているのは知っていた。だが自分の姿が重なって、少し痛い目を見て反省すればいいのだと放っておいた。面倒ごとを起こしても請われるまで助けてはやるものかと、むしろこちらから距離を取ってやった。
だがその判断が仇となったと、オルトロスは毛を逆立てて息を荒げた。
昨日までは漂っていたはずの我が子の匂いは途切れた。状況が見える位置にまで走った時にはすべてが終わってしまっていた。我が子は10年前よりも高く厚くそびえたつ壁の向こう側に連れて行かれたのだ、とオルトロスは確信していた。
後悔ばかりが脳裏をよぎる。せめて自分がこの街を襲った時分の体躯に育つまでは、もっと厳しくしつけるべきだった。いや、しつけ過ぎたのがよくなかったのか。連れ戻したらどう叱るべきか。それとも同情を持って接するべきか――
オルトロスは低い唸り声を響かせた。雑念はいらない。我が子を救う。そのために人間は殺す。それ以外の思考は必要ない。
これは復讐だ。我が子をかどわかされた仕返しだ。肉の一片も残してやるものか。
足に力をこめて、冷徹に、冷血に、そして冷静にオルトロスは踵を返した。
まだその時ではない。今は力を蓄えなければ。10年たったということは、10年老いたということだ。
かつてのような暴虐の嵐ではいられない。ピークは既に過ぎ去っている。絶頂期の過ぎた己の万全をもって、人間の万全を打ち砕かなければいけない。
できる、できないの話ではない。遂行するのだ。やらねば我が子の命はない。
オルトロスは駆けだした。まずは肉を食わなければ。狩りをしなければ。王者にふさわしい体力、王獣に似つかわしい体格を取り戻すところからだ。
人間よ、今日は見逃してやろう。つかの間の平穏に浸るがいい。激しい怒りに身を焦がしながら、オルトロスはその牙を月夜に晒した。
邂逅の日を思い出す。絶命と引き換えに同胞が守り通した幼い命。親の匂いさえまだ嗅ぎ分けられないであろう、生まれ落ちて数カ月の矮小さ。
――たとえ血の繋がっていない個体であろうとも。腹を痛めて産んだ実子ではなかろうとも。親のいない子どもを見捨てる理由はない。親として振る舞い、親として命を賭けることに何の躊躇いも後悔もない。




