35 最初の一手
先生は俺に、10年前にオルトロスの襲撃を聞いてスウォールを訪れていたことを少し語った。傷ついた多くの人々を癒して回っていたのだとか。
キララさんとはそこからの関係らしい。なのでバズー・ガッツバーグこと支部長のことは詳しくは知らないということだった。
そういえば支部長を見てぎょっとしていた気がする。まあ初見はどうしても驚きますよねアレ。
俺はひそひそ声でキララさんに疑問を投げかけた。
「ところで10年前の先生ってどんな背格好でした?」
「おんなじだよ。あの顔あの身長あの白衣、何も変わりやしない」
ひそひそ声のキララさん曰く、やっぱり先生は10年前から年を取っているように見えないらしい。
「えっと、もしかして外見の話ですか? それはちょっと別口で受けた呪いのせいと言いますか」
察しのいい先生が乗り気ではない様子で声を上げた。キララさんが真剣な目つきになって先生を見つめる。俺も続くように先生の顔を見た。呪いを受けていたなんて初耳だった。
「何のデメリットもない不老なんて、呪いひとつで成立するもんじゃないだろう。それとも顔だけの話か? どうあれ何を犠牲にしてる、さっさと代償を吐け」
「生殖機能の不全です。あと五感もいくつか。他にもありますけど、でも今大切なのはそこじゃないですよね」
「……まあそうだ、こんなことで時間を潰すのもやめだな。ではお前たちふたりに、作戦を進めるうえでの大事な任務を与える」
俺としても呪いの代償とやらの詳細が気になりはしたが、先生の言う通り今すべきことはほかにある。
俺は一言一句も聞き漏らさないように耳を澄ませて、背の低いキララさんと視線を合わせるようと膝を曲げた。目上の人を見下ろしながら真面目な話を聞くのはよくないことだ。
不興を買ったのかキララさんは俺の脛を蹴った。俺は悶絶した。
「オルトロスを匿っていたギャングと接触してくれ、そこから悪ガキどもを切り崩す」
「具体的にはどんな風にです?」
「『オルトロスを狩るにあたって郊外は焼き払う。だが早い者勝ちでお前たちを壁の中に入れて助けてやる』かな。下っ端が情報を漏らす時間も考慮して、4日後には潰し合いが起こる。そこで――」
助ける前から潰し合わせちゃダメじゃないか。というか、焼き払うっていうのは誇張しすぎだ。事前に俺たちの手で更地にしておくとかじゃなくて、オルトロスとの戦いの結果そうなるかもってだけで。
「で、潰し合いでどのギャングも弱ったところに介入だ。『オルトロスとの戦いに協力するなら、どのグループも助けてやる』ってな」
「最初から『話を聞いてほしい』って譲歩してたら、つけあがってきますからね。落として上げる、交渉の基本です。懸念があるとすれば、様子見を決め込むグループと巻き込まれる一般人ですかね」
「それも含めて、どれだけ初手で対立を煽ることができるかが重要だ。どんなに慎重なやつも火の粉が降れば逃げるか振り払う。ただ、一般人は積極的に受け入れろ。顔ひっぱたいてでも壁の中に連れ込め」
何もせずにいたら降りかかるのは火の粉よりもひどいものだしな、と悪い笑顔をキララさんは浮かべた。俺は言葉を失っていた。
この人、わざと存在しない妥協点を作り出してギャングたちの首根っこを掴むつもりだ。先生もこういった交渉には慣れっこのようだ。なるほど、ただ施すだけだとうまくいかないってこともあるんですね。勉強になりました。ウンコの神には出せない見識の深さだ。
そんなことを思った矢先に肛門が震えた。やめろ何も話すなお前は。
「まさにウンコと同じだなァ。苦難から解放される瞬間の快楽はひときわ甘いものだ。それは時に思考すら狭め、用意されていた選択肢に疑いを持ちながらも飛びついてしまう。さながら、肛門への圧迫感に耐え切れなくなった時、誘うような妖艶さを放つトイレがすぐ近くにあったかのように――」
「イーヴィル、黙らせろ」
「神様、黙らないと俺一生このままウンコしてやらないぞ」
「わかった、やめよう! 確かに余計な口出しであったなァ」
キララさんはマジかコイツという顔をした。その表情が俺に向けられていたのかウンコの神に向けられていたのか、それはわからなかった。
俺は尻をさすった。自分を慰めるような手つきだった。




