「聖書」はシオニストの「計画書」だった!? 計画に利用されている「艱難前携挙説」について
【閲覧注意】
「聖書」を信じている方にとってはとても衝撃的な内容である可能性があります。
また、筆者は信じている方々を軽蔑するつもりはありません。
ただ、「偉い人」の言うことを「妄信することは危険」であると言いたいのです。
それをご承知の上でお読みください。
筆者:
本日はご覧いただきありがとうございます。
さて、前置きですが正直言ってこの内容はかなりセンシティブなので公開しようか迷いました。
聖書を信じている方々にも素晴らしい方が大勢おられますし、それらを否定してしまうことにもなりかねないからです。
ただ、信じている方々の人格を否定したいわけでは無く、「可能性」としてご覧いただきたいのです。
僕の非才と情報収集不足で大きな過ちをしている可能性もあるのでそう言ったことも考慮していただければと思います。
質問者:
(それなら毎度同じような前置きが必要な気が……)
そんな前置きをしなくてはいけないほどの内容ってどんなことなんでしょうか……。
筆者:
一般的には「聖書は霊感によって書かれており改竄はされない」と言う前提の下で信じている方と言うのが多いと思うのですが、
実際のところそれは少し過激に言わせてもらうと「妄信」に近い事ではないかと思っています。
聖書と言うのは定期的に日本語訳が改訂されているのですが、その内容が大きく変化していっているんです。
質問者:
でも聖書って元の言語が英語、ギリシャ語、ヘブル語とからしいじゃないですか?
訳が時代によって変化していくのは当たり前じゃないですか?
分かりにくい文体で書かれていても困りますしね。
筆者:
しかし、ここから僕が申しあげるのは“そのレベル”ではなく“丸ごと消されている”ということです。
まず、マルコの福音書9章44節
『そこでは、彼らのうじが死に絶えることはなく、その火が消されることはありません』
と言うのが丸ごと消えています。48節に同じような文言があるからと言うことですが、繰り返して語ると言うことは“それだけ重要だ”と言うメッセージ性をも消しているために容易に消すべきではないでしょう。
また、マルコの福音書16章9節~20節ここも無い聖書とある聖書があります。
理由としては、写本によって9節以降があるのと無いのがあり、どちらが本当かで議論が分かれています。
しかし、その議論も研究者内で確定していないために必ず9~20節を残しつつ注釈を入れなくてはいけないように思います。
質問者:
確かに、書き手側からしたら何かしら意図がありそうなのに消してしまうのはおかしいですよね……。
筆者:
ローマ人の手紙8章1節では昔は、
「したがって、キリスト・イエスの内にあって、肉にしたがって歩まず御霊にしたがって歩んでいる人たちに対しては、今や、一つの有罪判決もないのです」
と文語訳聖書であったもの(上記のは分かりやすく今風に直したもの)が今では、
「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない」
と前半の部分が大きく削られています。
これ以外にも多くの場所が「訳の変化」と称して大きく内容が変更されていますが、
そのレベルを超えている個所も多くあるように感じます。
恐らくは、「訳の変化」と言うことにして各言語をちょっとずつ変えていけば「伝言ゲーム」のように今では「原文」とは遠くかけ離れているものになってしまっていると思います。
例え聖書の記述が正だとしても、その教えは残骸のようにしか残っていないというのが僕の感覚です。
質問者:
これはどう見ても「訳の変化」の領域を超えていますね……。
しかしながらどうして、節ごと丸ごと消したり内容を変えたりしてしまうのでしょうか?
筆者:
宗教の要素として大きくあるのが、
「時の権力者に忖度して信者数を増やす」といったことがあります。
日本では鎌倉仏教、江戸時代の檀家制度などがそうです。
僕は宗教学者でもなければ信者さんでもないのでもはや推測の域を出ないのですが、
見たところ上以外にも色々と「改訂」された箇所はあるのですが
「キリストの神との一体性」「地獄の概念」
こういったところが変化しているように思います。
具体的には今の宗教家としての頂点である「ロー〇教皇」に忖度した結果「改訂」されて行っているように思えます。
彼は神の信託を得て活動をしていますからそれ以上のものがあってはいけないわけです。
質問者:
なるほど……。
筆者:
また「シオニスト」と言った重要なファクターがいます。
「シオニスト」と言うのはユダヤ人の中で「かつてのユダヤ王国を復興したい人達」
のことです。
ちなみに今のパレスチナ自治政府の全ての支配領域を最終的には併合したいと彼らは考えています。
これはオスロ合意を守る気が無く、ヨルダン川西岸にイスラエル人を入植させて事実上の“侵略”を行っていることからも明らかだと思います。
ただ、世界の支持が無ければ中々パレスチナ自治政府を完全には追い出すことができないわけです。
特にエルサレムにある岩のドームはイスラム教にとって大事な施設の様ですから国際的な反対一色では破壊できません。
そこで自分たちの派閥以外の支持を取り付けるために、
彼らが利用しているのが「艱難前携挙説」といった一部のプロテスタントで信じられている聖書解釈です。
「解釈」であれば訳の仕方を変える必要も無いので大変便利です。
質問者:
いったいどのような考え方なんですか?
筆者:
7年間の大患難時代の前に信者が携挙(天国に上げられる)といった考え方です。
そしてその大患難の直前にはエルサレム(具体的な場所は今の岩のドームがあるところ)に第三神殿が立ち、ロシアとイランなどが攻めてくるものの天罰のようなもので壊滅すると言った話があるそうです。
つまりこのストーリーに基づくと「信者が携挙される」ためには「第三神殿」がまず立つ必要があり、その前には「イスラエルの統一」が必須になるのです。
ここからは陰謀論チックになってしまいますが、この「艱難前携挙説」は「シオニスト」から援助を受けて流布した「キリスト教徒をシオニストの味方につけるための工作」の一つの考え方だと個人的には思っております。
代表的な「シオニスト推進派」である「黒い教皇」アルバート・パイクは1809年に生まれ、1891年に亡くなったにもかかわらず、「イスラエルの建国」とそれに伴う第三次世界大戦を予言しています。
これを聖書解釈に反映させたと言ってもおかしくはありません。
質問者:
人生で使いきれないほどの途方もないお金を持っている方たちは、もはやお金ではなく「自分たちの理念」の達成のために動いていると、以前筆者さんがおっしゃっていましたものね……。
筆者:
ちなみにこの「艱難前携挙説」というのは、
アメリカでは多くのプロテスタントが信じていると言われています。
日本人の多くの方には大変なじみのない思想だとは思うのですが「レフトビハインド」などと言った映画化もされており、海外では認知度が高い考え方なのです。
始まりは1800年代中盤にイギリスのジョン・ネルスン・ダービが発案し、1900年代に入ってからルイス・スペリー・シェイファーなどがアメリカで考え方を広げました。
書かれてから2000年以上歴史がある聖書の歴史を考えると凄く最近の解釈の仕方だと言えますし、パイクの活躍時期とも重なります。
そして、「無理やり予言を成就」するための活動が今後出てくるのではないかと懸念しています。
質問者:
本当にそうかは分かりませんが、こんなに聖書そのものが変化させられているとなると、色々考えを巡らせてしまいますよね。
筆者:
また、キリスト教上層部にとっても「信者の獲得活動」の一環として「信者になれば携挙されて艱難に遭わずに済む」と布教をしやすくなります。
そのために布教活動をしている側も受け入れやすくなり、キリスト教の主流派の1つになっているという側面もあるのでしょう。
しかし、信者になれば「携挙」されることについては正直なところ「現実逃避」にしか個人的には見えず、有意義なものに全く思えません。
信じていれば日頃の生活がどうであってもいいのか? と思ってしまったり、信じるっどの程度の内容をどこまでだ? と言うことになってしまうからです。
やはり日々の生活を大事にしていくことが重要になってくると思います。
質問者:
確かに理論としてちょっとおかしいような気がしなくもないですね……。
そもそも信者さんが天にいなくなったら地上で教理が広がらないような……。
しかし、「携挙」そのものは聖書には無いのでしょうか?
筆者:
旧約聖書の創世記5章ではエノク、第二列王記2章ではエリヤが携挙された例があるようです。
ただ彼らは神の意向に沿った働きをしていた「聖人」や「義人」と言っていい存在だったようです。
仮に艱難前に携挙されるとしても、そのレベルの「信仰」が要求されると思われるので、この地上にそんなに数がいるとは思えません。
質問者:
皆さんそんなに自信があるんでしょうかね……。
筆者:
このように、最初の段階から内容まで精査すればするほど大分怪しい考え方のような気がします。
ですから僕はこの「艱難前携挙説」はキリスト教徒が「シオニスト」を支持させるために支配者層が作り上げた「計画書」であると考えています。
これに沿って活動することで「聖書予言が実現した」と見せかけることができるのです。
そしてシオニストは世界的なキリスト教徒の支持を得ながら「グレートイスラエル」を誕生させようと目論んでいるのです。
今回の10月からの一連の動きのきっかけもモサドが情報を入手していたのにもかかわらず“敢えて阻止しなかった”という説もありますから「統一に向けて前進」するための工作の一環の可能性もあるわけです。
質問者:
モサドは世界一の諜報機関とも言われていますからね……。
それにしても、「計画書」だとしたら恐ろしいですね……。
200年近くもかけての計画を実現すると言うのが本当にすごい執念です。
筆者:
そもそもの話、国が無くなって2000年近く経つのに民族性が残っていることが凄いですよ。
それだけのイスラエル人の一部には“神から認められた民族”というプライドと執念があるのでしょう。
ただ、一つ断っておきたいのは「艱難前携挙説」を信じている方を貶しているわけではありません。
「シオニスト」を支持していない方もいるでしょうしね。
僕がこれまで述べてきたような“要素があるかもしれない”ということを言いたいわけです。
また、どんな考え方でも心の平穏が保たれるのであればそれで良いと思います。
未来のことは分かりませんし、もしかしたら本当にそれが正しいかもしれませんし、僕が全面的に間違っているかもしれません。
もう一つ、パレスチナのテロを容認しているわけでもありません。
敢えて言うなら“どちらも良くない”と言うのが僕の考えです。
質問者:
筆者さんはとにかく考えを押し付けるかどうかが大きく分ける印象を受けますね……。
筆者:
そうですね。
特に一神教の方々の中には「自分が絶対に正しい」「相手が絶対に間違っている」と言った価値観の押し付けが争いの火種を生んでいるように思えます。
“あなたはそう考えるんですね”と相手の考え方を許容して議論をしていくことが大事になってくると思っています。
ちなみにここまで長々と書いてきた僕のこの考えも“一つのものの見方“であり、
強制するものではありません。
一つの意見として“参考”にして今後イスラエルで起きることを注視してもらえればと思います。
どんな考え方であっても“どっぷり浸かる”と言う状態が一番危険だと個人的に思っています。
例えば自分が「携挙」されたいがために「イスラエルを応援」して「パレスチナ人をエルサレムから排除しろ!」とか言うのは違うだろう?
と思えたり、
「携挙されるから何も準備をしなくていい」
と言うことは危ないのではないかと言うことです。
そう考えている方も全てとは言いませんが、少なからずそう言った「要素」を散見されるような気がしましたので書かせていただきました。
※ここら辺のニュアンスの伝え方が難しいです
質問者:
なるほど、自分のために他者を蹴落したり備えないことは良くないですからね……。
しかし、筆者さんは信者さんでも無さそうなのに聖書について詳しいんですね?
筆者:
僕は政治・経済がメインではあるのですが、世の中の人々の深層心理に一体全体何があるのか?
そのことについて知りたいので、色々な宗教や哲学についても要素の解析をしています。
これは世界情勢を分析する際には必須の知識だと感じています。
特に聖書の旧約聖書に関してはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つに共通しており、これだけでも数十億人の信者さんがいるので非常に研究のし甲斐があることだと思っています。
質問者:
信じていないのに研究するっていうのも中々無い神経だと思いますけどね……。
筆者:
ただ、「この世の中の宗教」が「忖度」や「お金儲け」に走っているために信頼を置いていないというだけであって「神」に近い観念はあると思っています。
偶然の産物でここまで生物が多様化したとは思えず「何か特別なひと手間」があったからこそだと思うからです。
ただ、それは「人知の外」にある存在なので、恐らくは人間では到達することはほぼ永久に叶わないでしょうし文章化されるとも思えません。
質問者:
なるほど、筆者さんはそれを探し求めているという感じですか……。
筆者:
基本的に偉い人やマスコミの“他人の解釈”には従わず、最低でも疑っていきたいなと思いますね。
人生懸けてもいわゆる「神の領域」に辿り着けるとは全く思えませんが、やるだけのことはやりたいなと言う感じですね。
ということで、ここまでご覧いただきありがとうございました。
今後も時事問題や、政治・経済、マスコミの問題について解説していきます。
特に重点として置いているのは「財政破綻論の嘘」「選挙制度改革」「緊急事態条項反対」の3つです。どうぞよろしくお願いします。
※「携挙」がどういうことか大変分かりにくいと思いますので「レフトビハインド」を一度ご覧になってみると良いと思います。
必ずしも「携挙」を信じている方々があの感覚だとは思いませんが、何も分からない状態よりかは理解状態は促進できると思います。