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黒い靄

作者: 夕闇優子

 男は今日も安酒を体に流し込んでいた。三十四という年齢は決して若くはない。しかし呑まずにいられない理由があった。

 その男はある小学校の教師であり、今は五年生の担任を務めている。生徒、親からのそれまでの評価はまずまずといったところで、大きな波風を立てたことがないのが唯一の自慢になるほど平凡な教師だった。朝早くに学校へ行き、一日のスケジュールを再確認し、配布物を用意する。日中の当たり障りのない授業を終えると、たいして面白みのない、しかし伝わりやすいプリントを作成し、早くも遅くもない時刻に家へ帰っていた。教師という職業は決して給料の良い仕事とは言えないが、男は確かな満足を感じていた。それが今や、先にも述べたように酒無しでは寝付けないほどのストレスを抱えている。

 すでに度数の高い缶チューハイを一本空にし、さて次はグレープ味にしようか、などと考えているが、これに口をつけるときには、あの始まりの日から今日までを思い出すのだ。

 今から八か月前、男は自分が精神を病んでいるのではないかと疑った。いや、正確にはまず目の病気を疑った。その日教室に入ると視界が全体的に白んでいるのだ。あの有名な春のあけぼのを目にしているようだった。しかしところどころに灰色の靄もあり、もしや火災ではないか、一瞬心臓の跳ね上がるのを感じたが、そんな馬鹿げたことがあってたまるか。ほら、生徒はいつもと変わらない。この靄はただの目の疲労である。しかしこのときが男にとって最後の安心だった。

 目の前の靄は授業中もずっとあり続けた。しかし一体何故か、職員室には靄がない。男は考え、途端にある一つの可能性を見つけた。嗚呼これは目の病気ではないな。あるとすれば精神か。もしや自分でも気づかないうちに、生徒を嫌いになってしまったのか。子供の幼稚な行動を拒絶している自分がいるのだろうか。

 靄は一向に消えず、気づけば六月が終わろうとしていた。実に一か月、この原因不明の靄と付き合ってきたのだ。男は病院こそ行っていないが、自分なりにいろいろ分かったことがある。まずこの靄は子供の周りにのみ見えるのだ。なるほど、だから職員室では見えない。二つ目に靄には白いものと黒いものと、そのミックスで灰色になっているものがあり、この色には何か意味があるのだ。おそらくその子の将来の展望を色で表していると予想したが、これは勉強が苦手な生徒や友達付き合いの不得意な生徒には黒っぽい、一方で優等生といわれる生徒には白っぽい靄がかかっていたのでそう思った。そしてこの簡単な法則に気づくのに一か月もかかった理由は、大石若菜という女子生徒のせいである。

 大石の成績はクラスで上から八番。優秀ではあるが自慢できるほどではない。体育や音楽の成績も同様。友達付き合いは良く、休み時間は常に誰かと一緒にいる。家庭環境も良好で、父親は製薬会社に勤め母親は専業主婦をしている。一度この母親に会ったことがあり、そのときは真面目で柔和な印象を受けた。つまり大石若菜は順調なのだ。きっと中学でも高校でも大石は着実に成長し、大学で彼氏をつくり、羨まれることはあっても妬まれることはない大人になるだろう。しかし彼女を取り巻く靄は黒。あの零が六つ並んでいる正真正銘の黒。

 男は大石の靄に悩みながら今日も仕事を終えた。この男の性格上、何もしないまま大石を卒業させることはない。しかし一体何ができるのか。直接本人に言えばいいのか。「あなたはこのままでは絶対不幸になる。」と。頭のおかしな教師がいると思われるだけだろう。大石の友達や家族も同様だ。では同僚に相談するのはどうか。いいや、やめておこう。もし万が一大石が自殺でもしてしまえば、同僚が男をどう思うか分からない。自殺の兆候を掴んでいたのに対処しなかったと言われればそれまでである。そうこう悩んでいるうちに夏休みになり、それもあっという間に終わり、以前にも増して黒くなった大石がそこにいた。無論これは日焼けなんていう笑い話ではない。夏休み明け初日に登校したという一安心と、解決どころか回復すらしていないという不安が男にまとわりつく。

 グレープ味のケミカルな酒も一気に流し込むと、体は勝手に冷蔵庫へ向かう。五百ミリリットルで二百円しないなんて考えてみれば怖い酒だが、今はこれだけが安寧なのだ。三缶目は王道のレモン味で、男はこれを飲んでいる間に眠ってしまう。それまでもう少し、大石への答えの出ない問が続く。

 あれは十一月。まだ男子生徒は全員が半ズボンを着用し、一種の我慢大会が誰の合図もなしに始まる頃、大石はただの黒い塊になっていた。しかし奇妙なことに大石は一層健やかに学校生活を楽しみ、後期の学級委員も務めている。女子と男子の架け橋的な存在で、皆大石を好いているのがよく分かる。しかし黒。この状況に男は不気味を通り越して恐怖を感じ、結局、適当な理由をつけて放課後に大石を呼び出してしまった。「学級委員として、また生徒として困っていることはないか。」という意図が全く分からない男からの質問も、大石は真面目に「ありません。心配してくださりありがとうございます。」と答え、「逆に先生は困り事がありそうですね。最近顔が笑っていませんよ。」など言う。そこで男は「授業の仕方で悩んでいる。」とこれまた適当なことを言うと、「私には先生の頑張りがきちんと伝わっていますし、それで自分も頑張ろうと思えます。後期の学級委員長になろうと考えたのも先生のおかげです。」と言ったのだ。ここで男の感じていた恐怖は絶望へ昇華した。

 もうすぐ新学期が始まる。男はあれから面白みのないスタイルの授業を捨て、笑い声と活気のある教室をつくった。プリントにも遊び心を加えた。同僚からの賛辞や「次も先生のクラスがいい。」という生徒からの言葉は素直に嬉しい。教室は僅かに白い靄が多くなった気がする。しかし大石は日に日に黒くなっていく。表情はとうに分からないし、表情以外の全ても分からない。何もわからない。

 ただ一つ、来年は大石のいないクラスの担任になりたいと男は思うのだ。

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