ブルームーンとバイオレントサウィン
夏目漱石は"アイ・ラブ・ユー"を"月が綺麗ですね"と訳したと云う逸話があるが、私はそれが本当にただの逸話であって欲しいと心の底から思っている。前提として私は夏目漱石の熱心なファンではないし、彼がそんなことを言う訳がないだろうと、または言って欲しくないと述べたい訳でもない。私はただ"日本人"が愛を伝える為に、わざわざ月を使わなければならない所まで無愛想を拗らせているとは思いたくないのである。
「月が綺麗ですね…花朱先輩。」
地球は太陽を回るが、月はそんなのお構い無しに地球を回る。結果的に太陽を一周しているけれど、きっと地球が金星を回り出したら、月もそうするだろう。地球が拒んでも、太陽があっても、お構い無しに地球を公転するのが月ってやつだ。そして、火星を追従するフォボスみたいに、歩幅をぴったりと合わせ付いて来る我が後輩の名は、半木。率直に云うと、こいつは多分私の事が好きだ。それに気付いている事を私は別に隠してはいないし、教えてもいない。酷いと思うかもしれないが、彼女だって全く同じ事を私にしている。
「ハロウィンで満月、しかも今月二回目の…あ、ブルームーンって云うみたいです。」
彼女は慌てて付け足すようにそう言う。慌ててと云っても、依然として彼女の足並みは怖いほど私に同調したままであった。
「随分物知りだね。」
私の安い言葉に彼女は頬を染めた。安い頬とでも云ったところだろうか。
「こんな滅多に無い日を、先輩と過ごすことが出来て…幸せです。」
半木は、塾帰りにこんな事を言ってしまう人間だ。"アイ・ラブ・ユー"と云う言葉を避けながらも、他愛もない会話に"アイ・ラブ・ユー"の意味を込めた別の言葉を投げ込んで来る。もちろんそんな事をしていれば、自分の好意が私に識られてしまうなんて事ぐらい、薄々気付いてはいるはずだ。それでも尚、彼女は好意のゲリラ攻撃を辞めようとはしない。
「先輩、来年のハロウィンも月を見ませんか。」
彼女は不意に立ち止まり、スカートと長い髪を振り回して、月に背を向け、そう言った。月明かりに照らされて、彼女の黒石を投影したような眼球が鮮明に私の目に映る。半木と初めて階段の踊り場でぶつかった時と同じで、私の心は数刻の間、月に攫われた。月に攫われたと言っても、あの時彼女の宝石を照らしたのは、月でもフォボスでもなく、西日であった。逢魔が時を意地汚く焦がす、初夏の西日だったのだ。あの西日の暴力的な眩しさせいで、私はこんなにも無愛想を拗らせてしまったのである。
「来年のハロウィンは、満月じゃないと思うけどね。」
そう言い捨てた後、小石に躓きそうになりながら、私は歩くのを再開した。私は嘘つきだ。