中編
回想はそこで終わった。馬車が速度を落としはじめ、跳ね橋を渡ろうとしていた。私は窓からそっと外を眺める。見慣れたレニアスではなく、まったく違う乾いた景色。サンドルーアに到着した。
アーロン殿下の衝撃の提案から二日後、私とレイニー一族はそろってレニアスを出立した。ライナス殿下の突然の婚約破棄にカンカンに腹を立てたお父さまが、こんな国には未練はないと、早々にアーロン殿下に従ったのだ。
私はなぜかアーロン殿下と二人きりで馬車に乗せられ、ここ数日旅をした。気まずい空気になるかと思いきや、アーロン殿下は思ったより気さくでユーモアがあり、退屈することはなかった。私より二歳年上なだけなのに、大人びて落ち着いていて、皇太子としての気品にも溢れていた。どこかの第二王子なんて目じゃない。ここへ着くまでに、今のサンドルーアの現状も教えてくれた。
サンドルーアは世界の南に位置する、指折りの大国だ。それこそレニアスなんて、一捻りで潰せてしまうぐらいの。だけど最近、深刻な水不足に悩まされているという。
「我がサンドルーアは、一年を通して雨が少ない」
アーロン殿下はそう語った。
「今までは最先端の技術を用いて水を賄ってきたが、それも限界に近づいている。そこであなたに目をつけた。最初は、ほんのしばらく国賓として招待をし、雨を呼んでいただこうと思っていた。未来のレニアスの第二王子妃ともなれば、外交の関係上しばしば我が国へ来ていただくことにもなるだろうから」
「サンドルーアの皇帝陛下は、私の能力をご存知だったのですか?」
「いや。ただレニアスの状況を見る限り、どこかに「雨使い」がいることは明白だった。ちょっと目を凝らせば、すぐにわかる」
確かに我がレイニー侯爵家は、私の能力があったからこそ、湖の管理を任されていた。私が常日頃、湖の量を監視し、足りなければ雨雲を呼んで増やし、多すぎれば水路を伝って流した。
「婚約を解消したとあれば、こちらも遠慮することはない。あなたにとってはショックだったかもしれないが、サンドルーアにからしてみれば、またとないチャンスだ。あの能無し……いや失礼。ライナスが自ら、雨の恩恵を手放したのだ。それをサンドルーアがありがたく受け継いだ。アンブレアさまにはぜひとも、我が国の「雨使い」の聖女となっていただきたい」
アーロン殿下はそういって、また私に向かって頭をさげた。聖女だなんだといわれても、相手は大国の皇太子殿下。そんなかしこまられても戸惑うだけだった。
「そんなことはしないでくださいませ。私に聖女だなんて……。荷が重すぎますし、気後れしてしまいますわ」
「アンブレアさま……」
「そのアンブレアさまという呼び方も、できればよしてください、アーロン殿下」
目上の人からそう呼ばれてしまうと、余計に委縮してしまう。するとアーロン殿下は、少し困ったような顔になった。
「ではどう呼べと?」
「アンで結構です。できるだけ普通に接してくださいませね」
アーロン殿下はわずかに微笑した。
「わかった。では私のこともアーロンと呼ぶがいい。その敬語もなしにしよう」
「えっ!?」
まさかの提案に、私は慌てて首を振った。
「ダ、ダメです! アーロン殿下を呼び捨てにするなんて、恐れ多いことですわ……」
「これから聖女になるという人がなにを申すか。あなたは私よりも立場が上になるのだぞ」
「そ、そういわれましても……」
「あなたが私をアーロンと呼ばぬのなら、私もずっとあなたを聖女さまと呼ぶ。それでよいか?」
そんな脅しのようなことをいわれ、頭が真っ白になった。大国の皇太子ともあろう方から、「聖女さま」と呼ばれる私。世界屈指の大国の皇族より格上になる私……。
「よ、呼びます! アーロン、そうお呼びさせていただきます」
「させていただきます?」
「あぅ……よ、呼ぶわ」
渋々ながらも訂正すると、殿下はようやく満足したようだった。
「ではアン。これからのことを話そう。まずこれからの一週間、城に滞在してもらう。今日は皇帝陛下と皇后陛下に謁見をする。あなたの仕事は明日からだ」
「雨を降らせるぐらいだったら、今でもできるわ」
「それだけじゃダメだ。国民たちに、聖女の存在を広めたい。民の中には、本物の雨を知らぬ者もいる。我が国の雨は、それこそ霧程度にしか降らない。アンの力を広く知ってもらうことで、あなたの信頼も上がるはずだ」
アーロンは真剣な表情でいった。
「明日から一週間をかけて、都のあちこちをめぐって雨を降らせる。都であなたのことが十分に広まったことが確認できたら、今度は地方を回る」
「それは私一人で?」
「いや。もちろん私が同行する。あなたの家族は都に屋敷を用意する予定だから、準備が整い次第そちらに移り住んでいただく予定だ」
慣れない国を一人で旅することにならなくてよかった。そのことにホッとすると同時に、アーロンと一緒というのもドキリとさせられた。でも、そうよね。私は大事な聖女なんだから。それにふさわしい護衛と案内人をつけなきゃならないのよね。自分でいっててものすごく恥ずかしいけど!
馬車がさらにゆっくりになり、停車した。別の馬車に控えていたアーロンの付き人が駆けてきて、戸を開けてくれた。アーロンが先におり、私に手を差し出した。
「さあ、どうぞ。聖女アン」
まるで面白がっているかのような口調に、私もついつられて笑ってしまう。アーロンの手に自分の手を重ね、馬車を降りた。
城に入るなり、侍女に風呂場に連れていかれ、あちこちをピッカピカになるまで磨かれた。今まで淑女として、美容にはそれなりに気をつかってきた方だ。それでもさすがは大国。お風呂に入った時点で肌はツルツル。アロママッサージで全身を揉まれ、いい香りもする。爪も徹底的に磨かれ、きれいに色を付けられた。シルバーブロンドの髪は特に念入りに梳いてもらい、丁寧に結い上げられた。用意されたドレスはアーロンの瞳とよく似た黄金で、レニアスとは違い薄い布で仕立てられている。その分涼しいけれど、肌の露出が多くも感じる。
気恥ずかしい思いで謁見の間へ入る。そこには正装に着替えたアーロンと、私の家族の姿もあった。両親は一瞬目を瞠り、弟が「姉上、とってもきれいだ!」と叫んだ。私は弟に微笑みかけ、次いでアーロンに目を向けた。
正装をまとったアーロンは、さらに輝きを増していた。私よりも少し控えめな黄金の長い丈の羽織り。金の糸で縁取られたそれは、胸元が少々開いていて、そこからしっかり鍛えられた胸板が見える。身体にぴったり合う肌着と、羽織と同色のゆったりしたズボン。今まで胸元につけていた、皇太子の証である紋章は、ベルト代わりの腰布につけられていた。
近寄りがたいぐらいの色香に、私は一瞬足を動かすことをためらった。だけどその間に、アーロンの方から傍に来てくれていた。
「素敵だ、アン」
アーロンははじめて会った時と同じように、ひざまずいて私の手にキスをした。たったそれだけで全身がカッと熱くなるのがわかった。お風呂に入れてもらったばかりなのに、もう汗をかいてしまいそう。
私が動揺しているのをわかっているのか、アーロンはますます妖艶に微笑んだ。
「国民に見せるのが惜しくなるな」
それから、私の聖女の仕事がはじまった。手はじめに皇帝陛下と皇后陛下の前で、城の上にだけ雲を呼び寄せた。民が驚かない程度の弱い雨だったけど、皇帝陛下は腰を抜かさんばかりの驚愕ぶりだった。それから「聖女の力は偉大だ」とおっしゃり、私とアーロンの旅を支援すると約束してくださった。
計画通り、一週間で都を回り、雨を呼んだ。最初は他国から来た見慣れぬ私を警戒する民が多かったけど、次第にうわさが広まったのか、最後の方になるとわざわざ雨を見に来る者までいた。私がその土地に合う程度の雨を降らせると、民はワッと歓声を上げた。
「聖女さま、万歳!」
「サンドルーア、万歳!」
最初は戸惑いが大きかったけど、次第に民に必要とされている充足感が増えてきた。サンドルーアの民は、素直で好意を全面的に出してくれる。私が呼ぶ雨を、心から喜んでくれる。こんなことは今までなかった。
都でのお披露目を終え、わたしとアーロンは数人の従者を連れて旅立った。つらい道のりもあったけど、そのたびにアーロンが励ましてくれて、乗り越えられた。地方でも私が降らせる雨は歓迎され、いつの間にかファンが追いかけてくるようになった。よっぽどのことがない限り、私は好きにさせておこうといったけど、アーロンはあまり気にいらないようだった。
地方は都以上に旱魃が進み、人々も干上がっているようなところもあった。それでも私が姿を見せると、顔を輝かせて「聖女さま」と呼び掛けてきてくれる。そんな民たちが、私は愛おしくて仕方がない。レニアスでは感じたことのない感情だった。
完全に干上がっていた池や川を復活させるのは、なかなか難しかった。だけど私は必死に祈り、雨を呼んだ。今まではただ雲を操るだけだったけど、それだけじゃダメなんだと思った。私を必要としてくれて、私を愛してくれる人々のために、私は誠意をもって雨を降らせなくちゃいけない。
そして旅をはじめて一年が過ぎた。
旱魃がひどかった地域をすべてめぐり終え、私とアーロンは一時城へ戻った。この頃になると、すでに私の中では、故郷はレニアスではなくサンドルーアになっていた。
都に入るなり、聖女と皇太子の帰還を待ちわびていた民からの盛大な歓迎を受けた。あちこちで爆発的な拍手が起き、花弁が舞い、歓声が上がった。
「偉大なる聖女、アンブレアさま万歳!」
「我らが皇子、アーロンさま万歳!」
はじめは照れくさかった聖女の肩書も、すっかり慣れてしまった。私とアーロンは顔を見合わせ、笑いながら城へ入る。
謁見の間では一年前と同様、両陛下と私の家族が待っていた。両親はレニアスにいた頃より若返り、生き生きとしているように見えた。弟はだいぶ身長が伸び、すっかり声変わりもしていた。「おかえりなさい、姉上」という声が少し低くなったのを聞いて、ちょっと残念にも感じた。
両陛下の前で、アーロンと二人並び首を垂れる。皇帝陛下は「楽にせよ」とおっしゃり、まず私に目を向けた。
「聖女アンブレア。此度は大変ご苦労であった。慣れない旅で苦労もしたであろう。余は口では申しきれぬほどに、あなたに感謝しておる」
「もったいなきお言葉でございます、陛下」
私が答えると、陛下は寛容に微笑んだ。
「それに我が息子よ。聖女の護衛をよく務めてくれた。余は鼻が高い」
「父上、ありがとうございます」
「そこで余は、そなたたちになにか褒美を与えたい。申してみよ」
陛下のその言葉に、私とアーロンはちらっと目線をかわしあった。馬車の中で、その質問は予期していた。そしてその答えも、すでに二人で決めていた。
アーロンが答えた。
「父上。私と聖女の願いはただ一つでございます」
「なんだ。遠慮せずに申せ」
陛下はなんとなく予想がついているのか、からかうように促してきた。隣の皇后さまも、微笑ましいものを見るように、暖かい眼差しだった。私は気恥ずかしくなり、うつむいた。
アーロンは背筋を伸ばし、堂々と告げた。
「私は聖女アンブレア・レイニーと婚姻を結びたく、陛下にお願い申し上げます」
「おお!」
陛下は目を丸くさせ、次いで愉快そうに声をあげて笑った。
「我が息子ながら、はっきりしておる! して聖女よ、そなたの気持ちはどうだ?」
わかっているはずなのに、聞いてくるなんて。こういうところは似た者親子なのかもしれない。
私はまたアーロンの方を見た。口元にどこかいたずらめいた笑みを浮かべている。私は陛下に向き直り、しっかり答えた。
「私も、アーロン殿下をお慕い申し上げております」
その瞬間、アーロンの顔が一気に緩んだのを感じ、私はやっぱり照れ臭くなった。
共に旅をするうちに、私とアーロンの距離は近づいた。私は出逢った当初から惹かれていたのだけれど、まさかアーロンからも同じ気持ちが聞けるとは思わず、一時力のコントロールを失うところだった。
それからまだめぐっていなかった土地を旅し、国がきちんと再生を果たした後。私とアーロンは式をあげた。民から信頼された皇太子と、民を愛し愛された聖女。国中が私たちを祝福してくれた。
皇太子妃になったあとも、私は暇をつくっては国をまわり、雨の恵みをもたらした。最愛の夫は私を理解し、私も夫を支えた。
やがて結婚から二年が経ち、私のもとへ一通の手紙が届いた。それは今ではすっかり忘れ去っていた、レニアスからの文だった。