彼女の心を得たのは森の外に去りしモノ
目を開けたとき、男の視界には記憶のない風景が飛び込んできた。
身体のあちこちにできている、覚えのない切り傷が、男の身をちくちくと痛めつける。
周りに風はない。撫でるより弱いような風すら感じられない。
男が乾いた笑い声をあげると、じわりと背に汗が伝った。
自らが置かれてしまった現実に、他にすることが思い浮かばなかったのだろう。
意識が落ちる前のことが、男の脳裏を廻る。
しかと刻まれてしまっているから、わざわざ思い出す必要なんてない。
泣いていた黒い帳が深い森にもたらしたのは、広がる静寂。
先刻までしとしとと降っていた雨が音を飲み込み、今もなお、吐き出してくれない。
森の西側にそびえ立つのは、頭一つ抜き出た一本の木。苔むして剥がれかけた木肌とは裏腹に、枝先まで生命力に溢れている。
今ほど木々が賑わいを見せていない頃から、この地にしっかりと根差している長老格だ。
そんな木のてっぺん近く、他の木に比べたら大層立派な、でもその木の中では細めの枝の上で、一つ揺れる黒影。
ちょこんと座るその姿は、遠目でも淡い色の和服をまとった少女だと知れる。
雨上がりの森には湿気がこもり、少女の肌にはじわじわと冷たさと不快感が襲い来る。
「もういい加減、アイツの影を追うのを諦めたらどうだ?」
低音で紡がれる一言がまた、少女の眉間に皺を刻みこむ。
少女が振り向くと、直前まで木の上になかった影が伸びている。大きな翼を背負った少し細身の体躯は、少女がよく目にする腐れ縁のものだった。
「アイツが消息知れずになってどれだけ経ったと思っているんだ、美森」
美森と呼ばれたのは、黒く波打つ美しい髪が印象的な美少女。
けれども、実態は異なる。そもそも、何十メートルも地面から離れた木の上で自在に過ごせる常人は、ほとんどない。ましてや和装だから尚更。
美森の正体は、つい先日元服の儀を済ませた烏天狗だ。彼女の後ろに立つ男もまた同様。
天狗はどこもかしこも黒いからと、美森は人型のほうを好む。彼女が天狗姿で枝の上に上った後、人の姿をとってそこで過ごすのも、森に住む仲間の天狗たちがよく見かける光景だった。
「姿を見せなくなって、太陽が二千七十二回沈んだわ。人郷の暦で換算しても、たったの五年と二百四十二日よ」
歌うような口調と笛の音のような声があいまって、美森の声は美しい旋律を奏でる。
「たったって言うけどな、美森にとってここ五年は重要な年だっただろう? 元服の儀だってあったんだ。それなのにどうして、アイツばかり追いかけて……」
青年天狗の言葉がそこで止まった。
普段は大きくてくりくりとしている美森の黒目が、すっと細められたのに気付いたから。
黒い瞳に映された星が、やわらかく光を放つ。
「彼と比べたら、私の中で優先度は低いわ。私の元服なんて」
砂糖菓子のような印象の外見に似合わぬ口調で、美森は短く吐き捨てた。
美森自身、自分が元服したという自覚に乏しかった。元々天狗は人よりゆるやかに成長する傾向にある。けれども、小柄で顔のパーツが下に寄りぎみの美森は、同年代の天狗の中でも一際あどけなくうつる。天狗の中でも彼女を知らぬ者には、今でも時折幼子と違われるからなおさら。
「じゃあ、あなたはどうして私にばかり構うのかしら? 九曜」
「美森が心配だからだよ。大した用事もないのにここに留まらず、あちこちふらふらしているから」
空中に投げ出されている彼女の脚のように、とは続けなかった。行儀がよろしくない所作なのに品格すら感じられるのは、九曜の贔屓目というわけではない。
美森の視線が追い求めていた男は、かつては九曜や美森と同じ森で暮らしていたが、ある日忽然と姿を消した。色々な意味で、名を呼ぶことすら忌まわしい存在が消えて九曜が喜んだのもつかの間、肝心の美森が森に留まらない。
あの男の姿を探し求めて昼な夜な遠出をしているのだと、すぐ知ることになる。
美森を求めている男天狗は九曜だけではない。それにもかかわらず、森を見ようとしない彼女に、九曜たちは徐々に苛立ちを募らせていった。
「あなたにとってくだらないことかもしれないけれど、私には何よりも大切なことが森の外にあるの。それに時間を費やして何が悪いの? 九曜を巻き込んでいるわけでもないのに」
美森に相対する青年天狗は、思わず唾を飲んだ。暗闇の中でも分かる蠱惑的な唇に、あるいは切なさをはらんだ潤んだ瞳に魅せられて。
風貌に似合わない妖艶さを時折こうして醸す幼馴染に、男は焦がれてやまない。
美森の着物の裾が、ふと九曜の目に留まる。昼間は日の光に隠れて見えなかった淡い輝きが、闇の中で浮き上がっている。
単なる麻の織物に見えたけれど違う。麻糸の間に、真っ白な羽が一本織り込まれているものだった。
白い羽を認めた途端、青年天狗は思わず激高した。
「その生地はどうしたんだ、美森!」
「どうもこうも、自分で誂えただけよ」
呆れた調子の答えに、それでも男はいくらか安堵した。
あの男からの頂き物だと返されたら、平静でいられる自信はなかった。
天狗の花嫁衣装は、相手の羽を織り込んだ生地で作るのが慣わしだ。
近年、婚礼の儀を挙げないケースが増えたが、そういう組も羽を織りこんだ布を衣類や小物に仕立てて身につける。
それこそ、美森の弟が特製の生地で作った筥迫を相手に贈ったと美森が話したのが、ブームのきっかけだ。
「それ、アイツの羽だろう? 恋仲でもあるまいし、使うものじゃない。それにみっともないよ。美森には似合わない」
「九曜には関係ないわ」
美森の声が、九曜を貫く。
「それに、弟のことだって気になるのだから、私が時折森から離れるのは当然のことだって思わないの?」
むしろ変だ。九曜はそう思うけれど、美森の剣幕に口をつむぐ。
九曜は美森の弟を直接は知らない。短命種である美森の弟が、森から離れた人郷で正体を隠して過ごしているとは聞いている。
短命種は、天狗の中では早くに老い朽ちていく。ヒトとさほど寿命が変わらないという。
成長の早さで幼い頃に区別されるため、家族に出たとしても他の家族が関わることは稀だ。家族の繋がりが希薄なわけではない。むしろ情に厚いほうだ。だからこそ、早々に失う寂しさを知らずに済むように、短命種の身内ははじめからいなかったものとして扱う。それが、天狗の世界での当然のことだと九曜は考えている。
けれども、美森は違った。彼女はたまに人郷に降りて、弟と顔を合わせている。
彼の里親だったものが早くに失せたという事情もある。彼女の弟が元服に至っていないならば、美森の干渉も九曜には理解できた。
けれども、彼はもう人の世界で独り立ちして、一生を共にする番を得たとも耳にしている。現に筥迫のエピソードを、美森が嬉しそうに他の天狗たちに話しているのだ。
それでも、これまでと変わらず、否、これまで以上に頻繁に、人郷に足を運んでいる。
理由は彼女の弟だけではない。姿を消してもなお痕跡を残し続ける男の存在が、九曜を磨耗させる。
風が存在しない夜には、森も鳴かない。いつからだっただろうか。この場から、自然な流れが失せてしまっている。
天狗が手に抱く扇を繰る。そうして起こしている風ばかりではないか。その事実に、急に九曜は気付いた。
懇意にしていた風神の身に、何かが起こったのだろうか。むしろ、どうして今まで思い至らなかったのだろうか。
「そういえばさ、不自然なくらいに風がないよな」
九曜はつとめて明るく、浮かんだばかりの話題を振った。
「それは、今言うことなの? それに今更そんなこと遅すぎるわ。皆で風神様を怒らせたというのに」
「どういうことだ?」
「鈍いのね。『彼』をこよなく愛していたからこそ、あの日までは風神様が絶えずここに心地良い風を送ってくれていたのよ」
九曜は失敗を悟った。話題選びも、振るタイミングも何もかも。
守るものがない身に、美森の鋭い言葉の刃が突きささる。
美森の頭の中が、数年前に迫害された彼のことで一杯なのだと、否応なく思い知らされる。
異質を弾く集団心理は、天狗にも備わっている。そして、数年前に揉まれたのが、先程から会話の端々に上っている『彼』だった。
美森自身は美しい黒髪の持ち主だか、彼女の兄弟たちには、他の天狗に見られない赤毛の者がいる。赤毛の天狗は同じ色を持つ彼らの父親の力が強大なうえ、兄弟のうち半数近くが同じ色だ。それに、嘴や翼は他の天狗たちと変わらぬ黒色。だから、烏天狗のコミュニティの中で変な扱いをされることもなかった。
けれども、『彼』は本当に唯一で、コミュニティの中でひたすら異質だった。
森の色を透かす髪や肌、血潮を濃く透かす瞳は石榴石を思わせ、瞳を縁取るまつげが彼の目の色を透かして、一層輝きを放つ。薄ら覗かせる嘴は昔に南の海の浅瀬を陣取っていた珊瑚を彷彿とさせた。
何もかもを通すアルビノ。黒曜石を思わせる烏らしい黒さは、彼の中には皆無だった。
群に発生した一羽の白鳥。彼の両親も黒い輝きを誇るからこそ、彼、至暖は浮き、そして疎まれていた。
例外的に至暖に馴染み、臆することなく、むしろあたたかく接していたものは数少ない。
中でも格別だったのは、族長一族に連なり、彼と年の頃が近い美森だ。
幼いながら美しい風貌と恵まれた地位をもつ美森。
彼女が慈しみ、頭を占める存在を面白く思わない若い男衆は、九曜たけではない。
寄ってたかって、白い男に色々なことを施しているうちに、彼は忽然と姿を消した。
九曜たちの中では、それで完結したつもりだった。
至暖と親しかったものは、既に森を去っている。
けれども、今では森に一羽だけ。九曜が彼自身を見てほしくて仕方のない相手だけ、ここで白い男を追い求め続けている。
強く光が閃いた。季節外れの火球は、辺りを僅かな間、白く染め上げた。
至暖を思わせる色に九曜が苛立ったとたん、美森の声色が空を割く。
「私は至暖に真名を預けたわ。そんな覚悟もない貴方にとやかく言われたくないの」
九曜は目を見開いた。
天狗が自ら以外に真名を預けるのは、自らの存在すへてを委ねることに他ならない。真名を伴った命令に反すると、命さえ危ぶまれるような激痛に見舞われるから、逆らえないという。
命さえも含めて思いのままにされてしまうのだから、九曜はこれまで、親兄弟を含めても明かしていない。
天狗の一度きりの婚姻。しかも、心から通じ合った場合にのみ、番に真名を教えるのが普通だった。
口付けによる永久の契りを結んだ後に、結界を結び、誰にも聞かれないようにして教え合う。
濃密なやり取りに、特に若い女天狗が憧れを抱いている。
故に、美森が至暖に託しているといっても、にわかに信じることなんてできなかった。
元々美森が彼に執着していることなんて明らかだし、体良く九曜を撥ねる口実かもしれないとも考える。
「私の血に誓って」
続いた言葉に、腕を伝う紅の一筋に、紡がれた言葉が真実だと知った。
自らの言葉の信憑性を証明するために、天狗は己の血を用いる。嘘を伴う出血は血の色を青く染め上げる。真だと赤い。
美森の肌に映える血が、彼女の眼光の鋭さが、九曜を追い詰める。
「それなら、俺だって真名を預けるよ」
空気をぎゅっと閉じ込めた空間で、男の嘴がかすかに動く。
ほどなくして、美森の唇が同じように動くと、九曜の頬は紅潮し、指先まで歓喜に震えた。
「じゃあ、森から去って金輪際私の前に姿を現さずに、適当に残りの一生を過ごして頂戴」
あっという間に、絶望のどん底に叩き落とされた。焦がれて仕方のない相手に吐き出されたのは、強い拒絶。
伝えたばかりの魂の名が、九曜に激痛を与えてくる。
「うっ……美森っ!」
握りこんだ九曜のてのひらに、じわりと汗がにじむ。
「九曜の意思で真名を預けたのでしょう? それを私が思うように使って何か問題があるのかしら」
「せめ、て、話を、聞いて」
「無理よ」
感情的に爆ぜたかと思えば、美森は真っ直ぐに九曜を射抜いている。絶対零度の視線にて。
不快な温さに包まれている森の中で、九曜の背を伝っていた汗がすっと引いた。
「これまでに、九曜と私が伴になる利点を重点的に語ってくれていたら、私だってあなたの言葉に耳をかたむけたし、至暖と天秤にかけようとしたかもしれない。気持ちに寄り添おうとしたかもしれない。でも、私の大切なものを貶めた時点でダメ。あなたをはかるための分銅を、他でもないあなた自身が粉砕してしまったの」
音としてはやわらかく、でもきっぱりと拒絶を示す美森。
二人の間を過ぎるような、和らげる風が吹く気配は、ない。そんな風を起こす者が、今、ここに存在しない。
場の空気は、ひたすら九曜に仇なしていた。
「私は、至暖に真名を預けたわ。そして、少なくとも拒絶はされていないわ。誓って」
色が変わらぬ血筋を流す美森が、九曜の見た最後の姿になった。
真名を伴う言葉に逆らい続けると、身体を著しく痛めつけることになる。
割かれるような激痛に耐えられず、意識を失ってしまったから。
次に目を開けたとき、九曜の視界には記憶のない風景が飛び込んできた。
真名を用いた言霊の作用で、馴染みの森から出されてしまったのだろうか。
身体のあちこちにできている、覚えのない切り傷が、九曜の身をちくちくと痛めつける。
森と同様に、九曜の周りに風はない。撫でるより弱いような風すら感じられない。
苦痛に歪んだ幼馴染の顔を見ても、美森の心は揺れなかった。
意識を失い木の上でバランスを崩した男に対して、美森は言葉を投げかけただけ。
「至暖が姿を消したのは、成人の儀を終えたその晩だってこと、覚えていないでしょうね。何となくそんな気がしたから、私は出て行こうとする彼に辛うじて縋れたのに」
九曜は大地の硬さを味わうこともなかった。彼を受け止める影が現われたから。
その姿を認めるやいなや、美森は木から降りて礼をとる。
「ご無沙汰しております。けれど、どうして九曜を……?」
「君の言霊が耳に届いてね。実行しようと思ったまでだよ。それに、その綺麗な衣に飛沫がついてしまってはいただけないからね」
美森に笑いかけたのは、特徴がなく、記憶に残り辛い顔の男だ。けれども、威圧感が桁違い。
彼がすっと目を細めたかと思えば、九曜を抱えたまま、あっという間にその場から掻き消えてしまった。
姿を追いようがなかった。男──風神──が本気になれば、風もなくどこへでも飛んでいけるのだから。
そもそも、追うつもりもなかった。
彼女の視界を白く染める男に、心を馳せているのだから。それは変わりようがない。
「仕方ないでしょ。九曜じゃダメだったのだから。さようなら」
決して届くことのない、別れの言葉。
前にこの言葉を放った相手とは、幾度か顔を合わせたけれど、腐れ縁の男とはこれっきりになるだろう。
地面に落ちるように、まっすぐ伸びた美しい黒髪、髪を台無しにしない、やはりすっと通った視線。
美森の中に浮かんだのは、前に別れの言葉を述べた相手である、弟の番。
生き急ぐ宿命を負わされた美森の弟が、早くに彼の番と寄り添ったことを美森は喜んだ。
美森も彼女に実際に会ったけれど、懐の深さにただただ感服した。
これからも弟に会いにきて下さいと、実にさらりと言ってくれた。
老いない美森が出入りすることで、彼女が担うだろう商売に不利益を被る可能性がある。それが頭から抜け落ちるほど、思慮の足りない者というわけでもない。
彼女の気遣いが、ただただ嬉しかった。
けれども、同時に弟を羨んだ。眩しく、ほんのり妬ましくもあった。
美森の所属するコミュニティーからも、人からもはぐれた存在の弟。そんな彼の全てを知り、受け容れてくれた彼女。
天狗の森から立ち去り、所在知れぬ至暖を待ちわびる美森。
どうしても比べてしまう。
美森は真っ白な男の真名を知らない。至暖を念じたところで、彼は美森に応えてくれない。
至暖が一言、美森の真名を呼んでくれさえしたら、彼がどこにいても美森は飛んでいけるのに。
そうでなくても、先ほど美森が九曜にしたように、至暖が拒みさえすれば、諦めて独りで過ごすつもりなのに。
「姿を見せなくてもいいの。一言だけでいいの。たとえそれが、私の全てを否定する言葉でも」
普段は風にかき消される小さな呟きだけれども、凪いだ森は響かせ増幅させる。
美森は、ひたすら彼からの返答が欲しいのだ。それだけだった。
宙ぶらりんの状態が落ち着かない。
九曜の目を見ながらきっぱりと拒絶したのは、この苦しみを味あわせたくないという、美森の幼馴染に対するなけなしの情。
今宵もまた、至暖は美森の前に姿を現さない。彼の姿を失ってから見る二千七十三回目の太陽は、おそらく眩しくて、顔をしかめながら見ることになるのだろう。
白染んでいく空の下で、美森は定まらぬ視界を天に向けている。
ここまでお読み下さりありがとうございます。