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第23章 狐の薬入れ

冬が終わり、春になったので、俺は自宅の畑を耕し、今年の種を撒くことにした。

先日、狼の屏風を購入したお宅から野菜の種をいただいたので、春に適した品種を試しに撒いてみたが……美味しくできるといいなぁ。


そういえば、狐の薬入れを数日前に玄三郎さんに納品したのだが、親戚の娘さんが気に入っていたという手紙が届いていた。

相当気に入ったらしく、その娘さんからお礼にと綺麗な紐をたくさんいただいた。これで何か作りたいなぁ。


畑の耕しには狸蔵も手伝ってくれたので、昼に魚を焼いて食べ、そのほぐし身をやろうと思う。

こいつはたまにドジを踏むから、骨が喉に刺さりかねないし…。


そうそう、蜥三郎の足は完全に治って、冬が過ぎて暖かくなったからか、元気に走り回っている。

今も縁側で孤月を追いかけ回しているので、俺は蜥三郎を抱き上げてやると、不服そうに舌をチロチロと出していた。


「コラ、孤月をいじめないんだぞ」

『(!?)』


蜥三郎は口を大きく開けてじたばたとしている。

孤月は俺の足に、まるで「よよよ……」という仕草でくっついていたが、狸蔵が一声鳴くと、ぶちぎれて狸蔵めがけて頭突きし、甲高い声を上げながら前足で叩きまくっている。


…俺は生前、会社の同僚たちの間で似た光景を見たことがある。

それは、俺と田中が同僚と話している時、「髪を切りたい」という話題に田中が余計な一言を言ってしまい、ビンタを食らってすごく怒られていた時だ。

彼女は高校の同級生でもあり、俺らとも親しかったのだが、田中は明るくて友人が多かったので、その彼女とも軽口を叩いたらしい。


その光景によく似ているので、おそらく狸蔵が何か言って孤月を怒らせたのだろう。

俺は蜥三郎を縁側に下ろし、今度は孤月を抱き上げて落ち着かせる。


「よしよし、落ち着け」

『きゅーん…!』


俺の腕の中だと気づくと、孤月は甘えた声を出しながら体を寄せ、肩に顎を乗せてきた。

ふさふさの尻尾を振っているから、機嫌は直ったようだ。

狸蔵を見れば、「助かった…」と言わんばかりに体を横にしている。…女をあまり怒らせないようにするんだぞ、狸蔵。


腕の中の孤月の背を撫でながら、次は何を作ろうかと考える。

つい先日、玄武の木像に続いて朱雀が完成したので、作りかけのものは今はない。青龍も後々作る予定だが、今は別の物を作りたい。

そういえば、最近刀を打っていない…村の婆ちゃん達に頼まれて包丁などは作っていたけれど。


次は刀を作るか、と考えるも、「じゃあ、どんな刀を作ろうか」と次の思案に移る。空を見上げれば白い雲。

白い色…そういえば、村長の家の庭に白百合が咲いていたよなぁ。あれは綺麗だった。


白百合と言えば、女性の花というイメージがある。

女性が使う武器を作ってみるか…となると、思い浮かぶのは薙刀だ。

巴御前とか、ゲームのイメージだけど使っていたし…よし、薙刀を作ろう。


『きゅーん』

「んー? 次は何を作ろうか考えてたんだぞ」


孤月が俺の胸に前足をのせ、目を合わせてくる。首をかしげ、ちょいちょいと前足で俺の頬を触る仕草は、多分「私がいるのに、何を考えてるの?」という意味だろう。

こいつはやけにあざとい仕草をするが、前に人に飼われていたのだろうか……?


俺の答えに納得したのか、また肩に顎を乗せる。俺の言葉が分かるようだし、人間の言葉を理解しているってことは、やっぱり飼われていたっぽいな。


俺は孤月を抱いたまま撫でながら縁側に座る。足元には狸蔵、背中には蜥三郎。

孤月の頭が乗る肩とは反対側には鳥次郎がやってきて、亀太郎は隣で甲羅を干している。


「百合を題材に薙刀を作りたいんだよな…そうだ、簪も作ろう。簪はシンプルに一輪挿しでいいとして…薙刀をどうしようかなぁ」


誰がいるでもなく、動物だけなのに、俺は相談するように独り言を言う。時々、相槌のように鳴き声が返ってくる。

…賢いから、俺の話に合わせて鳴いているんだろうか。


そうだ、梵字彫りみたいに白百合の模様を彫れないかな。

でも、さすがに刀身への彫刻は経験が少ない。簡単な梵字や模様は彫ったことがあるけれど、花の形のような複雑な模様はやったことがない。


現代にいた頃、俺が老後の趣味として刀作りをやりたいと、週一で修行に通っていた刀鍛冶の師匠は、刀の彫刻を好まなかった。

そういう技法は、俺のためになるからと、別の刀鍛冶の爺さんが教えてくれただけだ。

……今思うと、老後のセカンドライフのために週一限定の弟子をよく取ってくれたよなぁ、師匠。しかも、俺の方が先に死んでしまったのだから、余計に申し訳ない。


「ふぅ、一回、先生に相談しに行こうかなぁ…」

『こやん?』

「んー? 先生ってのは、俺の刀鍛冶の先生のことなんだぞー」


孤月が「そうなのね」とでも言いたげに、顔を首に寄せてくる。

亀太郎たちもじっと見てくるので話してやった。……この子たちに話しているんだから、誰かが聞いているわけでもないけどな。


「先生はおよだの爺ちゃんの友達で、俺の家の鍛冶場を作る時に助言をもらいに行ったんだ…二、三年前から“大きな仕事”が入ったって聞いて、それ以来は邪魔しないように行ってない。

でも、刀身の彫刻は俺も自信ないし、一回相談したいなぁ」


どうしようかなぁと悩む俺。

すると孤月が膝から飛び降り、鳥次郎が飛びながら俺の髪を引っ張る。

亀太郎たちも、それに合わせるように俺を縁側から押し出す仕草をする。立ち上がると、鳥次郎が村へ続く道の方へ髪を引っ張り始めた。


「もしかして、およだの爺ちゃんに聞けって?」

『ぴー!』

「本当に賢いね、お前たち…」


狸蔵や孤月も、俺の足を押してくる。まるで「悩むくらいなら行け」と言っているようだ。

俺は鳥次郎を手に乗せて村の方へ歩き出す。背後から、狸蔵と孤月の声がする。

まるで『いってらっしゃい』と言っているようだ…その声を背に受けながら、村へ降り、およだの爺ちゃんを探す。


畑にいた爺さん達に所在を尋ねていたら、俺が探していると聞きつけたのか、およだの爺ちゃんが走ってやってきた。


「宗助ちゃん、どうしたんじゃ? 儂を探しておると聞いたが…」

「あ、およだの爺ちゃん、いた」


俺は先生に会いたい旨と、近況を何か聞いていないか、今は気軽に会える状況なのかを話した。

これまでは、大きな仕事が終わると手紙や、およだの爺ちゃん経由で知らせが来ていたが、最近は何もない。

恐らく、まだ“大きな仕事”が続いているのだろうと俺は見ている。


「ふむ…儂もいっちゃんからは“仕事が終わった”とは聞いておらんのう。じゃが、近々顔を見に行く用事があるから、一緒に行くか?」

「いいのか?」

「いっちゃんも宗助ちゃんのことは可愛がっておるし、喜ぶじゃろう…そうだ、宗助ちゃんが作った酒を持っていきたいんじゃが、あるかのう?前に貰った酒を持っていったら気に入っておったんじゃよ」

「げっ、先生にあの酒を渡してたのかよ!?」


前におよだの爺ちゃんに渡した酒といえば…義晴様がこの村に来た頃のやつかぁ。まだ改良前だ。

先生は職人だから、味にも厳しいんだよなぁ…。俺がうげぇと顔をしかめると、およだの爺ちゃんに笑われた。ちなむと”いっちゃん”とはおよだの爺ちゃんが先生を呼ぶ愛称だ。


「そんな顔をせんでもええじゃろう!いっちゃんは“美味い酒”って言っておったぞ」

「それならいいけどさ…でも先生が飲んだのは改良前だから、今はちょっと味が違うぞ」

「相撲大会の時の酒じゃろう? あれは美味かったから大丈夫じゃよ」

「…あれよりも透明度を上げたりして、まだ改良中なんだ」


まぁ、もうすぐ熟成も終わるし、ちょうどいい。あれを土産にしよう。

…義晴様用に分けて置かないとなぁ。あの人、俺の酒を気に入ってて、少し隠しておいてもすぐ見つけるし。


「拘りが強いのう」

「職人は拘ってなんぼだよ」


およだの爺ちゃんは「なるほど」と頷き、行く前に声をかけるからと、その場で別れた。


帰ろうかと思ったところで、ふと足を止める。

「そうだ、太郎たちに出かけることを言っておかないと」


そう、亀太郎たちの世話を誰かに頼まねばならない。

あの子たちは賢いので、自分で飯を取ってくることもあるが、世話をしているのは俺だ。

以前の蜥三郎の件もあるし、また同じことが起きる可能性もある。


「あー、それなら儂が言っておくよ…二人は今、手が離せんからのう」

「え? もしかして二人は今いないのか?」

「…あぁ、そうじゃよ」

「わかった、じゃあ後は任せるよ」

「ほほっ、これくらい任せなさい」


俺はおよだの爺ちゃんの言葉に甘え、二人への伝言を頼むと山へ戻った。

作る物は決まったし、まずは準備だけでもしておこう。





同じ刻、太郎とおゆきは村長の家で義晴と会っていた。

義晴は黄十郎も連れて来ており、二人が三九郎経由で頼み事をしたいという理由を聞きに来たのである。


「すみません、義晴様…こんな所にお呼びして」

「いいぞ。お前たちが頼みごとをしたいなんて初めてだからな」

「それに、恐らく宗助殿のことだと三九郎殿から聞いておりますからな。余計に気になるものです」


黄十郎がそう言うと、太郎とおゆきは一度顔を見合わせてから口を開いた。


「宗助の作品が、どこぞのお偉いさんの目についたようで…俺達は今、宗助に会わせてほしいと交渉を持ち掛けられているんです」

「交渉? お前達にか?」

「はい。私達が宗助ちゃんを守っていることを、どうやら知っているみたいで…無理やり山に入って宗助ちゃんに会うこともできたでしょうに、わざわざ私達に交渉してきたのです。話をしに来たことからも、野蛮なお方達ではないとは思いますが…」


太郎とおゆきは、交渉してきた者の身なりが非常に良く、宗助に対して好意的な印象を持っているらしいことを伝えた。また、時折二人の仕事である無粋な客人への対応を代わりにしてくれたことも報告した。


近くの野原に野営を構えているらしいが、その場には多くの護衛がおり、堅牢で近寄りがたい雰囲気があるという。

村長も嫌な気配は感じないことや、宗助に対して害を及ぼす様子はないと見ているようで、静観しているらしいという報告に、黄十郎は顎に手を添えて考える。


「虎八須殿は、人の善悪を見抜く才に長けておられます。その虎八須殿が静観しているということは、宗助殿に悪事を働く者ではなさそうですな」

「黄十郎もそう思うのか」

「ええ、実際に見ていますからね。以前、虎八須殿が花衣屋で悪徳な仕入れ業者を見抜き、邦吾殿と俺に警戒を促していました。そこで忍びを使って調査させたところ、悪事の証拠がわんさか出てきて、大騒ぎになったのです」


黄十郎の語った事件に、義晴は聞き覚えがあることを思い出した。

そういえば、小春姫が「お咲のいる店に…!」と怒っていたあの件だ。本人が自分にやらせろと言っていたこともあり、小春姫に任せたのだった。


「あぁ、三九郎がこき使われてたやつか」

「小春姫様に怒られますぞ…」

「…あー、それで、この村長の見る目は確かだから、その交渉してきたってやつを追い出しにくいってことだな?」

「そんなこと、言ってませんが?」


青みがかった瞳のおゆきが「ふざけています…?」と雪混じりの風を吹かせ始め、太郎が「落ち着け」と横から宥める。

黄十郎も「お戯れはやめなされ」と小声で注意し、義晴は手を挙げて「冗談だ」と返した。


「だが、何をして欲しいんだ? 聞く限り悪い奴じゃないんだろう?」

「…その、間に入って話して欲しいのです。恐らく俺たちが考えているよりも位の高い方であると思うのも一つですが」

「護衛をつけてわざわざここまで来て…それに、私達の許可が出るまで宗助ちゃんに会わないようにしているのも気になって」

「確かに、宗助はずっと山に引きこもっている訳ではないだろうに…山を降りた宗助に突撃する様子もないんだな?」


太郎とおゆきは、こくりと頷いた。

義晴は、どうやら相当判断を迷わせる相手が来たらしいと考え、「一度顔を見に行くか」と腰を上げた…が、その前に太郎に止められる。


「いや、俺もそうしようと思っていたのですが…今、その人はいないんです」

「あ? いない?」

「はい。義晴様達が来るほんの少し前に訪ねて来られて…一時この場を離れますが、二、三日後には戻ると言って…」

「なんと間が悪い…」

「でも、寝泊まりしている野営はそのままで、人もいます…義晴様達に確認してほしいのは、それなんです」


おゆきの言葉に「人を確認してほしいのか?」と義晴は考え、やはり一度自分の目で見ておくべきだと足を運ぶことにした。


義晴達がその野営地に向かうとがその野営地に向かうと、案内された光景に義晴と黄十郎は驚く。


「随分と作りが立派だな」

「ええ、まるで要人を守る屋敷のようです」


おゆきはともかく、太郎も戦に出たことはないので、本陣や野営地がどういうものかはよく知らなかった。

しかし、簡易的なものではない作りから、やはりそうなのかと予想していたため、黄十郎に尋ねた。


「やはり野営地にしては立派ですか」

「あぁ、戦場のものとはもちろん違うが…寝泊まりするだけにしては随分と護衛が多い」


竹でできた簡易的ながら大きな門があり、同じく竹の高い柵が隙間なく本陣を囲っている。

本陣も大きなもので、戦場ではあまり使わないものばかりに見えたのが、黄十郎は気になった。


「おゆき殿の言う通り、どこぞのお偉い様が来られたようですな、この守備の様子から」

「だな」


近づく野営地を見ながら話していたところ、三九郎が義晴の前に降り立つ。しかし、少々不服そうな顔をしていた。


「どうした、そんな顔をして」

「…おゆきたちの話を聞き、調査しようと忍び込んだら、すぐに見つかって追い出されました」

「はぁ!? お前が見つかった!? しかも追い出された!?」


三九郎の言葉に義晴だけでなく黄十郎も信じられない様子で目を見開く。

おゆきもぎょっとしていたが、太郎だけはどこか腑に落ちた表情をしていた。

その表情にすぐ気づいた義晴は、太郎に何か知っているのかと問うと、少々気まずそうに槍を握り直した。


「…俺、気配を察知するのは自信があります」

「あぁ、それでここに来る山賊などを察知しては追い返していたのだったな…三九郎の気配にもいつも気付いているようだし」


太郎は頷いた。

しかし、野営地をじっと見つめていた太郎は、その中から感じる視線を浴びつつ口を開いた。


「俺が気配に気づけなかったんです。いきなり後ろに現れたから手が出そうになったのですが……いとも簡単に組み伏せられました」

「…は?」

「若、恐らく俺をあそこから追い出した者と太郎が言う男は同一人物です…太郎、お前が言う男は紫色の忍びだな?」

「はい、紫色の忍びでした…」


三九郎と太郎をいとも簡単に組み伏せた?と義晴は、この国でも腕のある二人が勝てなかったという男に信じられず、野営地を見れば入り口に先ほどまでいなかった人物が立っていた。

それは全身を紫の布で覆い、顔も紫の面布で隠す長身の男。その男が義晴に向かって手を振っている。

まるで話をじっと聞いていたかのように姿を現した男を見た瞬間、義晴は一歩後ずさった。


「あれが、そうか…?」

「あいつ…!」

「こちらを見ています。敵意は感じませんが…あの男、強いですな」

「お前でさえ、そう思うか…」

「流星がいるのなら、あの男の前に立てる自信はありますな…ですが、無事で済むかどうか」


義晴、三九郎、黄十郎の三人は警戒の目を緩めず、太郎とおゆきを連れて下がろうとするが、おゆきが「待った」と手を上げて三人を止めた。


「お三方、ご安心を…とは言いにくいですが、あの方は少なくとも今はこちらの味方のようです」

「…というと?」

「件の交渉してきたお人の部下のようで、こちらに一度も手を出したことはないばかりか、ここ数日ほど宗助ちゃんのいる山を中心に警備してくれています。何度か輩を捕まえてくれたのはあの方です」

「…では、あいつは宗助を守っているのか?」

「命令に従っているのでしょうけど…宗助ちゃんへは敵意はないようです」


おゆきは「なので利用しています」と目で義晴に伝えた。

面布の男はくすくすと楽しそうに義晴達を傍観している。自分が話題になっていることを理解し、警戒している三人を面白がっているようだった。


「あの者のこともあって判断を仰ぎたかったのです…残りの判断材料はあの者の主君ですが」

「なるほど…だが、俺にはあいつと話す理由がある。誰の許可を得てここにいるのか詰めていいだろう」

「若、言い方が輩です」

「それくらい強気に出てもいいんだよ、立場上な」


三九郎はそれは確かにと言いつつも、あの面布の男が自分を追い出すだけにしたのは義晴の部下であるため、穏便に—つまり手加減をされたのだろうと考えていた。

義晴を守れるようにと三九郎と黄十郎が身構え、後ろではいざとなったら動けるようにしている太郎と、いつでも凍らせる準備をしつつ普段通りの様子で立つおゆき。


彼らを後ろに従えながら義晴が野営地の前に立つ面布の男の元へ歩く。

対して面布の男の様子は変わらず、堂々と義晴の前に立っていた。


「これは清条の若様、このような場所でいかがされましたか?」

「それはこちらが聞きたいことだ。我が国で何をしている」

「この国に危害を加えることは致しませんのでご安心を。ですが、この村にいる天野宗助職人に我々は用があるのです」

「それは俺のお気に入りだが?」

「おやおや、それはそれは…ですが、こちらも事情があります…――――という訳なので」

「っ、!?」


面布の男はそっと義晴に耳打ちすると、義晴は驚愕の顔をし、冷や汗をかいた。

三九郎はその様子にすぐ義晴を後ろへ隠し、黄十郎が面布の男の前に立って間に入る。


面布の男は二人の臨戦態勢にも動じず、義晴に「そういう訳ですので、後日またお越しください」と言った。

太郎は三九郎と黄十郎が動いた瞬間、おゆきを自身の後ろへやって様子を見ていたが、面布の男はそんな太郎に拍手していた。


「いい動きです、まるで武人のようだ…これは面白い」

「太郎殿に手を出すな」

「…あなたはちとやりにくそうだ、特にその大きな刀は」


面布の男は黄十郎にも態度を変えなかったが、『流星』はやりにくいと言ったことに黄十郎は眉をぴくりと上げた。

恐らくこの男は、流星が宗助の作ったものと知っているのだと察し、強く柄を握った。


「………やめろ、帰るぞ」

「若!?」

「こいつと揉め事は厄介なことになる……今は離れるぞ」


顔色の悪い義晴に三九郎は渋々頷き、黄十郎も刀から手を放さずに後ろへ下がる。

義晴がその場を離れ始めると、太郎達も慌ててついていくが、面布の男は太郎とおゆきに「またお伺いしますねぇ」と笑って声をかけ、手を振っていた。


「若、どうしたんですか」

「義晴様、いかがされましたか」

「…ここでは話せん」

「…そんな、お相手だと?」


義晴は一旦話を城に持ち帰ると三九郎と黄十郎に告げ、次に太郎とおゆきに話しかけた。


「…俺が許可を出すまでは一旦、交渉は止めておけ」

「義晴様では判断が難しい、ということですのね」

「…お前、本当に頭が回るよな」

「ありがとうございます。…もしまたお話された場合は、義晴様のお名前を出してもよろしいでしょうか」

「あぁ、大丈夫だ」


義晴はそう話すと、宗助のいる山を見た。

冬が終わり、雪が消え、春が来て緑が茂り始めている山にいるだろう宗助を思う。


「宗助、お前は…一体何を作ったんだ?」




義晴達がその場から去ると、面布の男は後ろ手で野営地の門を指でトントン叩く。

するとすぐに門の向こうからトントンと同じように返答があった。


「本当に言って良かったんです?」

「あぁ、あの者は天野宗助殿の守り人であるからな」

「…守り人は別にいると思いますがねぇ」


面布の男は義晴達が完全に立ち去ったのを確認すると軽く伸びをし、気だるげな声をあげた。


「あんな化け物が傍にいるのに守る必要ないでしょうに」

「お前が何を見たのかは知らないが…、天野宗助殿のことは守りなさいね」

「わかってますよぉ…しかし、あんたがこんなところにいていいんですかねぇ」

「私の目で直に見たいんだ」


そっと開かれた門の隙間から覗く琥珀色の目が宗助のいる山を写す。


「あの者が、本当に神の国のモノなのかを」


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時は遡り、数日前の清条国の城下町、常和。

河原玄三郎は城にある自身の執務室にて、三九郎の部下の忍びが運んできた小さな木箱を前に、笑みを浮かべていた。

この木箱には、天野宗助に依頼していた物が入っている。


二千子(にちこ)ちゃんが要望した薬入れ…俺が依頼をしたのだから、最初に見てもいいよな」


誰かに言い訳するようにそう呟き、玄三郎はそっと木箱を開け、包装された布をめくる。

布の中から現れた薬入れに、玄三郎は感嘆の息を静かに漏らした。


「なんと見事な狐…やはり宗助殿に頼んで正解だったな」


印籠型の小さな薬入れには狐が彫られており、くるりと円を描くような姿は、ふさりとした尻尾と、どこか艶を感じさせる。

赤茶色の紐も狐を思わせる色合いで、玄三郎は「きっと気に入るに違いない」と笑みを浮かべた。


「今日、早速持っていってやるか!」


そう言いながら丁寧に布で包み直し、木箱に戻す。

玄三郎は「早く仕事を終わらせないとな!」と筆を手に取り、次の戦で自分の隊が使う予算をまとめ始めた。


仕事を終えると、玄三郎はすぐに親戚の家へ向かった。

河原家の分家であるその家の戸を叩き、中に入れてもらうと、欲しがっていた狐の薬入れを持ってきたと告げた。


「玄三郎さん!本当にあの子のために探してくれたんですか!?」

「ははっ、というよりは作ってもらったんだ!探すより早いし、信頼できる職人にお願いしたら、快く引き受けてくれたんだ」

「まぁ、わざわざ作ってもらって…あの子の無茶を叶えていただき、ありがとうございます」


二千子の母に薬入れの入った木箱を渡すと、彼女は深々と頭を下げた。

そんな姿に、玄三郎は「やはり苦労しているな」と苦笑する。


二千子の母は、娘に手を焼いていた。

といっても、二千子はわがままではなく、決して人に嫌われるようなことはしない優しい子だ。


では、何を苦労しているのか。それは、彼女が……。


「お母さまー!私を呼んだってー?」

「そうよ、二ち…二千子!?なんでそんな泥まみれなの!?」

「おいおい!顔も髪も泥まみれじゃないか!?何があったんだ!?」

「あ!玄三郎おじさま、こんにちはー!」


どどどっと庭を駆けてきた二千子は泥まみれで、よく見ると足に擦り傷まであった。

泥だらけの体で屋敷を汚さないように庭を回ってきたのは偉いと玄三郎は思ったが、後から女中が手ぬぐいを持って駆けてきて「今日も汚れて!まずは汚れを落としましょうね!」と叱る様子から、これが日常茶飯事だと知れる。


「二千子ちゃん、今日は何をしてきたんだい?」

「木の上に猫がいたから助けて、川でおぼれてる子供を助けて、最後は子供たちと遊んでた!」

「……元気でよろしい」


二千子はとても純粋な子であった。

正義感が強く、素直で、いい子だ。

しかし、純粋すぎるがゆえに、少々騙されやすい。


お金に関しては母の教育が行き届いているので騙し取られることはない。

だが、男運が悪い。

寄ってくる男のほとんどは、彼女を弄んで捨てる。

家柄目当てで近づき、金をむしろうとする者も多いが、金銭感覚や管理がしっかりしているため失敗し、「お前なんて家柄しか取り柄がない」などと心ない言葉を吐いて去っていくのだ。


さらに、家柄ゆえに城勤めの者との交友もあるため、彼女を利用して稼ごうとする者や、コネを得ようとする女も近寄ってくる。

それでも二千子は誰とでも仲良くなろうとしてしまい、許してしまう。

そんな彼女を心配する者もいれば、友人として支え続ける者も少なくない。

玄三郎もまた、危なっかしいとは思いつつ、良い子だと感じていた。


今日は猫や子供を助け、そのまま懐かれて遊んでいたのだろうと察すると、怒る気も失せた。

優しいだけでなく、教養もあり、純粋すぎるところ以外はほぼ完璧な娘…息子の年が近ければ嫁に欲しかった、と玄三郎は思う。


「今日は玄三郎おじさまはどうしたの?」

「二千子ちゃんが欲しがってた物を持ってきたんだよ」


縁側に座り、小姓たちが湯を沸かすのを待つ間、女中たちに顔や髪の泥を拭き取られている二千子に、玄三郎は母の手にある木箱を指した。


「玄三郎さんが、あなたの欲しいと言っていた狐の薬入れを、わざわざ職人に頼んで作ってもらったのよ」

「え!本当!?ありがとうございます、玄三郎おじさま!大切にします!」

「おやおや、まだ見てないのにそんなことを言っていいのかい?」

「玄三郎おじさまがくれるものだもの、どんな物でも嬉しいわ!」


礼を言い、大切にすると断言する二千子に、玄三郎は幼い頃から知る彼女の成長をしみじみと感じた。

それでも実物を見て喜ぶ顔が見たくて、木箱を開けるよう促す。


泥まみれの二千子に代わり、母が箱を開ける。

布に包まれた薬入れが姿を現すと、二千子だけでなく母や女中たちからも感嘆の声が上がった。


「なんて立派な狐なのでしょう」

「えぇ、毛並みの良さがわかるわ…」

「お綺麗なのもあるけど、なぜでしょう…少し艶があるというか、色っぽいというか…なんとも不思議な大人の雰囲気を感じます」

「…そんなわけないと思うけど、なんかわかるわ」


女性たちの感想に、玄三郎は「男と女の感性はやはり違うものだな」と思う。


「玄三郎おじさま、とてもいい物ですね!私は職人の技はわかりませんが、素人の目でも良い物だとわかります」

「ふふふ…俺が信頼を置く職人だからな!俺の家の河童を作った人だ」

「まぁ!あの河童様を!以前助けていただいた恩人様をお作りになった方なのね!」

「じゃあ、これも縁起の良い物だわ……玄三郎さん、娘のためにありがとうございます」


親子で頭を下げられ、玄三郎は慌てて頭を上げさせる。

そういえば以前、二千子の母は河童に暴漢から助けられたと言っていた。

恩人ならぬ恩河童の木像とこの薬入れが同じ職人作とあれば、こうも感謝されるのは当然だと納得する。


「あー…恐らくこの薬入れも良いものを招いてくれる。だから持ち歩くんだ。きっと二千子ちゃんを助けてくれるから」

「はい、私もそう思います!」


にこにこと笑う二千子に、玄三郎は「気に入ってくれて何よりだ」と笑みを返した。

そんな人間たちをよそに、薬入れの狐は鼻に皺を寄せていた。


《こ、これが俺のご主人だって?あー、もう…これは手が掛かりそうだなぁ》


誰にも聞こえない声で、そうぼやいていたのであった。




狐の薬入れが二千子の元へ来た翌日。

二千子は早速、薬入れを帯につけて出かける。中には、傷を負ってもすぐに手当てができるように塗り薬や腹痛の薬が入っている。


るんるんと機嫌よく外へ飛び出した二千子。今日は友人と一緒に美味しいと噂のお茶屋に行くのだ。

二千子が待ち合わせ場所に向かうと、友人のお(ふせ)がすでにおり、走る二千子に「慌てなくていい」と声をかけるが、二千子は足を絡ませてしまい転ぶ。


「だから慌てなくていいって言ったのよ…本当にあんたって子は」


お伏は仕方ない子ねぇと優しく微笑むと、二千子を立ち上がらせ、すぐに持っていた手ぬぐいで彼女の土汚れを払う。


「へへへ…いつもありがとう、お伏ちゃん」

「あんたを見てると放っておけないわよ」


お伏は最初、二千子の家柄による縁談を狙い、家族からの命令もあって邪な感情で近づいたが…二千子の純粋な性格やドジなところに加え、世話焼きな性格なために放っておけなくなって世話を焼きまくってしまったのだった。


「はい、これでいいでしょう…帰ったらちゃんと転んだこと言うのよ?土汚れって意外と取れにくいんだから」

「はーい!」

「本当に、返事はいい子ねぇ…じゃあ、早く行きましょ」


お伏は二千子と手をつないで歩く。

これは彼女が転ばないようにするためだが、二千子は仲良しだから手をつなぐのだと、るんるんと繋いだ手を振っている。


月ノ茶屋というお茶屋に着いた二人は待ち列に並び、ようやく席に着くと注文した。

二千子は三種の団子盛りを、お伏はぜんざいを頼み、注文の品が届くまで待つ間、二千子は懐から薬入れを取り出して眺める。


「あら、初めて見る物ね…狐の、印籠?」

「うん、薬入れなの!玄三郎おじさまがね、職人さんにお願いして作ってくれたの!」

「狐の模様はあんまりないものね…そういえば、二千子はなんで狐が好きなの?お稲荷様にいつもお祈りしてるけど」


お伏は二千子が狐好きなのを知っており、狐の薬入れを欲しがったことやお稲荷の神社へよく参拝していることから気になっていた。

二千子は狐の掘りを指でなぞり、思い出すように語る。


「昔からね、私は狐が好きだったんだけど、…神隠しにあってから好きになったんだって」

「…いきなり、すごいこと言うわね」

「うん、私も聞いた時びっくりした…でも、お母さん達が同じことを言ってたし、お城の忍者さんにも協力をお願いして探してもらったから、私の神隠しの事件は大騒ぎになったんだって」

「…そうなの、で、それがどうしたの?」


お伏はそこに狐が関係あるのかと聞くと、二千子は頷いた。

話し合う二人には見えないが、机の下には二羽の兎がおり、話の続きを盗み聞きしている。


「どこも探しても見つからなくて、数日経った時にお母さまが、いつも私が参拝してる稲荷神社にお祈りに行ったんだって…私が無事でいますように、帰ってきますようにって」

「神頼みもしたくなるわよね…数日も、忍者を使っても見つからない、なんてなったら」

「うん、そうだね…で、お祈りした夜にね、私がその稲荷神社の前で眠ってるのを発見されたんだって」


お伏は目を見開いて驚く。

随分と仕事が早いお稲荷様だ、と。


「即日に見つけてくるなんて…仕事が早いお稲荷様なのね」

「そうね!で、見つかったからめでたしめでたし…なんだけど、そこから私が狐を好きになったみたいで、お母さまは多分、お稲荷様が怖い所から助けてくれたのかもねって、だから助けてくれたお稲荷様である狐が好きになったのかもって言ってたわ」

「恩人ならぬ恩狐か…それは好きになるわね」

「うん!だから私は狐が好きみたい!お母さま達は河童も好きよ!河原家の守り神ですもの!」

「噂で聞いたわ、河原家の河童様…そういえば、最近河原家の次男坊が相撲がすごく強くなってて、今度の相撲大会で優勝候補になってるそうよ」


二千子は「え!?海三郎ちゃんが!?」と驚く。

海三郎は河原家の当主である玄三郎の次男坊であり、気弱だが優しい子だと二千子は記憶の中の細い姿を思い出すが、お伏もそれは知っているので「びっくりよねぇ」と返した。


「私も聞いた時は嘘だと思ったんだけど、河原家の河童様が稽古してるみたいでどんどん体が鍛えられていったらしいの…以前見かけたんだけど、河原家の奥様の買い物に同行してたみたいで米俵を軽々と抱えていたわ」

「米俵を!?まだ子どもなのに!?」

「そうなの、私も目を疑ったわよ…でも、私だけじゃなくてお店の人も、他にいたお客さんも見てたから本当なんだって頭が理解したわ…」


本当に驚いた、と語るお伏に二千子は「子供って成長が早いのね…」と思わず、そんな言葉が出てしまうのだった。


「よっぽどお師匠様が優秀なのね…」

「河童様が師になったらね…あ、そういえば!この薬入れも河童様と同じ職人の方が作ったそうよ!」

「…ってことは、天野宗助職人の作品ってこと?」

「あまのそうすけ?」


お伏は首を傾げる二千子に、今流行の簪の職人だと教えた。


「福を招く簪職人…と言われてる職人の人よ。花衣屋のお澪さん、蟒蛇屋のお鶴さんの簪を作ったのもその職人さんなの」

「え、あの綺麗な簪の!?とても華やかで美しい簪の!?」

「えぇ、そうよ…その職人の簪で相性がいいものと出会えれば、その持ち主は良き縁に結ばれる…と言われてるわ。他にも掛け軸や刀も作ってるそうよ」

「そんな人の作品だったのね…」


二千子がまじまじと薬入れを見ると、薬入れの狐が『ふふんっ』と鼻で笑ったように見えて、思わず二度見する。


「どうしたの?」

「いま、狐が動いたような…?」

「…気のせいじゃない?さっきと変わらないわ」

「そうよね、河童様と同じ職人さんでもそう、不思議なことは起きないだろうし」


気のせいかと二千子は薬入れを元の位置に戻し、お伏とお茶を再開する。

話題は最近の町の恋バナ事情だ。


「そういえば二千子は聞いた?九条様のお話!」

「どの噂?婚姻のお話?それともあの五反田黄十郎様の補佐に任命された話かしら?」

「そこも気になるけど、婚姻のお話!あのお麗しいお人がついに婚姻しちゃうなんてぇ…いつかとは思ってたけど…」

「優秀な人は早くに結婚するわよ。優秀だからこそ五反田様の補佐に選ばれたのだもの」

「そうよねぇ…でも、九条庄左衛門様と婚約できる人がうらやましい…!」


また一人、顔のいい男が婚約した!と嘆くお伏に二千子は苦笑する。

九条庄左衛門はこの国で噂の武将である五反田黄十郎の初めての直属の部下であり、補佐役として月ヶ原の若君である月ヶ原義晴に任命された人物である。

背丈があり、武勇もあるが、冷静で的確な状況判断能力が優れているところを評価されている。


武官としても優秀な男だが、最も有名なのは顔の良さである。

男らしくも整った顔…現代で言えばハンサム顔であり、ファンクラブがあるほどに顔が良いのだ。

そんな九条庄左衛門はその容姿から多くの女性に好意を寄せられていたが…ついに婚約が決まったのだった。


そんな九条庄左衛門の婚約話に、お伏もだがこの町の多くの女性たちが嘆き悲しんでいる。

少々面食いな友人の落ち込む姿を見つつ、二千子は他にも顔のいい男性がいるはずだと思い浮かべる。


「そういえば、義晴様はなかなかお相手が見つからないわね…普通ならもうお相手がいてもいいのに」

「あー…あんた知らないの?」

「何が?」


話が変わり、机に伏せていた体を起こしたお伏は言いづらそうにしている。

「あんまりこういう場で言うのは避けたいんだけど…」と小声で話すためにお伏は顔を近づけるので、二千子も顔を寄せた。

そんな二人の席の下でまだ兎たちは耳を澄ませていた。

お茶屋の夫婦はまた二羽が噂話を盗み聞きしているのを苦笑していた。時たま噂話を盗み聞きしているので、「またしている」と思っていたのだ。


「義晴様ってね、女性を狂わせる呪いがあるそうよ」

「…呪い?」

「そう」


なにそれ?という顔をする二千子だったが、お伏は静かに一度周りを見渡すと話し出す。


「義晴様は若様だからちゃんと婚約者はおられたわ…でも、婚約者の姫君が縁談が決まって数日すると気が狂って自分を傷つけたりする奇怪な行動や幻覚を見始めたそうなの。それで療養させるからと一度破談になったら、すぐに回復した」

「なに、それ…」

「で、元気になったからとまた縁談を結んだ…すると、またその自傷行為と幻覚が再発したの」


二千子は震えた声を口から漏らし、思わず口を押さえる。

話を盗み聞きしていた兎たちも互いの口を押えた。兎たちは義晴の顔を知っているので「あいつ、そんな過去があったの!?」と驚いていたのだ。


「だから、再度破談になった…そのあとも四人の姫君と縁談が結ばれるけども、必ずその姫君は同じことが起きる。そうなると分かるでしょう?」

「義晴様と…誰も縁談を結びたい、なんて言う人はいなくなる…」

「そう、だから義晴様は婚約する女を呪ってしまうと噂が立って、お相手はいないの…次期当主は義晴様以外に適任はいないから次の月ヶ原のご当主になるでしょう…でも、その次はどうするか、の問題よね」


妥当に考えれば養子をとられるのだろうけど、と二千子は思う。

お伏は「まぁ、小春姫様もいるし、月ヶ原の血が途絶えることはないでしょうけど」とぜんざいを一口食しながら零すように語る。


「そういえば、三九郎様もお相手がいないのよねぇ…端正なお顔らしいのに勿体ない」

「忍びですもの、お相手が難しいのよ」

「でも、お家はしっかりしたお人なのにぃ…はぁ、一度だけでもじっくりとお顔を見たいわぁ」

「お伏ちゃんはほんとに面食いなんだから…」


顔のいい男は見てるだけで宝よ!と断言するお伏に二千子は苦笑しつつも、「ほどほどに楽しむのよ」と忠告しておく。

友人は交友関係をちゃんとしていることを知っているので、彼女と婚約する男性がいい顔の男であることを祈るのだった。


またいい顔の男の話に戻った二人だが、その席の下で盗み聞きしていた二羽の兎は慌てて掛け軸の中に戻った。

この話はただ事ではないのでもしかしたら妹の掛け軸なら詳細を知っているかもしれないと調査することにしたのだった。


《あの坊ちゃんには親父殿を守ってもらってるんだ、何か恩返しはしてやらねぇとは思ってたんだ!でも、これは俺らだけの力じゃどうにもできねぇ》

《えぇ、知恵と力を合わせて…少しでもその呪いとやらを祓う術を見つけてみましょう、皆でね》

《まずは俺らの妹弟に話すぞ!そこから、簪の姉妹たちに聞き込みだ!それに最近、狼の妹の所にも繋がったし、そこからも情報を集めるぞ!》


兎たちはそう言いながら掛け軸の中を意気揚々と走る。

このことが、後に大きく国が動く切っ掛けとなるのは誰も知らないのだった。





そのころ、団子を堪能した二千子は茶屋でお伏と分かれ、機嫌よく歩いていた。

ふんふんと鼻歌を歌う二千子はふと後ろから物音が聞こえたので振り向くが……そこには何もいない。


「んー……?気のせい、かな?」


何もないので、気のせいだとまた鼻歌を歌いながら歩く二千子だった。が、その後も時たま物音がしたような気がしたが何もないため、二千子は少々不気味に思う。

さすがに二千子もこの異変を怖く感じたのだ。


「変な音ばっかり……あ、お稲荷様の神社だ」


気づけば家の近くにある稲荷神社にまで来ており、二千子はなんだか怖いのでお参りすることにした。

家の間にある小さな神社だが、二千子の母などが綺麗に手入れしているので、他の神社に比べれば豪華なその神社に入り、二千子はいつもする二拝二拍手一拝の作法でお参りする。


「お稲荷様、何か怖いことが起きたのでどうにかしてください」

「そんな願い方じゃお稲荷様も困るだろうよ、もうちょい具体的に言ってやりな」

「え?」


突然後ろから声をかけられて二千子は振り向くと、そこには鳥居に肩をつけて寄りかかる男がいた。

細い目はなんだか狐のようだと思うが、男はへの字口に曲げており、二千子はここの管理人であろうかと思ったが、格好は黄色い着流しで髪も少し茶色の男はどこかの遊び人に見えたので違うだろうと考え直す。


「なんか怖いってどう怖いのかわからねぇし、どうにかってのは何して欲しいのかわからねぇよ……もうちょい言葉があるだろ」

「な、いきなりなんですか…!」

「お前さんの言葉が足りねぇんだよ…」

「な、なんですかあなたは…失礼な!」


いきなり悪口を言われ、二千子は「なんだこの男!失礼すぎる!」と憤るが、男はそんな二千子に鼻で笑う。

それどころか男は二千子に近づき、額を指で弾いた。


「いたっ!?」

「だから、どう怖いんだよ…それが分からないとお稲荷様もどうすればいいのかわからねぇだろうが」

「うっ…それはそうですけど、あなたは誰なんですかぁ……」

「あー…そこいらのやつだよ」

「じゃあ不審者!」

「違うわ!!なんでそんな考えになるんだよ!このすっとこどっこい!!」


「おい、コラ!」と怒る男だが、名を名乗らないからだろうと渋々自分の名は南天(なんてん)であると教えた。


「で、南天さん、いきなりなんでしょうか」

「はぁ…お前がお稲荷様を困らせる願い方をしてるから口を出しただけだ」

「その割にはお口が悪い…」

「ほっとけ、元からだよ」


やれやれと口に出しながら懐から煙管を出して吸い始める南天。

狭い神社の中ではあるがお稲荷様の前で吸うなんて、と二千子は注意しようとすると南天は二千子に煙を吹きかけた。


「ちょっ、けむ…あれ、いい匂い?」


煙の中で二千子は咳き込むかと思われたのだが、その煙は甘く、花のような匂いであった。

煙を吹きかけた南天は何処かを見ていたが、息を深く吸うと今度は空へ煙を吹いていた。


「これで変なのは寄り付かんだろ」

「え?」

「煙くせぇ女に寄り付く馬鹿な男はいねぇよ」


煙臭くなった…わけではないのだが、煙を吹きかけたのはそちらであると二千子は文句を言おうとするが、空の色が変わり始めているのに気づいて、早く家に帰らねばと焦る。


「あ!もう空の色が変わってるわ!!急いで帰らないと!…南天さんもどこに住んでるのかは知らないけど、早く帰るのよ!!」

「俺は餓鬼じゃねぇよ…って、行っちまった」


南天を置いて、二千子は小走りで家に帰宅する。

少々遅い帰宅に二千子の母は一つ文句を言おうとしたが、二千子から香る甘い匂いがして、思わず笑みを浮かべた。


「あら、いい香りねぇ…お香でも買ったの?」

「え?…あ、これは違うの!南天さんに煙管の煙を吹きかけられたのよ!」

「…新しいお友達?じゃなさそうね」


二千子は先ほどあった南天について話す。

稲荷神社にて出会ったこと、馬鹿にされた言い方で稲荷様へのお願いの言葉を注意されたこと、煙管で煙を吹きかけられたことを。


「まぁ、そんなことがあったの…でも、そんな若い男の人この辺で見たことないわねぇ」

「私もそう思ったわ、でもなんだか悪い人には見えなかったの…意地悪だけど、不思議と」

「確かにお稲荷様を困らせるな、なんて言うのだから悪い人ではないでしょうねぇ…少々素行が悪そうだけど」


女の子に煙管を吹きかけるなんて、と二千子の母は言うが、未だに二千子から香る甘い匂いに、煙管の煙にしては随分甘い匂いねぇと不思議に思ったのだった。


「まぁ何か変なことをしてきたのなら言いなさい、お父様に言って巡回とかしてもらうから」


二千子はそう言われて、その何かが起こらないことを祈る。

少々意地悪な男であったが、悪い者には見えなかったので、そう思うのであった。




その日から南天は二千子の周りに現れるようになった。

友人と遊ぶ時や、作法の稽古の道中など、姿を見せては二千子に一言二言ほど言葉をかけていく。

そのため、最初は不審な人物かと警戒していた二千子と親交のある人物たちも、少しすると一部の人間から「あれは大丈夫」などと警戒を解くように言われ始めた。


最初にそう言ったのは彼女の親族である玄三郎で、二千子の母から相談を受け、一度「どこの馬の骨が現れたのだ」とその姿を見ようと買い物に同行し、顔を合わせたのだが……すぐに不審な男ではないと二千子の母に告げた。


また、玄三郎からあることを教えられた二千子の母も南天に対してなぜか信頼を置き始めた。

二千子はその様子に首を傾げるが、二千子の母は「貴女はまだ知らない方が良さそうだから」と教えなかった。


お伏も最初は、友人に近づく不審な男と見ていたのだが、次第に警戒を解くだけでなく、二千子の周囲を見てくれるいい人のようだと認識した。

彼女の別の友人からも南天について「大丈夫だ」と言われていたのもあったが、南天の行動や言動が二千子のことを思ってのことだったからである。


二千子は気づかなかったが、守ってくれているのだと、お伏は()()()()を伝えた。

他のことは今は知らなくていい、と言ったお伏に二千子は首を傾げた。が、それは他の友人も同じことを言うのであった。


「んー…今はそれだけを知ってるのでいいんじゃない?」

「あの人は…あー、えーと、悪い人じゃないっぽいよ?それだけは言えるかなぁ」


と、何かをはぐらかすのである。

二千子は詳しく聞いてみるが、その友人たちは皆がどこかを見ると首を横に振り、教えられないと口を閉ざしている。曰く、南天が隠しているから、という訳らしい。


「で、守ってくれてるみたいですけど、あなたは何者なんですか?」

「…本人にそれ聞くのかよ」

「本人以外が教えてくれなさそうなんですもの!」

「あー…厄介なごまかし方しやがって…」


もう本人に聞くと、南天に突撃した二千子に聞かれた本人は面倒そうにしていた。

茶屋の外にある長椅子に腰かけていた南天は口をへの字にしながら煙管を吹かしており、隣に座る二千子は答えを待つ。


「別にいいだろ、不審者じゃねぇんだから…」

「やってることは不審者みたいだったからよ」

「…お前、厄介なもん引っ付けてるんだよ。俺はそれが見えるの」

「厄介な、もん…?」


行動が不審者と言われたため、南天は仕方なく口を開きつつも煙管で軽く二千子の肩をトントンと叩く。

南天は目線を一瞬横にやってから二千子へ戻すので、何かを今、払ったらしいと二千子は思わずぶわりと汗が吹き出た。


「払っても払ってもすぐに引っ付ける…だから毎日払ってやってるんだよ」

「ま、まさか幽霊が…!?」

「…まぁ、そんな感じだな」


南天の言葉に二千子はひぃぃ…と小さく悲鳴を上げるが、南天はやれやれという顔をしているだけだった。

そして、また煙管の煙を吹きかけるので二千子はこの煙はもしや守ってくれていたのかと気づいた。


「もしかして、この煙管の煙って守ってくれる煙なの?」

「あぁ、魔除けに効く木材で作ってるからこいつから出る煙も効果がある」

「へぇ、そうなの…ねぇ、なんで私を守ってくれるの?」

「そりゃあ、ご主人様だからねぇ」

「…え?」


二千子は南天の言葉の意味が分からず聞き返してしまう。

今、誰をご主人と言ったのだと。


「お前さぁ…お友達に姉さんのご主人がいるから聞いてるんだろ?あの玄三郎殿からも」

「え、待って…私の友達って、それに玄三郎おじさまがどうして出てくるの?」

「あ?…もしかして、言ってないのかよ兄様たちよぉ」


余計なこと言ったじゃねぇか…!と頭を抱える南天。

二千子はそんな南天を見ながら、自身の友人と玄三郎の共通点を考える。


恐らく、その友人とは南天のことを「心配いらない」と言っていた友人であること。

自分と関わりがある玄三郎は名家の出身だが…友人たちはそれに当てはまらない者もいる。

ならば、その友人たちの共通点で思い当たるのは、その友人は…皆が綺麗な簪をつけていたこと。

その簪は…。


「もしかして、南天は…この薬入れの狐、さん?」


対象の友人たちは皆、巷で噂の職人である天野宗助職人の簪をつけていたこと。

そして、玄三郎の家には河原家の守り神となった河童様がいること。


これが共通点だった。

二千子はいつも持ち歩いている薬入れを取り出して南天に見せる。

が、その前にいるはずの狐がいないことに気づいた。


もしや本当に…?と二千子が南天を見ると、南天は深くため息をついた。


《…そうだよ》


観念したようにそう言った南天の横顔が人間から狐に変わる。

服は同じなのに、顔は狐で、尻尾が出ていた。


二千子は騒ぎになるのではと周りを見渡すが、周りの人間は何事もなく日常を過ごしていた。

が、南天は普段と変わらぬ口調で煙管をまた吹かしていた。


《心配しなくてもいい、お前以外には俺の顔は人間に見えてるよ》

「南天…なのよね?」

《あぁ、南天さ…お前さんの薬入れな》


二千子はそう言って、いつものように煙管を吹かす南天に驚きつつも、何だか嬉しくもあった。

だって、彼女はいつも狐に守られていたのだ。神隠しの時も、今も。

大好きな狐が、いつも傍にいたのが何だか嬉しかった。


《先に言っておくが、お前さんが神隠しにあった時に助けたのは俺じゃねぇ…あれは本物の稲荷様の神氏様だ。だからそこは間違えるなよ》

「そうなのね…じゃあ、今まで通りお揚げのお供えしないとね」

《それでいい》


よしよしと頷く南天に二千子は「あなたはいらないの?」と聞けば、「くれると言うなら貰うが、俺に食べるという欲はないぞ」と答えた。

くれるのなら食べるが、欲しがるほどではない、と答えた南天にじゃあ用意してやろうと二千子は考えた。


《それよりもそろそろ日が暮れるぞ》

「あ、いけない!暗くなる前に帰らないと!…って、南天も一緒に帰るのよね?」

《後から帰るよ。お前さんは先に行きなぁ》


南天にもうすぐ日が暮れると言われて二千子はその前に帰らねばと立ち上がり、お勘定を渡す。ついでに南天の分も払ったので、彼からは「おい」と声をかけられたが南天の持ち主は自分なのだからと気前よく払ったのだった。


「南天も早く帰るのよー」

《へいへい》


二千子は南天にそう言うとニコニコしながら家路を急いだのだった。

それを見送った南天はゆっくりと立ち上がると人の顔に戻した。


《さて、仕事しようか》


そう零した南天は、少し離れた所にいる二千子の後ろをついていく男を視線に入れると、男の背後にある影から現れて、男を捕らえると影に引きずり込み人気の無い場所へ移動した。

いきなり影に入れられ、知らぬ場所へ連れて来られたので男は混乱するが、腰に差した刀を抜いて南天に向ける。


「な、なんだお前…!!」

《お前さんさぁ、駄目だぜぇ?…俺みたいなのに刀を向けたら》

「何を言って…っ、刀が、通り抜けてる…!?」


南天は向けられた刀を物ともせずに男に近寄り、刺さるはずの刀は何もないように体からすり抜ける。

そして、驚く男の胸倉を掴んだ。

男はひぃっ!と声を上げ逃げようとするが、南天の力は強くびくともしない。


「な、なんなんだ、お前ぇ!」

《お前さんさぁ、あの嬢ちゃんに何をしようとした?…当ててやろうか?身なりがいいから襲って、金目の物を奪おうとしてたなぁ?その後は自分の性欲処理させて、用がなくなったら斬り捨てようとしてたよなぁ?》

「そ、そんなことは…」

《俺はなぁ、人の悪意ってのに敏感でねぇ…あいつは雰囲気から人の良さが出てるから、悪意があるやつを呼び寄せちまうのよ》


南天はにんまりと笑い、鋭く生えた歯を男に見せる。

この歯を見た男は南天が人ではないとすぐに気づき、恐怖からへたり込みそうになるが胸倉を掴まれているので、南天に持ち上げられてしまう。


《で、お前からぷんぷんと匂うんだわ、糞みてぇな臭いがよぉ…!!》

「ひぃ…!」


目をカッと開かせた目は金色になり、口が裂けていき、耳が上へ移動し、毛が全身を覆っていく。

そんな南天に、男は化けものであると分かると涙を流しながら許しを懇願するが南天は胸倉を離さない。


《許せ?お前さんが言うのか、それはお前さんは言ってはいけねぇなぁ…だってよぉ》


南天の口から青い炎をちらちらと漏らす。

男は青い炎を見た瞬間に何故か恐怖が一気にせり上がり、「嫌だ、来るな!」と暴れるが南天は離さず、青い炎が漏れている口を少しずつ開いていく。


《お前、許してって言ったやつをぜーんぶ、斬り捨てたよなぁ!女子供関係なくよぉ!!》


がばりと開いた南天の口から吹き出た青い炎が男を包む。

悲鳴を上げて、熱い、痛いと苦しむ男を未だ離さない南天は鼻で笑った。


《苦しいか?熱いか?でもよぉ、それは全部お前がやったからこの炎が出たんだ》

《見えてるんだよ、お前を恨む人間を…人間だけじゃねぇ、犬も猫も鳥もお前への恨みの念がよぉ!!》

《お前、この国のもんじゃねぇんだなぁ…、色んな場所で人には言えねぇことして…今まで見た中で一番恨みが強いなぁ》


淡々と言う南天はようやく男の胸倉を離した。

しかし、男は動けずにいた。何故なら青い炎の中に様々な影が見え、その影は笑いながら男の体を掴んだり噛んだりしており、動けない。

また男は青い炎に包まれながら自身への恨みを上げる多くの声が聞こえだした。


許さない。死ね。裁かれろ。絶対に許さない。よくもご主人様を。家族を殺したお前を許さない。いね。みちずれ。逃がさない。許さない。お前は絶対に許さない。お腹の子をよくも。私の妹をよくも。死ね。逃がさない。許さない。


恨みの声が反響するように大きくなり、青い炎が全身に回っていく。

南天はまた大きく口を開けた。


《お前の罪だ、受け入れろよ》


がぶり、と男の首を噛んだ。

すると一気に青い炎が火力を上げるように燃え上がり、南天が離れるとゆっくりと後ろへ倒れ、焦点の合わない目で空を見ていた。


生きてはいる男の姿を見下ろしながら南天は煙管を取り出して、深く息を吸うと空へ煙を吹いた。

煙に乗り、先ほどまで男を捕らえていた魂たちが天へ昇っていくのを見送る。


《二千子に目をつけなきゃ、こんな目には合わなかったろうが…どのみち、他の兄弟が手を下してただろうよ。それだけ恨まれてたらご主人に近づけたくないだろうしな》


南天はそう零した。感謝を伝えながら昇る魂を目で追いかけて空を見れば、星が出ているのに気づき、二千子に不審がられるので狐の姿になると煙のように消えていった。




翌日。

常和の町では、他国でも騒がれていたお尋ね者が捕まったという話題で持ちきりだった。

その男の罪状は、複数の国で強盗、殺人、強姦を繰り返し、被害者の人数は十七人に上るというものだった。さらに犬や猫などの動物も大量に殺していたという、極めて残虐な内容で、多くの町人はその所業に戦慄すると同時に、捕まったことに安堵していた。


ただ、一つ奇妙なことがあった。

そのお尋ね者が見つかった時、既に様子がおかしく、ぶつぶつと何かを呟いたかと思えば突然発狂したり、許しを懇願するように泣き出したりと、常軌を逸した行動を繰り返していたというのだ。


この話題で常和の町は持ちきりだった。


二千子はお伏とともに、またも月ノ茶屋を訪れていた。今日は違う品を頼もうと思って来たのだが、店内でもこの話題を口にする客が多く、二人は耳を傾け、怖い話だと感じていた。


「怖い話ねぇ…」

「うん…そのお尋ね者がやったことも怖いけど、様子がおかしくなったってのも怖い」

「…でも、因果応報ってやつなんじゃないかしら?それだけやってれば、色んな奴に恨まれてるだろうしね」

「そうだねぇ…でも捕まったし、噂通りの状態なら、もう誰かを襲うなんてことはしないわね」


お伏は二千子の言葉に、確かにと頷いた。

そんな状態なら、そのお尋ね者が再び悪事を働くことはないだろう。


「町に平穏が訪れたんだし、安心してここの甘味を堪能しましょ」

「そうだね」


笑い合う二人は、運ばれてきた注文の品に話を中断し、美味しい甘味を堪能することにした。

その足元では、人からは見えない小さな狐の姿で丸まって横たわる南天の前に、茶屋の掛け軸に描かれた二羽の兎…マンとミカが現れ、月見団子を乗せた皿を置いた。


《お疲れ様、これ食べて回復しな》

《…なんのことやらっすねぇ》

《ふふっ、簪の妹達が教えてくれたわよ》

《はぁ…相変わらず噂好きなお姉様達で》

《みんな、お前のことを心配してんだぞ…狐の弟はお稲荷様と取引したって》

《そこまで知ってるのかよぉ…》


南天はげんなりとした顔をした。

そんな弟を、兎の兄姉である夫婦は寝そべる頭を撫でた。


《あんな強い力を持つために、何を取引したの?その力を使ったから、こんなに疲れているんでしょう?》

《ご主人を守るために必要なのかもしれないが…そんな無理をする力なら、使うのはやめておけ。いつか体を壊すぞ》


南天が昨日使った炎は死者に関わるもので、非常に強力だ。強い力には必ず代償があるはずだと兎たちは見ていた。

また、稲荷神社に出入りする南天を何度も見かけた簪たちは、「おそらく稲荷の狐と何か取引して得た力では」と推測していたのだ。


しかし南天は、月見団子を頬張りながら目をぱちくりさせた。


《…なんか勘違いしてねぇか?お稲荷様とは力を貰う取引はしてねぇよ》


二羽の兎は目を丸くした。

南天は「やっぱりな」という顔をしつつ、団子を食べながら語った。


《俺が元から持ってる力は炎だ。人間の念を俺の炎に宿して、いろんなことができる…まぁ、かなり疲れるけどねぇ》

《じゃあ、何の取引をしたんだい?》

《炎を使う時の負担を軽くすることと、邪気払いの煙管をもらっただけだ》

《それでよく煙管を吸ってたのか…》


団子を食べ終えた南天は、狐の姿のまま器用に煙管を咥えて一服する。ミカは「そういうことか」と納得した。

父である宗助が煙管を嗜んだことはなく、周囲にも煙管を吸う者はいなかったので、どこで影響を受けたのかと不思議に思っていたのだ。


《しかし、なんでお稲荷様がお前と取引をしたんだ…》

《あー…、それは俺が少々厄介な狐だからだぜ。親父が俺を作る際に手本にした狐、そいつがまた少々厄介な狐でなぁ。そんな俺に、お稲荷様はすぐ目を付けたのよ》


兎たちは、いきなり宗助の話が出て驚くが、確かに宗助の住む山には狐がいたことを思い出す。

そして、その狐を思い出して二羽は声を揃えて「あー…」と納得した。


《あのお狐さんねぇ…自分を手本にしたとなれば、お前に愛着がわくのだろうな》

《あの狸様もお力で言えば相当のお方でしたけど…性格はのんびりしてましたし、影響は少なそうですが…狐様の方だと力を入れるでしょうね》

《で、お稲荷様はすぐに俺の力を理解して、逆に利用することにしたのさ。炎を使うと負担があったが、加護をつけてもらってそれが消えた。それに…元々は死者に干渉できなかったが、俺の炎で死者の感情や意思にも影響を与えられるようになった》


ミカがお茶を差し出しながら「で、なぜお稲荷様がそんなことを?」と問うと、南天は少し難しい顔をして唸った。ややこしい話だと察したマンが促す。


《とりあえず、お前に何をさせてるんだ? そこから話してくれ》

《あぁ、お稲荷様が俺にさせてるのは…この地に昔からいる穢れの浄化だよ》


さらりと茶を飲みながら言った南天の言葉に、二羽の毛がぶわりと膨らむ。

穢れとは、人だけでなく土地や生き物にも害を及ぼし、最悪の場合は国を滅ぼすこともある恐ろしい存在だ。


《…おい、それはどういうことだ》

《この地に、穢れが昔からいるの…?》


南天は「おや? 知らなかったのか?」と首を傾げ、何かを思い出したように頷いた。

そういえば、お稲荷様もそんなことを言っていた、と零し、「兄様方は今まで通りでいい」と続けた。


《言い方が悪かったな。少々こざかしい穢れの浄化だ……今、この国にあった大きな穢れは消えてる。小さいけど、しつこく生き延びてるのを俺が担当してる》

《待て! 順番に話せ! まず、この国に穢れがあるんだな!?》

《ある、と言ってもほとんどは害がないに等しい。それは兄様方のお陰だな》

《私達の…?》


南天は軽く「そう」と言い、二羽は顔を見合わせた。

そんな二人を前に、南天は右前足を上げて落ち着けと促した。


《親父の力のお陰だが、俺らはそこにあるだけで邪気払いができる縁起物になったのさ。一部の厄介なものは、力の強い兄姉様方が消し飛ばしたらしいがな》

《…向日葵の姉様のことか》

《確かに、向日葵の姉様は強い簪だものね》


日食を解決したと聞いたことがあり、二羽は向日葵の簪の姉を思い浮かべた。

南天は一度首を傾げたが「あぁ…」と思い出したように煙をふかす。


《そうか、流石に知らないよなぁ…俺もお稲荷様から聞いて知ったことだし》

《何をだ?》

《この国で一番大きな穢れ、義晴様に憑いてた厄介な穢れは、刃龍の兄さんが既に祓ったんだとよ》


南天はどこか誇らしげに語った。

二羽は目を大きく見開き、店の外にまで響く声で驚き、その声に外にいた兄妹達は驚かされたのだった。





その日の夜。

月ヶ原の城、義晴の部屋にて。


眠る義晴の上に黒い影が乗り、すやすやと眠る彼の首へ鋭い爪のついた手が伸びる。

しかし、その前に義晴の頭上から巨大な手が現れ、黒い影は捕らえられた。


巨大な手は三本爪で、黒い鱗に覆われ、影をしっかりと掴んでいる。

黒い影が必死にもがくが、びくともしない。


一体何が自分を捕らえているのか。黒い影が手首の先、義晴の頭上を見上げると、そこには義晴の枕元に置かれた刀の鍔から身を現す大きな黒龍がいた。


刀の鍔から上半身だけを出しているその龍は、全身を出せばこの部屋には収まりきらないほどの巨体であった。

龍はぎろりと黒い影を見据えると、がばりと口を開き、そのまま影を喰らった。

もごもごと口を動かした後、ぷっとスイカの種を飛ばすかのように何かを吐き出した。それは光となって消えた。


《チッ…こんな雑魚じゃ、酒の肴にもなりやしねぇ》

《黒龍の兄上様からすれば、ほとんど格下というやつでしょう》


龍が下を向くと、その足元で眠る義晴の顔を確かめている銀髪の少年がいた。


《まぁ、一番でかかったのは最初に喰っちまったからな。最近のは全部雑魚だ》

《数は増えていますが、弱いのは確かですねぇ…まぁ、今は他の弟妹達もいますから、この国だけに目を向けられないのでしょう》

《隣国に向日葵や竜胆、他にも根付達が行って、無意識に穢れや呪いを祓っているからな。奴さんも手が回らないと見える…さらにこれから、他の簪の妹達も各国へ出ることになっているし、こりゃあ楽しいことになりそうだ》


ケッケッケッと意地悪く笑うこの龍は、兄弟の中でも上の兄である。

銀髪の少年、星海宗助は苦笑した。


口には出さないが、この兄が兄妹の中で最も働き者であることを知っている。

黒龍の兄、刃龍の兄と皆に慕われるこの龍は、最初にこの城へ来て、多くの穢れに蝕まれていた城を一人で対処し、他の弟妹達が縁を結びやすい環境を作ったのだ。


星海が来るまでの時間はさほど長くなかったが、最も厄介なもの…義晴に取り憑いていた死をもたらす穢れや破滅の呪いをすぐさま喰らい、祓ったという功績は、人知れずこの国に大きな恩恵をもたらしている。

この事実は他の兄弟に話す必要はないと黒龍自身が口を閉ざしているが、同じ主を持つ星海と、獅子の根付である深緋には、同じような穢れや呪いが再び来る可能性があるため伝えられていた。


そして星海と深緋もこの対処に加わり、城内にはびこる穢れを日々浄化していた。

そういえば…と、星海は最近この作業に加わったある弟妹のことを思い出す。


《最近来た“からくり箱”も中々面白いですけどね。小春姫様には安らぎを…間者には困惑を与えてますが、穢れには容赦がない。先日は穢れがからくり箱によって自分の存在を見失い、結果として自我を崩壊させて消えました》

《あれは末恐ろしかったな。人間の敵にはまだ情を残してたのが分かる…親父は多分、そんな怖いこと考えずに作ったはずなのにな》

《元々は太郎殿やおゆき殿と遊ぶためでしたからねぇ…しかし小春姫様には従順ですし、問題はないでしょう》

《だな。あの姫様のために自分を改造するなんて、よくやるぜ》


今日も小春姫様のために頑張っているのだろう…そう思いながら話にふける二振り。





兄達にそんなふうに思われている“ある物達”は、すやすや眠る小春姫の枕元に立ち、ニコニコと笑みを浮かべていた。

小さな人の姿をしており、それぞれが異なる道具を手にしている。


《今晩もぐっすりだ!》

《うんうん、今日のもいい感じみたい!》

《明日は少し趣向を変えてみようよ》

《色々試してみようぞ》


小春姫を起こさないよう小声で話していたが、かたり、と音がして全員の表情から笑みが消え、眉間に皺が寄る。


《こんな夜中に無粋なお客様だな》

《姫様の部屋と知って来たのか…不敬な》

《…人間さんだから、少し手は抜こうね》

《勿論》


音のした方を睨むと、彼らは手に箱を出現させ、天井から刀を持って忍び込んできた侵入者を吸い込んでしまった。

悲鳴を上げる暇もなく、箱に封じられた人間を抱え、小人の一人が部屋の外へ向かう。


《今日も忍びの人に渡そうね》

《この人、朝までに出られるかな?》

《前の人は二日かかったぞ》

《…前より難しくしたから三日かな?》

《三日で出られるといいね》


そう小声でわいわい話しながら、小人達は侵入者(箱入り)を忍びに引き渡すため、小春姫の部屋を後にした。



--------------

狐の薬入れ


狐の薬入れは、天野宗助が製作した印籠型の薬入れ。狐を象った精緻な彫刻が施されており、表面には独特の艶があると記録されている。


河原家の二千子が狐を好んでいたことから、薬入れを探していた際に親戚の河原玄三郎が天野宗助に依頼し、製作された。彫刻された狐は「南天」と名付けられ、人間の姿に化ける能力を持つと伝えられている。

南天は持ち主の傍に仕え、邪気や災厄を遠ざけるとされる。二千子は南天に日常的に相談を持ちかけ、口は悪いが助けられたという逸話が多数残る。


多くの記録によれば、南天は黄色い着物を着た青年の姿で現れ、煙管を常に携えていたという。煙管から吹きかけられる煙には邪気払いの効果があり、特に二千子の子や孫が外出する際には必ず背に煙を吹きかけていたとされる。※1


また、南天は稲荷神社の狐と会話できるとされ、幾度か神託を伝えた記録がある。稲荷の狐から食物(油揚げや稲荷寿司)を頼まれることもあり、その買い物に赴く姿は現代でも稀に語られている。


南天はその変化の能力を生かし、広範な活動を行ったとされる。狸の箪笥の狸たちから依頼を受け、陸奥川鼓太郎の嫁探しを手伝ったが、相性の合う女性を見つけるのに苦労したという。


江戸時代、霊山の僧を騙って金を詐取していた男に対し、「多数の神に呪われているため、まもなく死ぬ」と告げ、自首させたとの逸話がある。※2

この男は実際には死ななかったが、南天は「呪われているのは本当だが、死ぬという部分は嘘」と述べ、「多くの人を騙したのだから、一度は自分が騙されろ」という意図であったとされる。


※1  二千子は邪気に憑かれやすい体質であったため、南天は頻繁に煙を吹きかけていたという。

※2 この坊主は改心し、霊山で修行したのちにある寺の坊主になって多くの人の命を救った。

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