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第11章 掛け軸 渓谷の窓

これで掛け軸三部作は終わりです。


清浄国 常和の地。


その地に昔からある武士の家に雲江という家がありました。

昔から武士の家系であり帝にも長年仕えてきた家で京に本家がある由緒正しい家柄の家系でありました。

故にこの近辺の武士に比べると自分達は偉いと思っておりいつも偉そうにしていたのです。


そんな家に嫁と嫁いできたお由利(ゆり)という娘がおりました。

彼女は幼い頃から親同士の約束という名の契約により清浄国の雲江家の次期当主である卯景(うけい)と婚約することが決められており、格が高い家柄に嫁ぐのだからと幼き頃から雲江家で嫁入りのために家事、行儀作法の修行を行うばかりで外にほとんど出たことはなく彼女にとってこの家が彼女の世界なのでした。


そのためにお由利はどんなことを言われても耐えました。

例え姑からの理不尽な嫌味や暴言や命令も、夫からの心無い言葉にも。

ずっと、ずっと耐えてきたのです。



嫁いだ当初は同い年で仲が良く優しく接してくれた卯景でしたがいつからか彼女に対してだけ横暴でいつも暴言を言うようになったのです。

当時は自分が嫁ぐ立場なのだからそういうものなのだと思いいつかは終わると我慢していたお由利でしたが数年も続けば流石にこの家しか知らないお由利もおかしいと思い、耐えるのにも限界は来るのです。


「もう…いや、なんでこんな…でもあの家には帰れないわ…」

「帰りたい…お母様やお父様に会いたい…でも祖父の契約で帰れない…」

「あぁ、今日も頑張らないと…うぅ、お腹痛い…」


お由利は自分に与えられた部屋で寝具にうずくまりながら呻くように腹の痛みに耐えながらつぶやきます。

これはお由利が少しでも自分が心無い言葉や理不尽な所業に耐えれるようにするために無意識で声に出しているものでした。

少しでも耐えれるように毎日つぶやきますが夫の卯景や姑は彼女の部屋に一切近寄らないのでそんなことは幸いにも知りません。


そんなお由利のつらみや痛み、必死に耐えている事を知るのはこの家で働く奉公人達だけでした。

お由利が雲江家の中で奉公人にも優しく接し、彼らの前で気丈に振舞おうとする姿に奉公人達は彼女を慕っていましたが自分達ではお由利を助けてやれないことに悔しくてたまりませんでした。


その中でもまだ幼い少女の奉公人のおこうは特に苦しむお由利を助けたいと思うもまだ幼く何より奉公人である自分に何が出来ようかと悔しく思いながらも、少しでもお由利に笑ってほしいと河原で摘んだ花や季節の花を彼女に渡していました。


お由利はおこうが渡す花がこの家に来ての初めての楽しみでした。

このおこうが渡す花はお由利に季節を教えてくれ、また良い香りが彼女を少し癒してくれたのです。

なのでおこうが花を渡す時にだけお由利は笑ってくれ、おこうはそのお由利の笑顔が大好きでした。


花がほころぶような可愛らしい笑顔のお由利を見るのがおこうは大好きだったのです。

だからもっと笑顔が見たいとおこうは考えました。


「どうすればお由利様はもっと笑ってくれるだろう…」

「今でもお前には笑ってくれるじゃないか…まぁ気持ちはわからんでもないがな」

「お料理も上手なお人だけど美味しい料理を食べても笑えないし…むずかしいわねぇ」


お由利が美味しい料理を作っても夫と姑はいつも料理を食べるのですが文句や罵倒ばかり言います。

そのせいかお由利はあまり食べれず、料理の味も最近ではあまりしないと呟いていたことを思い出した奉公人の一人の言葉に全員がお労しい…と顔を暗くさせる。


相談された奉公人達はお由利には笑ってほしいが何をしても結局はあの夫と姑がいる限り難しいだろうと言うとおこうも幼いながらにそれはわかってると返した。

しかしあの可愛らしい笑顔をみたいのだ。あの笑顔は人を癒す笑顔なのだと語るおこうに奉公人達も頷くが方法は浮かばない。


それが出来るなら早くしているのだと奉公人達はため息をつきました。

何故なら理不尽な姑の要求にお由利に手を貸せばお由利が罰せられ、気分転換に外に連れ出そうとすれば余計なことをするなとまたお由利が罰せられたからでした。

様々なことをしても結局最後は何故かお由利が罰だと仕置きをされてしまうのです。


ちなみにおこうの花渡しも見つからないように夫と姑が滅多に来ないお由利の部屋にて行われています。

…そうお由利の部屋の中なら見つからないのです。


「!、そうだ!お由利様に何か贈り物をするの!お由利様の部屋なら当主様も大奥方様も入らない!」

「確かに、部屋の中で楽しむものなら喜んでくれるかもしれない!」

「…だが何を贈るんだ?俺達の金で買えるもんなんてたかがしれてるだろ…」

「うっ、確かに…」

「そうだわ、花衣屋はどうかしら?あそこなら少し安いものでも物がいいの!」


奉公人達も花衣屋の事は知っていました。

不思議な鏡により姑と小姑にいびられていた嫁いできた農民の娘が立派な女商人になったことで有名なお店だからです。

その鏡の話を思い出したおこうはもしかしたらお由利様を助けてくれる物があるかもと明日早速行くことにしました。



翌日、おこうは奉公人達からお由利への贈り物を買うならと少ない皆の給金から少しずつ出され、集められたお金を持ち花衣屋へ行きました。

店に入ったおこうは色とりどりで多くの種類の品物に目を瞬かせて驚きましたが、お由利への贈り物を探そうと店内を見ているとふと不思議な香りがして足を止めます。


店で売られているお香とは違う嗅いだことのある香りに導かれておこうは歩き出しある品物の前で立ち止まりました。

それは美しい親縁の渓谷が閉じ込められた掛け軸でした。

その掛け軸を見ておこうはこの香りは木々の匂いだと思い出しました。


「きれい…」

「お客様どうなさいました?」

「あ、ごめんなさい…」


おこうは声を掛けられ咄嗟に謝ってしまうが店の人だと花衣屋と書かれた前掛けをしていることに気づき少し顔を赤くして家の者と間違えてしまい恥ずかしいと少し顔を俯かせた。

店の者はそんなおこうに笑みを見せてしゃがむとこの掛け軸がどうかしたのかい?と聞いた。


「あの、なんだかいい香りがして…なんの香りだろうって探したらこの絵の前にいました…」

「香り?どんな香りだい?」

「え、今もしてるよ…森の中みたいな木と葉っぱのいい匂い!この絵に山を閉じ込めたからするのかな」


山を閉じ込めたというおこうにいい例えだなと店の者は微笑む中で少し掛け軸を見るとおこうに一つ聞いた。

その店の者の目はまるで今から演劇が始まるのを楽しみにしているような楽し気な目であった。


「君はどんな物を求めてここに来たのかな?」


と。

突然そう聞かれておこうは驚くが自分は奉公人で奉公先にて慕う奥方様がいつも苦しんでるから何か助けてくれるものを探しにきたと告げる。

店の者は少女が告げた内容に驚いたが納得したように一つ頷くとおこうにお金はあるかと聞いた。


「皆で集めたの!…少ないけどお金はあるわ」

「見てもいいかな?」


おこうはお金が入った袋を見せると店の者は指で数えるとまた頷き、おこうの前にあった掛け軸を外して丸めると箱に入れ始めたのであった。


「え!?掛け軸なんて買えないわ!」

「大丈夫だよ、この値段で売られてるんだよ」

「…え、なんでこんなに安いの?あんな綺麗なお山なのに?」


値段の札を指した店の者におこうは思わず疑いの目で見てしまうが子供の目から見てもあの掛け軸は綺麗だと感じる程のものがこんな安い値段な訳ないと思ってしまったからである。

店の者はこれはある職人さんが初めて掛け軸を売ったんだ、だから職人さんの希望で最低価格で売られてたんだよと告げながらお金が入った袋から値段分のお金を取ると掛け軸の入った木箱を渡した。



「私まだ決めてない…」

「いや、この掛け軸を贈るんだ…きっとこの掛け軸がその奥方様を助けてくれるよ…私の妻を助けてくれたみたいにね」

「あなたの奥さん?」

「あぁ、鏡が助けてくれたのさ、その掛け軸を描いた人と同じ職人の作品は不思議な力を持っているんだ…だからきっと力になってくれるよ」


おこうはそう語る店の者に不思議と信じて頷き木箱を受け取って礼を言うと店を出て行った。そんなおこうと共にこの季節ではそう見ない新緑の葉が出ていくのを店の者は眩しそうにみていた。


「菊太郎様?どうしたんですかそんな顔をして?」

「あぁお咲か…またあの人の作品が人を助けてくれそうだ」

「…あの掛け軸が?まぁどんな人に売れたのですか?」

「小さな女の子だよ、あの前掛けの家紋は雲江家の奉公人だったな………きっと助けたいっていう子供の気持ちに応えたんだ、あの掛け軸は」


きっと素敵な何かが起こる。

口に出さずに笑った菊太郎に妻のお咲はゆっくりと頷いて店の外を見た。

彼女もあの掛け軸を描いた職人により救われた者として救われる者が増えることを喜んだのであった。


「きっとあのお人の作品はその子のことを助けてくれるわ、私がそうだもの」

「あぁ、天野殿の作品だからな」





おこうは屋敷に戻り、お由利が部屋にいるのを見計らうと掛け軸を手に彼女の部屋へ向かった。

おこうが部屋の外から声をかけるとお由利は優しく微笑みながら自室へ招いた。


「おこう、いらっしゃい」

「お邪魔しますお由利様!…あのね、今日は皆から贈り物があるの」

「贈り物?私に?」


おこうが木箱から掛け軸を出して縦に広げれば部屋の中に新緑の色が広がり、木々の匂いが満ちた。

お由利はまるで山の中にいるような錯覚になるがおこうが広げた掛け軸の後ろから顔を出したことですぐに部屋の中であったことを思い出した。


またおこうが持っている掛け軸が新緑の美しい渓谷だと気づきその色の美しさに目を細めた。


「山が綺麗でしょ?私が選んだの!」

「とっても素敵だわ…まるで山の中にいるみたいね」

「私もお店でお山の香りがしたの!…これならこの部屋でも楽しめるでしょう?」


お由利はおこうの問いの返事を優しく抱きしめることで返した。

頭を優しく撫で、優しく微笑むお由利におこうはえへへと笑顔を見せたのであった。


「本当にありがとう、皆にも明日礼を言わねばなりませんね」

「えへへ、あ!これ飾りますね!」


おこうはお由利の壁にかけようとするが背がまだ小さいく届かないのでお由利がかける。部屋に彩りが出来たと二人で微笑み合う中、どたどたと音がしてお由利はすぐにおこうを押し入れの中に隠し声を出さぬように言った。

しかし幸いにも足音の主は部屋には入らず襖の外で足を止めた。


「おいお由利いるんだろう!」

「…どうされましたか?」

「ふん、やはりいたか…数日後に伯母上が来るそうだ!お前を会わせたくないが伯母上は何故か気に入っているからな…我が家に恥をかかすなよ!それと献立は母上が決めるそうだが作るのはお前だぞ!」

「わかりました」

「全く、伯母上はなんでこんな醜女を気に入っているんだ…」


おこうは卯景の言葉に押し入れから飛び出しそうになったが何故か葉の匂いがしてすっと冷静になるが怒りを耐えるため拳を握っていた。

卯景の足音が遠くに行くことを確認したおこうは押し入れから出てお由利に声をかけようとしたが彼女がまるで表情が無くなったような顔をしていたため口が閉じてしまった。


「おこう、今日はもう遅いわ…部屋に戻りなさい」

「お由利様…」

「ごめんなさい、今は一人にして頂戴…」


おこうはおやすみなさいと声をかけると静かに部屋を出た。

おこうの小さな足音が遠くに行くのを確認したお由利の目からつーっと静かに涙が落ちる。

お由利は涙が落ちるのを気にせず、寝る準備をしないといけないと支度をするが…涙は一向に止まる気配はない。


「私、なんでこんなに言われないといけないのかしら…そんなに醜いかしら」


いつもの癖で腹を抱え、うずくまりながら一人でつぶやく。

彼女に返ってくることはない言葉を発し明日も耐えようとしていたのだ。

だったのだ。


「そんなことはない、貴女はまるで野に咲く健気な花のように可愛らしい顔だ」

「え?」


返ってくるはずのない言葉と突然の声にお由利は顔を上げれば、そこには黄緑の着物と茶色の袴の貴族のような着物を着た緑がかった黒髪の美しい顔をした男がそこにいたのであった。

涼やかな美しい顔に一瞬お由利は見惚れるが部屋に現れた怪しい人物に警戒し部屋の隅へ逃げる。


「だ、誰…!?どこからここに…!!」

「夜分にすまない、しかし貴女が泣いているのを見過ごせなかったのです…俺はこの掛け軸に住む青葉(あおば)と申す」

「掛け軸…?何を言っているの…」


青葉と名乗る男は先ほど掛けられた掛け軸を扇で指し、あそこからすべて見ていたと語る。


「あのおこうという少女とこの屋敷の奉公人達が貴女を思う気持ち、そしてあの男と姑の非道な言葉も聞いた…よく耐えられたお由利殿」

「…本当に貴方は何者なの?」

「言っただろう、俺はあの掛け軸に住むものであると…信じられぬか?」


当たり前ですとお由利が告げるとまぁ仕方ないと青葉は肩を竦めた。

何か思案するように扇を掌で軽く叩いた青葉はそうだとお由利の手を取ると掛け軸へ足を進めた。


「では我が渓谷へ招待しよう、それが早いな」

「え、ちょっ、何を」

「さぁ、行くぞお由利殿…しっかり手を握っていておくれ」


青葉はそういうと強くお由利の手を引いた。

その瞬間に木々の匂いが強く彼女の鼻をくすぐり、目を瞬かせれば…お由利は空にいた。



「い、いやぁぁぁぁぁ!!!」


突然空の上にいて真っすぐ地面へと落ちていることに気づいたお由利は悲鳴を上げながら青葉に強く抱きついた。

抱きつかれた青葉は驚くことはなくよしよしと赤子を落ち着かせるようにお由利の背を撫でるとほほほと笑う。


「落ち着きなさいお由利殿」

「落ち着けって無理よ!落ちてるのよ私達!!死んでしまうわ!!!」

「大丈夫」


青葉がほらと声をかけた途端に新緑の葉が集まり青空に螺旋の坂を作る、青葉はお由利を横抱きにして抱えると新緑の葉の坂を滑るようにして下り地面に降り立つ。

青葉が地面に降り立つと新緑の坂は空へ舞い散り消えていった。


「ほら、大丈夫であっただろう?」

「こ、怖かった…」

「おやおや…仕方ないな」


余裕な表情の青葉に対し、顔を真っ青にして青葉にしがみつき体を震わせる。

しかし目の前に広がる美しい山の木々と透明で水面が輝く川の匂いと音にお由利は初めて山に来たこともあり感動する。

何故なら彼女は今まで雲江家の花嫁修業のため出かけることもなかったのだ。


「美しい山だろう?俺の家だ」

「綺麗…私、山に来たの初めてだけどとっても美しいのね」

「なんと、今まで山に行ったことがないと…では初めての経験だな」


うむ、と楽し気に一つ頷くと青葉はでは初めての山を散策しようと声をかけて手を今度は優しく引いた。

お由利は初めての山ということもあり高揚したのもあってか頷くと青葉に手を引かれるままに歩いていくのであった。


さわさわとそよぐ木々の葉の音と木々の合間から差し込む光は美しく、せせらぐ川の音と水面の光にお由利は心を奪われた。

そんなお由利を青葉は微笑ましく見ながらなだらかな山道を進んでいく、その先にはこじんまりとしているが立派なお屋敷があった。


「ここが住まいだな」

「小さいけど素敵ね」

「あぁ気に入っているんだ…さて中に入って茶でもしながら話そうか」




中に招かれたお由利は案内された縁側に座っていると青葉が茶を入れて持ってきた。

見た目は貴族のようなのに庶民のように動くのかと驚くがいい香りのお茶に頬を緩ませる。


「いい香り…」

「兎の奥方直伝だから美味いぞ…さていつまでもその恰好でいるのもまずいな」


ぱんぱんと手を叩けばお茶の香りを楽しんでいたお由利の周りに新緑の葉が舞い着物を彩っていく。

お由利が驚く一瞬の合間に着ていた白い着物の上に緑の美しい着物と黄緑の帯が着付けられており、髪も整えられて緑色の球がついた簪がさされていた。


全身を見て驚くお由利の姿を見て青葉は満足そうに頷くとさぁお茶をどうぞと飲むように勧めた。


「何をしたの…どうして着物が変わったの?」

「ん?この山の葉を使ったのさ、俺はここの主だからね」

「主って…あなたは何者なの?」


青葉はん?と首を傾げた。

その仕草も美しく見えお由利は少し視線を外す、その様子に青葉はくすくすと笑うが言わなかったか?と返した。


「言っただろう、渓谷の掛け軸だと…正確にはこの渓谷は俺の領域だ、だからここの主というわけさ」

「どうして私の前に…?」

「あの花衣屋の店で幼子が悲痛な思いで君を心配し、少しでも喜んでほしいと願っていた…私はその健気な思いに答えたくなってなぁ…」


幼子と聞きお由利はすぐにおこうを思い浮かべた、この青葉という男はおこうの願いを叶えにお由利の元へ来たのだという。

がその理由にしてはお由利をまっすぐに見つめていた。


「最初は少し手を貸すつもりだったのだが…お由利さんの事を見て、聞いて、知って気が変わった」

「気が変わった…?」

「お由利さん、貴女の状況はひどいの一言だ」

「う…そんなの言われなくても…」

「お由利さんが思う以上にひどい」


明らかに呆れの目で青葉は上にある外の世界を見た。

それは目から明らかにわかるほどに呆れの感情を出していた。


「普通じゃない」

「…分かってたわそんなこと」

「なら何故抗おうとしない」


そんなこと思ったことないとお由利が告げれば青葉はお由利にこれまでのことを聞いた。

お由利はあの家にいないからか不思議と口が開き、これまでの事を語るが…話が最近のことまで進んでいくと涙が零れていた。

そこでお由利は自分はもう限界だったのだと気付いたのであった。


全て話した後、なんだかすっきりしたと涙を手で拭うお由利に青葉は手拭いを渡しこれで拭きなさいというが先ほどよりも声が低く怒っているようだとお由利は気づいた。


「どうしてあなたが怒るのよ…」

「貴女が怒らないからだ」

「私が…怒らないって、今すごく怒って「怒ってない」…」


青葉は優しくお由利の頬に触れ、先ほど渡した手拭いを彼女の目に当てた。

初めて優しく異性の者にしかもかなりの美男子に触れられたためにお由利は体が固まるがそんなお由利の察したのか青葉は目を細めて微笑んだ。


「貴女のそれは怒るではなく悲観し、耐えようとまだしている…もうそんなことはしてはいけない」

「私…」

「貴女の心はもうすでに限界を迎えている、その証拠に味も最近感じないのだろう?」

「なんでそれを…!」


おこう嬢と一言告げた青葉にお由利は経緯を理解するがしかしはいわかりましたと彼女もすぐに納得は出来ない。

でないと今までの我慢がなんのためなのか分からなくってしまうからだ。


「貴女は健気に耐えた、しかし耐えるだけじゃ駄目だ」

「じゃあどうすればいいの!!私はもうどこにもいけないの!だからあの人達にしがみついてないと…」

「俺は貴女をここから連れ出すことはできない、絵だからな」

「なら!!」

「でも貴女の心を癒してはやれる、心の拠り所になってやれる」


お由利は涙を拭われ、はっきりとしてきた視界の中で青葉を見た。

美しい顔立ちの青葉は日に照らされていたこともあり更に美しく見えた。

そんな男が優しく笑っている。


「ここでなら貴女は自由だ、山を堪能するもよし、幼子のように声をあげながら駆け回るもいい…だからこの場所で貴女は本当のお由利はさんになればいいのさ」

「本当の…私?」

「あぁそうさ、あの家に相応しくなるためと静かでなんでも聞く嫁を演じた貴女ではなく花のように笑うお由利さんにおなりなさい…ここには俺しかいないのだから」


青葉の言葉にお由利は胸の中で温かいものが流れて何かが解けていくのを感じた。

そして少しずつ笑みが作られていく。


「ほら、やはり野に咲く健気な花のように可愛らしい顔だ」


そう言葉にした青葉にお由利は声を上げて笑った。

この時お由利は初めて心から笑顔を作ったのであった。





数日が経った日、卯景の伯母であるお(りん)が屋敷にやってきた。

お林は雲江家ではなく少し離れた所にて月ヶ原家から預かった地にて領主を務める水ノ原 利仁(みずのはら としひと)の妻として領民達に肝っ玉母ちゃんのように世話を焼き、慕われている人物である。

ちなみに雲江家なのに珍しいとよく言われるよ!と豪快に笑い飛ばした彼女の姿に水ノ原 利仁が惚れたのが馴れ初めである。


そんなお林に卯景、そして義母が挨拶する中で彼女は少し辺りを見回すとお由利はどこだい?と聞いた。

義母は飯の支度をしていると答えたがお林は少し目を細めてお由利がいるだろう場所を見ていた。


「そうかい!じゃあ手伝いにいくかねぇ」

「!、伯母上は長旅であったのです、お疲れでしょう、休んでくだされ」

「こんな距離痛くも痒くもない距離だよ、顔を見に行くついでに手伝うだけさ」


卯景の言葉を無視しずんずんと厨へ向かうお林は中を見て驚いた。

少ない奉公人と一緒に忙しなくお由利の姿もそうだがそのお由利の顔色が依然見たときよりも遥かによく、笑っているのだ。


「伯母上お待ちください!!」

「え、お林様…?」


卯景の声に反応し厨の入り口にお由利も奉公人達も彼女を見る中でお林の目にはお由利の後ろに新緑の葉が、葉で象られた男の影が見えた。

お林は驚いた顔をするがすぐになるほどねと納得するように小さく零すと中に入りお由利の頬に優しく触れた。


「少し見ない間に随分と綺麗になったねぇ、入った時は違う人かと思ったよ」

「お林様…あ、お出迎え出来ず申し訳ございません…」

「いいんだよ、どうせ妹がお由利に言ったことだろ?あの子はいけずだから」

「姉上!?」


実はその通りである。

お由利に支度をさせてお林の出迎えに来させないようにし親戚の出迎えに参加しない非常識者として貶しめお林からの印象を悪くしようとしたのだがお林は姉である故に妹の性格はしっかり理解していたのですぐに見破られたのであった。


じとっとした目で見られた義母はその目から逃げるようにいそいそと厨から姿を消した。

そんな義母を卯景は黙って見送り、お由利にいちゃもんをつけて怒鳴ろうとしたのだがここでお林が言ったことに気づき彼女をよく見た。


確かに肌の色も健康的でいつも下を向いていて表情が無かった顔がお林の傍にいるからか柔らかくなり微笑んでいることに卯景は気づいた。

卯景はそんな顔をしばらく見たことがなかったからかお由利を見て固まってしまう。

そしてまた気づいた。


「(いつからお由利の笑顔を見てないだろうか)」


物心つく頃にこの家に来て自身に嫁ぐために義母からあれこれと修行させられていたお由利。

幼い頃の自分はそんなお由利に花をやったことが何度かあげて笑ってくれたことが嬉しくて、もっと喜んでもらうために近くの山に母に内緒にして花を取りに行ったこともあったと思い出した。


しかしいつからか卯景はお由利に対して粗暴な振る舞いをしており義母と共に彼女にひどいことを言うようになっていた。

いつからだ、いつからそんなことをするようになったのかと卯景が考え始めた時だった。


≪早く彼女に優しかった頃のお主を思い出せ、戻れなくなるぞ≫


卯景の耳に聞き覚えのない男の声が聞こえてきた。

誰だと辺りを見回すがいるのは見知ったお由利や奉公人達、そして伯母のお林だけである。

一体なんなのかと頭を振った後に視線を感じ、見ればお由利が心配そうな目で見ていた。


「卯景様、どうかなさいましたか?」


この時なぜか卯景は彼を案じ優しく語り掛けるお由利に胸が締め付けられるような、胸に重りがあるような気持ちになり何でもないと何時ものように粗暴に返した。

その瞬間に心配してくれてるのにその返事はなんだとお林によって卯景の頭にすぱんという音が気持ちよく厨に響く程の勢いのある張り手が繰り出された。


痛みでうずくまった卯景はお林によって厨から追い出され渋々部屋に戻るのであった。


「…飯時まですることがない、昼寝でもするか」


卯景は日の当たる部屋に先ほどのこともありふて寝をすることにして眠りにつくのだがその時冬では珍しい新緑の葉が飛んできて彼の頭に乗った。













「ここはどこだ?」


気づけば卯景は山の中にいた。

新緑の溢れる山はまるで夏の山を思い浮かべるが日差しが肌に刺さるような暑さと湿気の混じる蒸暑さはない。

一体ここは何処なのかと辺りを見回した時、少し高い坂の上から一人の男が彼を見下ろしていた。

身なりがよくどこかの貴族のような男だと卯景は見たがすぐにここは何処か聞かねばならないとその男に声をかけた。


「おい、お前は一体」

≪彼女はお前といる時苦しんでいる≫

「いきなりなにを」

≪見ろ彼女の笑顔を≫


話を聞く気はないようで男は右手を挙げて長い袖を回すように動かすと突如山の葉が卯景を包み、視界を覆った。

腕で顔を守る卯景の耳にあの男の声が聞こえた。


≪元気に走り、笑う彼女を見ろ≫


見ろと言われ何を見ろというのかと卯景は腕を顔をからすこし動かして前を見ればそこには緑の野原を駆け回る彼のよく知る女の姿があった。

そうお由利である。


「お由利?ここで何してるんだ!おいお由利!!」

≪あれは過去の景色、声等返ってこぬ≫

「過去だと!?しかしお由利があの屋敷から出たなど聞いたことない!」


卯景はいつもお由利があの屋敷から出たことはないと知っている。黙って出たとしてもすぐにわかるのだ。

しかし目の前であのお由利が大声で笑って駆け回っている。


≪青葉!あれは何ー?≫

≪あれはアザミ、棘があるので素手で触ってはいけないよ≫

≪ふうん、そうなんだ…あ!あれは何かしら!≫

≪お由利殿そのように走ると転ぶぞ≫


子供の様にはしゃぎ回るお由利に卯景は驚きを隠せないがあんなお由利をいつから見ていないのだろうと考えた。

最近では全く笑みも見せないお由利を思い出し、なぜ自分に笑わないのかと怒りが湧きましたが次のお由利の姿にその怒りは消えてしまった。


それは何故か新緑に包まれていた山が春の花である桜の山に変わりお由利は舞い散る桜の花びらと共にくるくると回る姿でした。

その無邪気でまるで桜の精霊のように桜と遊ぶお由利に卯景は怒りは消えただただ見惚れていました。


≪可愛らしいだろう?だがお前には醜女に見えるのだったな≫

「なっ、そんなわけない…だろ…う…」


卯景は思い出したのです。

数日前に己は彼女になんと言ったのかを。

今見惚れた女に対して言ったことを。なんと呼んだのかを。


『全く、伯母上はなんでこんな醜女を気に入っているんだ…』


己の言ったことを思い出した卯景はお由利に青葉と呼ばれた男に言い返すことが出来ず口をつぐむ。

その姿を見た青葉はまたも袖をくるりと回すと今度は紅葉の山の中を仲睦まじく歩くお由利と青葉の姿を見せた。


赤い紅葉の木の下で手を差し伸べる青葉にお由利は嬉しそうに手を伸ばしている。

この姿を見た卯景は彼女へ走り出していた。


「駄目だ、待ってくれ、それはいけない!!」


卯景にとって今見るお由利の姿は今まで見たことのないものだった。


まるでこの紅葉のように頬を染めて笑うお由利の顔を。

そして信頼を寄せるように腕を組み歩く姿を。

時たま青葉を見ては恥じらう姿を。


まるで恋をした少女の姿を彼は知らなかった。

そしてその相手は自分でないことを知った時今までにない程に焦りの感情が卯景を襲ったのだ。

何故かは彼にはわからない。しかしどうしても駄目だと強く思ったのだ。


彼女の腕を掴むがその瞬間彼女は紅葉となって空へ消えた。

掴んだ瞬間に消えた彼女を追うように上をみた卯景は吠えるように声を荒げる。


「お前は俺の妻だろう!!なのに、なんでその男にそんな顔をするんだ!!」

≪簡単さ、お前のことを愛してないからだよ≫

「お前っ…!!」


卯景は青葉に掴みかかろうとするがまたも掴んだと思ったら今度は新緑の葉になって消えて卯景の後ろに現れた。再び現れた青葉の目は冷たく冬の山のようであった。

そして持っていた扇子を卯景に向ける。


≪今ならまだ戻れる、お由利殿としっかり向き合うんだ≫

「あいつを誑かしておいて何を…!」

≪誑かす?…そうか、お前がこのままならば俺はお由利殿を連れていくぞ、今のお前の傍に置いておけぬ≫

「なんっ…出来るわけない!!」

≪それはお前次第だ≫


ほら帰れと言われまたも新緑の葉が卯景を包む中で青葉の声が耳に入る。


≪消える前に捕まえねば後悔するのはお前だぞ≫




「黙れ!!っ…夢?」


卯景は大声を出しながら飛び起きた。

しかし先ほど見た夢はしっかりと記憶にあり、また夢の中で卯景を包んでいた新緑の葉によく似た葉が一枚彼の頭からはらりと落ちる。


そこで夢の中の出来事を思い出した。

青葉という男が出てきた事。そしてその男とお由利が仲睦まじく歩く姿を。

彼女が頬を赤らめて男に恋をしているような顔を。


「っ…」


その姿を思い出した卯景は山が噴火するような勢いで怒りが湧いてきて足音を荒くさせてお由利の元へ向かった。

意外にもあまり時間は経っておらず未だお林と共に厨に荒々しくやってきた卯景をお由利はまた来たと目を見開きながらまた何か言う気かと身構えたことに気づき卯景は青葉という男に見せたあの顔はどうしたと腹が立って来たのだが叔母のお林の手前その怒りを抑えた。


「どうなさいましたか?」

「いや、その…どこまで進んでいるのか見に来ただけだ」

「卯景…あんたそんなに腹減ってるのかい?にしては早い気はするけどねぇ…」


溢れた感情の思うがままに来てしまった卯景は用件を聞かれ内心慌てるが腹が減り始めてるのは嘘ではないと誰にも知られることはないのに心の中で言い訳をする。

先ほどの夢で他の男と会うお由利が気になって等口が裂けても言えぬことであったからだ。


戸にもたれて様子を見ることにした卯景は今までそんなことをしなかったが故にお由利は訝しげに見られるが気にせずお由利を見ていた。


そんな卯景にお林が目を細めて楽し気に笑う中でまたも義母が現れた。

卯景の姿に不思議そうな顔をしていたがお由利の姿を見ると目を吊り上げて顔を変える。


「卯景何やって…まだ終わってないのかい!どんくさい嫁だねぇ!怠けてもいたのかい!?」

「この馬鹿妹!お由利ちゃんはしっかり働いてるよ!」

「なんで姉さんはいつもこんな女庇うのよ!…早くするんだよこの愚図!」

「あんた…いい加減に」


お林が怒鳴ってやると一歩踏み出す前に卯景がお由利と義母の前に躍り出た。

その顔はいつもと違い訝しげな顔を己の母にしていたのであった。


「母上、お由利はしっかり準備をしていましたよ、何故そこまで怒るのですか?」

「卯景…そ、それはこの馬鹿が遅いから」

「母は煮物を多めにと今朝注文していましたが…煮物は時間がかかるのでは?」

「っ、それは…」


卯景が義母に問い詰めるように聞く中でお由利は今までにない卯景の行動に疑惑の目を向けてしまう。

その表情からお林はどうやら卯景の行動はいつもは違うのだとすぐに察したが冷静に卯景の行動を見守ることにした。


「いつもそうです何故母上はこいつにきつく当たるのですか?」

「な、それはこの家のためにも早く覚えてほしいだけで…それなのにこの愚図嫁が!!」

「理不尽なことをいつもお言いでしょう、…俺もそうでしたが」


卯景は今までと違う振る舞いをするのには訳があった。

卯景はあの夢の中のお由利を思い出し、今のままではあのお由利の顔は自分に向けてはくれないとすぐに理解した、ならば向けてもらえるようにするにはあの青葉という男の様に接すればいいのではと単純ながら短い時間で考えたのであった。


何よりも青葉という男は今のままではお由利を連れていくと言ったのだ。

それは恐らく卯景には手の出せぬ場所であると何となくであるが感じた故の焦燥からこの行動に出たのである。


「いきなりどうしたのよ卯景!いつもはこんな嫁のこと…」

「俺は気づいただけです、今のままでは俺は彼女を失いますから」

「何を言って…」

「とにかく母上も変わらないといけません、今のままではとんでもない姑としてお由利達に思われますよ」


達ってなによと呟いた義母ははっと周りを見れば厨にいた奉公人達の目が呆れた目をしていたのです。

何よりもお由利の目が恐怖と信頼等ないと表していた。

ここで初めて彼女はお由利の目を見たのであった。


「わ、私は…この家のために…」

「言っておくがねお馬鹿な妹、お由利がこの家に来たのは父さんが頭下げたからって知ってるだろう?…そろそろこの婚姻のことを卯景とお由利には言わないととは思ってたんだけどねぇ」

「何をですか伯母上?」


お由利が持っていた野菜をまな板の上に置いたお林は今までと違い真剣な顔でお由利を見ていた。

その顔に卯景もお由利も顔を真剣な表情にさせる。


「お由利の家であった花咲(はなさき)家のことさ…この婚姻はお由利を守るためのものなんだよ」

「私を…?」

「花咲家は鋤奈田 藤次様の直系の血筋を引く家…その娘であるお由利を害ある者から守るために元は家臣の家であった我らは雲江家の男児の卯景に嫁ぐ形で家から離してやることで血筋を守ることにしたのさ」


二人は顔を見合わせて驚いた。

お由利の家のことも、この婚姻の真の意味も。


「それなのにこの馬鹿妹は何を勘違いしてんだい!お由利にある程度嫁としての修行をさせるのは擬態させるのにいいからと賛成はしたが嫁いじめしていいなんて誰がいった!」

「だってこの家に来たからにはもうお由利は違うし…だから」

「それでもこの家に来た嫁をいじめる風習なんてないんだよ!それに今回で卯景が真実を伝えても未だにあんたの真似みたいなことしてるなら婚約を破断させようと思ってたんだ!!」


これには卯景はびくりと体を震わせた。そして大量に出た冷や汗が一瞬で背中から熱を奪い冷やす。

もし、あの夢を見て今すぐに自分の今までの行動を変えねばどうなっていたのかと…。


「でもどういう訳かお由利と向き合おうとしてるみたいだからね、今回は様子見にしておくよ」

「ふぅ…」

「姉さん、私は…」

「あんたは息子を少し見習いな!いつまでも雲江家の偉功なんてものに縋り付いてないでね!」


全く!と息をついたお林は卯景の背中をバシン!!と大きな音をさせて叩いた。

その際に背中の濡れている様子から今のお林の言葉にかなり冷や汗をかく程に焦ったようだと勘付かれるのであったが。


「しかし、いきなり卯景は反省なんてし始めたんだい?」

「それは…その夢で、今のまま苦しめるならお由利を連れて行くと青葉という男に言われて…」

「え」


言いづらそうに言った卯景にお林は首を傾げるがお由利は青葉という名前が出た瞬間に駆け出した。

その顔は頬を赤らめて少しはにかむようにしていたためお林も義母も驚くが卯景は逆に顔をしかめて後を追った。


まるで野山を駆けるように走るお由利に通り過ぎた奉公人達は驚くがその後ろから続く不機嫌な表情の卯景に今度は何をする気だと心配そうに後を追っていく。

それは群れが出来る様に人が増えるが二人は気にせず走っていた。


お林も義母もその群れに混じって追う中でお由利は自室の戸を開けると掛け軸の前に座った。

涙を流し、笑うお由利は掛け軸に頭を下げた。


「青葉…あんたがやったんだね!」


そう掛け軸に頭を下げるお由利に周りは気がふれたかとざわつく中で卯景だけがお由利の隣に座る。

お由利はその卯景に驚き少し距離を取ってしまったことで卯景が内心で静かに落ち込むがそんな彼の様子を気にせず頭を下げる中でふわりとここ最近彼女にとって嗅ぎ慣れた匂いが部屋を包んだ。


頭を上げればお由利の部屋ではなく周りにいた皆が山の中にいたのだ。

いきなり山に放り込まれたように景色の変わったお由利の部屋にいた全員が驚きの声を上げる。


「え、なんだここは…なんでこの季節なのに葉が青いんだ?」

「綺麗…これは山の香り?」

「まさか、この掛け軸…」

「どうなってるの姉さん!?ここはどこなのーーーー!?」


皆が混乱する中で新緑の葉が集まり人の形を作る。

その姿を見たお由利は顔を花が咲くように笑顔にし、卯景は苦虫を噛むようにさらにしかめた。


≪お由利殿≫

「青葉!!」


お由利は立ち上がり突如現れた美しい顔の男に飛び込むように抱き着く、寸前に卯景が彼女の腹に手を回して阻止をした。

お由利が不満そうに卯景を見るが卯景はその顔をされたことに顔をしかめながらも青葉を睨んだ。


≪今度は捕まえられたな≫

「うるさいぞ、…でもお前には感謝する」

≪ふむ、少しの合間に素直になったものだ…≫


やれやれと首を振る青葉と呼ばれた男にお林は警戒しながらも頭を下げる。


「どこの誰かは知らないがあんたが卯景を変えたんだね、礼を言わせておくれ…であんたは誰だい?」

≪お由利殿の持つしがない掛け軸さ、この山は俺でもある≫

「…もしかしてあんたは天野宗助っていう職人の作品だろう?」


青葉と呼ばれた男は目を丸くするが誇らしげに笑い頷いた。

その様子に名のある職人の手であるのかと義母が聞けば確かに名はあるがそうじゃないと返した。


「義晴様を虜にする職人、天野宗助…その作品は不思議な力を持つって武家では有名でね…こんなとんでもないことするってことはそうなんだろう?」

≪ふふっ、有名になったのは上の兄弟達が己の持ち主達に尽くした結果だな…我らは『物』だ、故に己の所有者、主に尽くすのは道理だろう?何の問題がある?≫


故にお由利のために動いた。

そう語る青葉にこれは筋金入りの忠義『物』だとお林が悟り、いいや何も問題ないと首を横に振れば満足気に青葉は笑うのであった。


「ね、姉さん…その掛け軸は大丈夫なの?」

「あぁ大丈夫、天野職人が作る物は不思議な力を持つが福を招くと有名だからね…まさかお由利が所持していたなんて驚いたけどね」

「奉公人達がくれたのです、私が少しで安らげますようにって」

「その思いに応えたんだねぇ…この掛け軸は」


奉公人達は自分達の金を集めておこうが買ったものがそんなすごいものだったとはと驚いたがお由利のためになってよかったと笑いあう。

特におこうは本当に不思議なことが起きたと喜び、その姿を見ていた青葉は優しく微笑んだ。


≪おこう嬢がお由利殿を心の底から案じていたのでな、その声を聞いたまで…卯景殿、またお由利殿を泣かせたらお林殿ではなく俺がお由利殿を本当に連れていくからな≫

「っ、言われなくとも…!」

≪ではお由利殿、また夢にて≫

「今日は夏の山がいいわ」


青葉が心得たと頷くと新緑の葉が皆の視界を包み、葉が晴れるとそこはお由利の部屋でお由利と卯景の前には新緑の美しい渓谷の山の掛け軸がそこにあった。


「今のは…本当に夢ではないのか…」

「天野宗助という職人が作る、いや描いた物ならば奇想天外なことも仕方ないだろうからねぇ…何せ竜を棲ませた壺を作ったり人の罪を晒す簪なんてものもあるくらいさ…河原家には河童の守り神が出来たからねぇ…」


実はお林が天野宗助という職人を知っていたのは彼の夫が義晴の直属の家臣であることと河原家とは親交があり奥方から河童の像について聞いたからである。

特に夫からはとんでもない職人のようだと称されているようではあるが奥方経緯で河原 玄三郎からは面白いお人と聞き武家の奥方の情報網にも天野宗助という職人が度々出てくることからも名が知られているのだ。


義母は近所付き合い等ないのでそんなことは知らずにいたためお林は近所付き合いとは情報を得られることもあるから大切にしなと忠言するのであった。


「そんなすごいお人の作品だったなんて…すごく安かったのに」

「え?そうなの?」

「いくらだったんだ?」


おこうが店で購入した値段を言うとお由利も卯景も、義母もお林も周りにいた奉公人達も目を見開き


「安すぎる!」


と屋敷中に彼らの声が響いたのであった。

その声を聴いてか掛け軸の渓谷に青葉の笑い声が響いたのだが誰も知らないことであった。












ある日、雲江家に花衣屋の商人の邦吾と名乗る男が訪れた。


花衣屋は渓谷の山の掛け軸があった店であるため家の中に入れ、居間にて対応したお由利が何故様子を見に?と聞けば少し苦笑しながらあの方の作品は必ず何か不思議な事を起こすのだと話した。

そのため念のために様子を見に来たという邦吾にお由利は納得した。


お由利は確かに不思議なことを起こしたと告げる。

しかし彼女の顔は尊いものを見るような笑みだったので邦吾はここでもいいことをしたようだと確信した。


「これつまらないものですが」

「わざわざありがとうございます…まぁここは最近有名なお店の!」

「それと…新緑に兎からと預かっています」


兎?とお由利が首を傾げているとどこからか来たのかひらひらと新緑の葉が舞い降りて邦吾が持ってきた小さな袋の上に止まるとすぅっと音を立てずに袋と葉が消えていった。


「!?」

「まぁ青葉ったら!…ごめんなさい、うちの掛け軸が勝手に持って行ってしまったみたいで…」

「い、いいえ!その兎とは新緑…渓谷の山の掛け軸とは同じ絵描きの兄弟分のような掛け軸でして、この茶屋に買われたのです…先ほどの荷物もその兎からでしたので問題はありませんよ」

「まぁ!青葉にご兄弟がいたなんて…!もう、ご兄弟からの物とはいえ勝手に持っていくなんていけない人だわ」


もう!とぷんぷんと怒るお由利に邦吾は聞いていた噂とやけに違うようだと目を瞬かせる中でこの家の屋敷の当主である卯景が部屋に入ってきた。


「お由利、客人の前で騒ぐなんてどうしたんだ」

「あ、卯景様…」


お由利が青葉がしたことを告げれば苦笑するように笑い、俺がお客人の対応をするから説教しておいでと部屋から出した。

悪評目立つ当主が来たことで邦吾は少し緊張の面持ちになるが卯景は穏やかな表情で座っていた。


「そんなに固くならないで下さい…まぁ無理もないでしょうね、私の評判は悪かったですので」

「…あの掛け軸が切っ掛けとだけ聞いてもいいですか?」

「えぇ、掛け軸が切っ掛けですよ…青葉に煽りに煽られましてねぇ…お由利にそんな悪評がつく男が相応しいので?やら短気な男は好かれないやらと…まぁ色々と」


邦吾はうわぁ…と顔を引き攣らせながらもしや仲が悪いのかと思ったが卯景の顔には嫌悪はなくどこかすっきりとした顔をしていた。

雲江家という括りからではあるがこの卯景という男は短気で性格は粗暴な男と評される男だったのだ。

その卯景が穏やかになっている等誰が信じるだろうか。


「今はあの掛け軸の教育されている最中でして…しかし感謝しています、あの掛け軸が来なければ私は自分の事を知らず、そしてお由利を失っていました」

「それは…」

「もしあの掛け軸を描いた人と会う時伝えてくれませんか、あなたのおかげで俺は変われましたと」


憑き物が落ちたという顔をして話す卯景にこの家はもう大丈夫だなと他人ながらに邦吾は思った。

恐らく何かあればまたあの掛け軸が動くのだろうと。


「…まぁ一つ問題があるのなら、妻があの掛け軸に恋してるのでどうやって好意をこちらに変えることですかね」

「…えぇっ掛け軸に!?」



この後経緯を軽く聞いた邦吾はそれはすごいと思いながらも掛け軸の彼女への献身ぶりからこの卯景という男の戦いは長引きそうだと察しそっと応援はしておくのでした。

また人間でいうなら掛け軸の姉の位置になるだろう桜の簪の美女を知る邦吾は美男ならば相当整った顔なのだろうと一人思うのであった。



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花衣屋に戻った邦吾は掛け軸のその後の話を大旦那に報告すると妻の入れたお茶を飲みながら今日聞いたことを思い返していた。


月は店を繁盛させ店主二人の幸福を招き


老婆は凍った心を解して明日への希望という光を与え


渓谷の山は苦難するものを癒し、また人が変える切っ掛けを作った



掛け軸という作品がこんなことを起こすとは普通なら考えられないが『天野 宗助』という職人が作ったならばそれは仕方のないことと思うのである。


「…………」

「邦吾さん?どうしたのですか?」

「お澪…いや、今日あの掛け軸を買った人の所に行ってきたんだが…やはりまたあの人の作品は人を変えていたよ」

「まぁ!それはいいことではありませんか!」


確かにと思いながらもそこに慣れていいものかと零せばお澪はそんな職人と出会えたことが奇跡なんですよと返したのでまた確かにと頷いた。

その時ふとあの大きな屏風の事を思い出した。


あの家で見た白い狼の屏風。

大きな白い狼はまるで神の使いのように美しかったがそこでまたふと気づいた。

…宗助はその屏風を完成したら知らせる等言ってなかったと。


字が特殊な字を書く宗助はあまり文を出したがらないが簪がある程度作るとまた知らせると言葉をくれて村長から文が届くのでそれを合図にしてあの山に訪れるのだが屏風の際は特に知らせるという言葉を言っていなかった。


「もしやその屏風は本人がこの店に直に持って来ようとするのではあるまいな」


この考えが頭を過って思わず言葉に出た時、邦吾の考えを読んだのかお澪の頭の上にある桜がはらはらと落ち着きなく花びらを出しているのに気づき彼は慌てて大旦那の元へ走った。

お澪は突然桜が忙しなく舞うことに混乱しているらしい。


「まずいっ、これは大変だ!!」

「旦那様ぁ!?桜は、一体どうしてこんなに…」

「桜も気づいてしまったんだよ!大旦那、大旦那ぁえらいこと気づいてしもうたぁ!!」


もし、くるのならば大変だ。

この店にくるならば出迎えは勿論だが店にある作品達が静かにしないかもしれないと桜の花簪を見て確信する。

だってこの常和には彼の作品が掛け軸だけでなく簪も含めてたくさんあるのだから!

何よりあの義晴様が黙ってないと彼はそこが何より怖いと大旦那の元へ駆けたのであった。


彼の慌てように驚く店の者を後目に彼は大旦那を探しに店を駆け回ったのであった。



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ある日の新緑の山の中の屋敷の縁側にて。


老婆とお茶を楽しむ青葉に老婆の掛け軸 お菊がふと聞いた。


「青葉、あなたあのお由利さんを連れ出してやると言ってたけどどうするつもりだったのかしら?」

「ん?」

「私達は掛け軸だから何処かへ連れ出せないのにお由利さんを連れ出してやるなんて卯景殿に言ったのでしょう?満が聞いてたそうよ」


青葉はあいつめ…と悪態をつき、お茶を少し音を立てて啜るとじっと答えを待つお菊に向き合った。


「確かに俺は()()()()ことは出来ませんがここに()()()ことは出来ますから」

「…それはどういうことかわかってるのね?」

「勿論ですとも」


不敵に笑う青葉にお菊は呆れたような顔をするがそこまで惚れ込んでいたかと感心はした。

青葉はいざとなればお由利をこの掛け軸に住まわせ永久の時を共に生きようとまで考えていたのだと言ったのだ。

それは彼女を作品の一部にする行為であり、かなりの力を使うと共に彼にとって運命共同体になるのだが彼はそうしてでもお由利を救おうとしていたのだとお菊は悟った。


「お前の愛は随分と重い愛のようだねぇ…」

「何をいうか、初めての恋慕だからこそ大切にしたかったのさ…でも俺はお由利殿を人の理から外させたいわけではない」

「そうするつもりだったなら私も満も三日も全力で止めていますし、最悪刃龍の兄上達に尽力を願っていましたよ」

「おぉ、怖い怖い…」


肩を大げさに竦める青葉にお菊はやれやれと首を振るが卯景殿がいい選択をしてよかったと内心安堵した。

何故なら青葉は本当にあのままお由利を泣かせ苦しめる環境のままなら本当に実行したであろうことが彼の性格から姉としてわかっているからだ。


「お由利殿が人として幸せになるなら俺は全力で支えるよ」

「卯景殿の頑張りに期待だねぇ…」


掛け軸の中で姉弟は語る中で二羽の兎が団子を手にやってきたので茶会は続く。

しかし話題は先ほどと違い最近の持ち主達の話題に変わり和やかに時は過ぎていったのだった。




「ところでどこに惚れたんだい?」

「…あの時おこう嬢に見せた微笑みが美しかったのさ」

「なんだ一目惚れだったのかい」


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Wiki 天野宗助 作品

名品 掛け軸 渓谷の窓


天野宗助が描いた掛け軸 始まりの三作の一つの作品。


現在 雲江家が所有。

雲江家にて代々受け継がれてきた掛け軸であり天野宗助が絵師として初めて世に出した掛け軸の一つ。


新緑の美しい渓谷の山が描かれている。

この作品は天野宗助が故郷の山を思って描いたのではとされる山だがどの山をモデルに描いたのか未だ特定がされていない。

当時、雲江家の奉公人が雲江 卯景の妻 由利は虐待に近い暮らしをしておりその由利を哀れんだ奉公人達がすこしでも拠り所となるようにと花衣屋から購入したとされている。


疲労していたお由利の前に山のような新緑の着物を着た美男子が現れた。美男子は青葉と名乗り彼女を自身の山へ誘い彼女の心を癒したとされる。


青葉はかなりの美男子として幾つかの逸話があり、持ち主を守るために姿を現すこともあるようで幕末時代の頃に見目麗しい令嬢に持ち主の少女が婚約者を寝取られ泣いており、二人が公開の場で彼女を貶めようとしてところに姿を現して不貞を働いた令嬢と婚約者を責めたあと彼女を腕に抱きあげて去っていったがその光景に見ていた娘達は頬を全員赤らめて見ていたと記録がある。

※その後兄弟分のある作品に依頼して良縁を結んだ為その少女はいい旦那に出会って幸せに暮らしたとされている。


またある時代では病弱だった次男を自身の山に連れていき療養もさせたという逸話からかなり世話焼きとして有名だったのだが実は最初の持ち主であるお由利に恋慕を抱いており、そのお由利の家族の力になることは周りに回ってお由利のためになると思っていることがその次男の手記から見つかり今でも恋慕を抱く彼女の血を引く子孫を献身的に守っているということから掛け軸の悲しくも健気な愛の話として様々な舞台で取り上げられる。




次回からはまた宗助が出てきます。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] お林さんは義母の姉なので、おばを漢字で書くと叔母ではなく伯母になります。 伯母=母の姉 叔母=母の妹 ですので。 [一言] 掛け軸3部作、お疲れ様でした。 次の話を待ってます。
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