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第11章 掛け軸 慈愛の母

今回も宗助出ません。


清浄国 常和の地


代々月ヶ原家に仕える武家の一つ轟山(とどろきやま)家。

この轟山当主である導十郎(どうじゅうろう)という青年は真面目で冷静な男で仕事も優秀で見目も整っているのだが無表情で全く笑わない。そのため鉄面の導十郎と呼ばれているが本人は全く気にしていなかった。

仕事をして家で風呂食事睡眠をしてまた仕事へ…日々この繰り返しであった。


今日も無表情で仕事に行く導十郎を母 お嘉良(から)は悲しい顔をして柱の陰から見ていた。

仕事に真面目なのはいいが趣味を全く持たず、友らしい友もおらず、また良い仲の女もいない…見合いをしてみても無表情すぎて気味が悪いと破談になることも多いため婚約者もいない…。


昔は笑顔の可愛い子だったのにと袖で静かに涙を拭いながらも、あんなことがあっては仕方のないことかと嘆いていた。



昔、導十郎がまだ幼く十にもならぬ年の頃…。

導十郎は笑顔をよく見せ溌剌とした男の子であった。近所でも元気な笑い声が有名である程に笑う子であったのだ。

だがその笑顔は仲のいい近所の年上の女性に襲われ、強姦をされたせいで消えたのである。

悲鳴も上げられず、無理矢理された彼はいつも聞こえる笑い声が聞こえないと異変に気付いた近所の者に探され、助けられたがその事件以降導十郎の顔はまるで凍ったように動かなくなった。


信頼していた女性にあんなことをされたこともあるが、件の女性は導十郎の笑顔が可愛いかったので自分のものにしたかったと奉行所で語り、それを動機であると知った導十郎はさらに表情を無くしてしまったのだ。

自分の表情があんなことを起こしてしまった原因なのかと。



「少しでもあの子の笑みがまた見たい…また笑ってほしい…」


彼女が導十郎の笑顔を最後に見た記憶は事件に会う前に遊んでくると言って屋敷を出た幼い導十郎の顔だ。

あの日以来お嘉良は導十郎の笑顔だけでなく怒る顔も泣く顔も見ていない。

導十郎の顔はすべて無の顔なのであった。


「はぁ…せめてあの子が安らぐものでもあればいいのだけど…あの子にこれといった趣味はないし…」


香りのいい香や着心地の良い着物、有名な刀鍛冶の刀等彼が心を動かされるものや安らぐものはないかと長年探していたお嘉良は全く効き目がなく最近ではもう打つ手がないかもしれないと母として息子に何かしてあげたいのに出来ないと嘆いてるばかりであった。

そんなお嘉良に長年仕える奉公人の一人であり彼女の友人でもあるお亀がそういえばとあることを思い出したのであった。


「最近花衣屋という店に福を招く簪があると聞きましたよ!」

「…あの子は簪はしないわ」

「お嘉良様にですよ!もしかしたら福を招いてくれるかもしれません」


お嘉良は確かに最近は悩んでばかりであまり外に出てないこともあるが、花衣屋といえば夫側の親戚の娘がその店で一目ぼれしたと簪を見せに来たことがあったと思い出した。

美しく、品のいい藍色の蝶々の簪でつけてから外を歩けば綺麗な蝶がよく見れるようになったのだと話していた。

その顔はとても美しく見え、女性になったからかもしれないが蝶々の簪の力もあったのかもしれない。


「そうね、一度行ってみるのもいいわね」

「では本日予定はありませんし早速行かれますか?」

「えぇ、行きましょう」


お亀はすぐにお召し物のご用意をしますというと部屋を出た。

お嘉良は外行きの着物に着替えると散歩も兼ねているのでお亀とゆっくりと歩いて大通りの花衣屋へ向かうのであった。


大通り近くの茶屋からみたらしのいい匂いがしたので必ず帰りに寄ろうと静かに決めながら花衣屋まで歩いたお嘉良は店へ入る際に人の多さに少々驚いた。

若い女性が簪を目的にしているのはわかるが意外にも男性も簪を見て、購入をしているのだ。

求婚に使うのかしらと今の息子には程遠い恋の気配に女として小さく心の中で応援する。

女性はいくつになっても恋の話は好きで敏感なのだ。


「お嘉良様、我々も品物を見ましょう…見ていたいのはわかりますが」

「あら、ごめんなさい…でも確かに素敵な簪ね…可愛いらしくもあり美しい」

「…天野宗助という職人の簪だそうです」

「天野?聞いたことない苗字ね…清浄国では珍しいお名前なのかしら」


天野と苗字があることに驚くが天野という苗字は昔から武家にいるお嘉良でも聞いたことがないと首を傾げた。

もしや山の方面にあるお名前なのかと考えるが店の中であることから考えを止め、商品を見る事に集中した。


「聞いたことない職人だけれども…なんて精巧な作りなの…あら?あれは何かしら」

「お嘉良様?」


お嘉良は視界の端に見えた掛け軸に目を向け近づいた。

そこには渓谷の絵が美しい掛け軸と老婆の描かれた掛け軸があったのだ。

お嘉良は二つのうちの片方の掛け軸 老婆の掛け軸をじっと見つめそして驚いた。


「この掛け軸、お母様そっくり…」

「確かに、特に優しく微笑むお顔が先代様によく似ておられますね…」

「本当に優しい人だったの…」


お嘉良は自分の母によく似た掛け軸を見ながら在りし日の母を思い出す。

よくこの絵のように縁側に座り、お嘉良が庭で遊ぶ姿を眺めていたこと。

悲しいことがあって泣いていると膝枕をしてくれて泣き止むまで頭を撫でてくれたこと。

悪いことをしたときは怒鳴るのではなく優しくいけないことだと説き、良いことをすれば花がほころぶような笑顔で頭を撫でてくれたことを。

弓の腕がそこらの侍よりも高く若い頃は弓姫と呼ばれ、お嘉良の父も弓で負かしたのだと話してくれたことを。


「お母様…」

「お嘉良様…え、お、お嘉良様!この掛け軸の値段を見てください!!」

「え?…え、こんなにいい掛け軸なのにこの値段なの…?」


お亀はお嘉良の母に似ている掛け軸がとてつもない程に安く売られていることに悲鳴を上げそうになるが、お嘉良は母に似ていることもあるが優しく微笑むこの掛け軸は彼女の目から見てもかなり出来がいいのにこの値段なのかと驚いた。

老婆の来ている淡い翡翠色の着物は美しく、人物もまるでそこに実在している程によく描かれているのだからだ。


驚く二人に花衣屋の店の男が共感するように頷きながら、苦笑して声をかけた。


「あー…そちらのお値段なのですが…」

「や、安すぎないかしら…?着物の色も素敵なのに…!」

「素人が見てもこの掛け軸はこんなお値段で売られていいものではないとわかりますよ!?」

「いえ、我々もよくわかっています…が、絵師の方のご希望なのですよ」


花衣屋の男はこの掛け軸達は簪の職人が描いた物で絵師としての実績はないので最低価格から始めるのが筋だとこの値段での販売になったと告げると二人は確かにそうなのかもしれないが…と筋は通っていると納得したがやはりこの値段であるのが不服な顔をした。

店の男はそんな二人に笑みを返し、今日はどういった商品を探しているのかと聞いた。


お嘉良はその質問に自分は気晴らしにきたのだが…もし凍てついた息子の心を癒し、解いてくれるものがあればいいのにと心の中で呟いたが店の者に言う訳にもいかないしとどう返そうかと悩んでいた。

あぁ、お母様…私どうすればいいのかしら、こんな日常的な質問にも返せないなんてと…俯きそうになるお嘉良に声が聞こえた。


≪あらあら、それは大変…なら(ばばあ)が力を貸さないとねぇ≫


「え?」

「お嘉良様?」

「今…声が…」


何処からか声が聞こえた。それは母の声に似ているとお嘉良は思った時、彼女は手が老婆の掛け軸に伸びていた。

お嘉良は自分が伸ばした手に驚いたが不思議と老婆の掛け軸が欲しいと思ったのでそのまま店の男に向かい口を開いた。


「この掛け軸を頂けるかしら」





掛け軸を購入し店から戻ったお嘉良は丁度屋敷に帰ってきた導十郎を呼んで掛け軸を見せた。

掛け軸を見た導十郎は軽く目を開くが表情はほとんど変わらなかった…がほうと感嘆の息を吐いたのをお嘉良は聞いた。


「老婆の掛け軸とは珍しいものを買いましたね、着物が美しい色です」

「それもあるけど、私のお母様…あなたのお婆様によく似てるのよ」

「…私の、お婆様に?」


自分の祖母によく似ている掛け軸と聞き先ほどよりもじっと観察するように見始めた導十郎の姿に流石に祖母のことが気になったのだろうとお嘉良は久々に笑みを浮かべる。


「お婆様はね、お優しい人でこの掛け軸のような笑顔だったの…」

「そうなのですね…」

「えぇ、とてもお優しい人だったわ…これは居間に飾りましょうね、お婆様がこの家を見守ってくれる気がするわ」


母がそうしたいならばと導十郎は反対せず頷けば、お嘉良は早速飾り母との思い出を掛け軸を見ながら思い出していた。

導十郎はそんなお嘉良を眺めながら祖母が生きていればどんなお方だったのだろうかと考えるが…もう出会えることがない人をあれこれと想像するのもどうかと思い母が楽しいならばいいかと茶を啜っていた。

その後に帰ってきた父も掛け軸を見て義母に似ていると話したことから二人で思い出を語り合うので長くなりそうだから先に寝ると導十郎は部屋を出たのであった。



導十郎は眠りにつくと、見知らぬ縁側に座っていた。

日当たりがよく、美しい庭園が目の前に広がっている場所を全く導十郎は見覚えはない。


「ここは…?」

「あら、もうここに来たのね」

「誰だっ………っえ!?」


知らぬ声に声を掛けられ、警戒心を露わに声する方を見ればそこにはお盆を持った老婆がそこにいた。

導十郎は老婆がいたことも驚いたがその老婆が先ほどまで両親と見ていた掛け軸の老婆に瓜二つだったからだ。

老婆は導十郎の隣に座るとお盆の上にあった急須と湯飲みを並べだした。


「随分早く寝るのねぇ、でもいいことだわ」

「お、お前…掛け軸の、いやそれはないあり得ない…」

「まぁまぁ落ち着いてちょうだい…ほらお茶を飲んで」


ぐるぐると思考を巡らせる導十郎に老婆は急須から湯飲みにお茶を入れると香ばしいお茶の香りに導十郎は心が少し落ち着いて肩の力が抜ける。導十郎は見知らぬ老婆に警戒していたのだが力が抜けた際にその警戒心は消え、ゆっくりと自然な動きで湯飲みを受け取ってしまった。

渡された湯飲みにはお茶が入っておりお茶の温もりが程よく伝わり導十郎はお茶を一口飲んで驚いた。すごく美味かったのだ。


「美味い…」

「ふふふ、婆のお茶は兎さんにも太鼓判を押されたのよ…さて導十郎、落ち着いたかい?」

「あなたは一体…それにどうして俺の名を…」


先ほどよりも落ち着いて話をする導十郎に老婆は優しく微笑んだ。

陽だまりのように温かい微笑みになんだか不思議と導十郎の中で警戒は消えていたのもありなんだかここは心地がいい気がすると表情が少し緩んだ気がして慌てて顔を強張らせた。


「私はあなたの母君が買った掛け軸です、あなたを心から思うお嘉良様からあなたのことを聞いたのよ」

「母上が…」

「えぇ、なので導十郎をここに連れてきたのよ、この夢の中でならあなたも安心して笑えるでしょう?誰もここにいないのですから」


導十郎は目を見開いて老婆の顔を見た。

なぜと声に出なくも口が開けば老婆はそっと急須が置かれたお盆を後ろに下げて彼の頭を撫でた。


「ここは婆しかいないわ、だから笑っていい、泣いてもいい、怒ってもいい…あなたが本当の自分を出してもいいの」

「…本当に?」

「もし怖い人が来たら婆が追い返すわ、だからもうそんなに顔に力を入れなくていいのよ」


老婆にそう言われ、強張らせていた顔はすこしずつ緩んでいった。

眉と目じりはすこしずつ下がっていき一の形をしていた口は端がすこしずつ上がっていく、彼の目はあふれる涙に耐えきれず目の端から涙が零れ落ちていった。

まるで導十郎が長年ため込み表に出さなかった分の感情が全て目へ流れている様にとめどなく涙は落ちていったのだった。


「よく頑張ったのね、こんなにため込んで…」

「俺は…ずっと怖くて…またあんな事になったらどうしようって…」

「えぇ、怖かったから…我慢してたのね」


導十郎は多くの涙を流しながら老婆に縋りつくように頭を撫でる手の着物の袖をつかんだ。

はらはらと涙が落ちるが拭うことはなく、老婆は導十郎の頭を撫でていたが彼の顔が徐々に俯いていくとその頭を膝に乗せて頭をまた撫で始めた。

導十郎は老婆の膝に顔を埋めて涙を未だ流す。彼は自分でこの涙を止められない、何故なら導十郎は涙の止め方を忘れてしまったのだ。


「あらまぁ、涙の止め方が分からないのね」

「あぁ、ずっと涙が出てくる…どうすればいい…?」

「今は止めなくていいのよ、流せなかった涙が今出てきてるのね…ここでいっぱい涙をお出しなさい」

「わかった…」


導十郎はまるで祖母と共にいるような心地になったのだった。

だから導十郎は安心して老婆の膝に頭を乗せながら涙を流し続けていた。


「(あぁ、温かい…もし祖母がいたらこんな風に撫でてくれたのだろうか…)」


温かい陽だまりと老婆の膝の上に導十郎は胸が温かくなり心が落ち着いていくのか力が抜けていった。

そして涙を久々に流したせいで疲れたこともあり導十郎はそのまま眠るように目を閉じた。


「導十郎、また夢で逢いましょう…それと起きたら顔を洗って、水にぬらした布で目を冷やすのを忘れたら駄目よ」





朝日と雀の声で目が覚めた導十郎は体を起こすが目に違和感があり触れる。

目元は濡れていて少し腫れていると気づき、夢の老婆を思い出した。


「夢?それに目が…そうか泣いたのか、俺は…」


導十郎は思い出す。

日当たりのいい縁側に老婆がいて美味しいお茶を飲ませてくれたことや、その老婆の前で泣いたことを。

そして膝枕をされながら眠ったことを思い出して元服した男がされるとはと少し恥ずかしいと思いながらも優しく撫でられた手が心地良いものだったなと笑みを少し浮かべた。


≪起きたら顔を洗って、水にぬらした布で目を冷やすのを忘れたら駄目よ≫

「そうだ、顔を洗わないと…」


導十郎は老婆が最後に言っていた言葉も思い出し、顔を洗いに井戸まで向かった。

数年ぶりに涙を流したので言われた通りに目を冷やすように水をつければひんやりとして心地がいいと目を細めていれば井戸に向かい彼以外もやってきた。目を彼と同様に腫らした母のお嘉良であった。


「あ…母上…」

「導十郎?どうしてこんな早く、導十郎…?どうしたのその目は!?そんなに腫れて、まるで泣い…導十郎、お前泣いたの?」

「あ、いや…」

「あぁお母様っ…!お母様の言う通りだったのね…!!」


お嘉良は昨夜の導十郎のように涙を溢れさせるとしゃがみ込みポロポロと涙を流した。

導十郎は驚いてお嘉良と目合わせるため自分も膝をついてしゃがめば彼女は導十郎の顔を手で優しく包みながら昨晩あったことを話し出した。


自分の夢にお嘉良の母が出て導十郎をまかせてほしいと言ったこと、気を張っていたお嘉良を抱きしめて頭を撫でてくれたのだと。

そして導十郎は今はまだ外で表情を変えるのが怖いのだと。


「今までお前は表情を出せなかったのではなく出さなかったのだと教えてくれたのよ…あの時のことがまだお前の心を深く傷つけ、癒されていないと…」

「…私は怖いのです、またあのような事件が起きてしまうのが」

「えぇ、そうね…」

「だから私が顔を、表情を出さなければ母上にも父上にも被害は出ないと…ずっと顔を動かさないようにしていました…」


導十郎が目を伏せながらそう言うと二人は物陰から現れた者に突然強く抱きしめられた。

二人を抱きしめたのは導十郎の父で彼は涙を流しながらきつく二人を抱きしめていた。


「導十郎…、すまなかった!私はそんなことも知らずにお前に少しは笑えなどと…!!」

「父上…!?」

「起きればお嘉良が横にいなくて探していたら盗み聞きしてな…導十郎、あの一件がお前にそこまで強く恐怖を抱かせていたのか」

「こんな理由、男として情けないでしょう…、申し訳ありません」


謝る導十郎の父は首を横に振り、お嘉良もそんなことはないと告げた。

幼い導十郎にとってあの事件は心に深く傷を作る程のものであったのだ、それを咎めるなど二人は出来るはずなかった。


「お前がまた笑えるように私も力になるぞ!義母様に頼りっきりにするわけにいかないからな!」

「父上…」

「えぇ、そうね…これはお母様がくれた変える切っ掛けだわ…導十郎だけでなく私達も頑張るのよ」

「母上…」


こんなにも自分は心配されていたのかと導十郎は驚きながらも嬉しくなり、自然と目の端から流れた涙を止めることはしなかった。

突然涙を流したことに両親から驚かれ、喜ばれた時に彼はもし笑顔を見せたら二人はもっと喜んでくれるのだろうか、ならば頑張って笑ってみようと彼は心に思うのであった。


そんな導十郎の様子を居間から見ていた掛け軸の中で老婆は優しく微笑んでいた。







そして数日後。

朝に中庭で素振りをする導十郎に朝餉の準備へ向かうお亀が声をかける。


「おはようございます坊ちゃま」

「…おはよう、お亀さん」

「はい…今日は少し笑えてますよ」

「!、…そうか」


竹刀を手に挨拶した導十郎は口の端が少し上がり微笑んでいた。

お亀はその顔に嬉しそうに目を細めて告げれば導十郎は目を見開いて喜び、少しでも笑えていたとわかり竹刀を握りしめて素振りを再開する。

その顔は少し嬉しそうにしておりお亀は今日はお魚が出す予定だと告げて厨へ向かった。


あの日から轟山家は導十郎の表情を出す特訓が始まった。

まず両親達はお亀や轟山家に仕える者達や親交が昔からある家にこの訓練の協力を願い出た。これは導十郎が笑えているか等見てもらうためであり、安心して表情が出せる雰囲気を作ってもらうためである。


頼んだ全員は導十郎のためと快諾し。少しでも表情が変われば喜んで導十郎に出来ていたと教え、出来ていなければにっこりと笑ったり等して見本を見せる光景がここ最近導十郎の近くで行われていた。

それを見ていた近所の者達も参加して今では導十郎の仕事場である城内でも行われることになった。上司である河原玄三郎からも見本だと笑顔を見せられた時は導十郎は初めて困惑の表情を見せたという。


そんな暮らしの中で導十郎は自分が表情を少しでも出すと自分のことのように喜ぶ両親やお亀、そして友人や周りの人達に自分の中に残っているあの時の女の顔がすこしずつ消えていき、顔が解れていくのを感じていた。

特に夢の中であの老婆に会っている時は安心し、顔の力は完全に抜けて笑顔を老婆に見せることがあった。


何故ならば導十郎はあの掛け軸の老婆を自分の祖母のように思い、お婆様と呼んで慕っていた。

その老婆は色んな知識を教え、優しく語りかけて時には導十郎を優しく包んでくれる等導十郎を孫のように接していた。それが導十郎の恐怖で凍っていた心をどんどん溶かしていったのだ。




「おはよう導十郎」

「おはようございます母上」

「そろそろ訓練は切り上げて準備なさい、私はお母様に挨拶してから行くわ」

「はい」


にこりと微笑んで返事する導十郎の顔にお嘉良は眩いものを見たかのように目を細めて歩きながら自分のことのように喜んだ。

以前のような笑顔はまだ出来ないが少しずつ笑顔を見せている導十郎の姿を見れるなんて少し前までは考えられなかったのだから。

そしてその切っ掛けをくれた居間に飾った掛け軸にお嘉良は手を合わせる。


「おはようございますお母様…本当にお母様のおかげだわ…導十郎だけじゃない、私も旦那様もこの屋敷の皆も変わったのだもの」

「お嘉良様、おはようございます」

「お亀、おはよう…あなたもお母様に?」

「はい、今日夢に出てきてくださいまして…本当にお優しいお声でした」


お嘉良やお亀等のお嘉良の母を知る者達はこの掛け軸の老婆はきっと先代がこの家が心配で掛け軸になって来たのだろうと本気で思っていた。

何故なら顔も、声も、仕草も振る舞いも全てが先代そのものだったのだから。

お嘉良は掛け軸になってもこの家を見守ってくれる老婆…母に深く感謝していた。


「実は今日は先代様に叱られたんです」

「お母様に?」

「ふふふ、導十郎坊ちゃんが日に日に笑ってくれるのがうれしくて、夜なべして色々作っていたんです…そしたら嬉しいのはわかるけど無理しては駄目だと…久しぶりに叱られました」


叱られた、そういうお亀は不貞腐れているのではなく嬉しそうに笑っておりその顔を見たお嘉良は相変わらず周りにも目を広げ気に掛ける方だと見習わなくてはと彼女も笑った。

夫も時々共にお茶をするんだと話し、あれを話したこれを話したと楽し気にお嘉良に報告する夫を彼女は可愛く感じながらそう言えば二人は仲が良かったなぁと思い出すこともある。


そして導十郎の変化がお嘉良には何より嬉しかった。その変化の証拠になんと先日に初めて早く終わった仕事の帰りに団子を買って帰ってきたのだ。

曰くお婆様がおすすめするお茶屋の団子なのだといい、団子を食べた導十郎は楽し気に、美味しい美味しいと頬張る姿を見せ両親だけでなくお亀達奉公人も驚かせた。


掛け軸一つでこんなにも楽しく明日が楽しみになる日常が来るなんて思わなかった。

お嘉良は何故母の姿をした掛け軸を描いたかは謎だが描いてくれた職人 天野宗助という職人に感謝し、噂は本当であったのだと思った。


『天野宗助という職人の作る物は何かが起こる』


「えぇ、起こりました…とっても素敵なことが」

「お嘉良様?」

「いいえ、独り言です…さぁ早く朝食の準備しないとね」

「はい!」


今日も素敵な一日になりますように!そう最後に掛け軸に祈ったお嘉良はお亀と部屋を出て厨へと向かっていった。



≪大丈夫、今日も素敵な一日になるわ≫



老婆が掛け軸からそう声をかけ、お嘉良はその声が聞こえて振り返り笑顔を返した。

今日もお嘉良は今日起きることを楽しみに笑うのであった。











ある日、轟山家に花衣屋の商人が訪れた。

邦吾と名乗った商人は天野宗助の作品が買われた後どうなったのか様子を見に来たという。

老婆の掛け軸があった店であるため家の中に入れ、居間にて対応した導十郎が何故様子を見に?と聞けば少し苦笑しながらあの方の作品は必ず何か不思議な事を起こすのだと話した。


「その不思議なことが私の妻も起こりましてね…もしかしたらここでもと」

「なるほど…確かにあの掛け軸はことを起こした、だがとても素敵なことだ」


微笑んでそう語る導十郎に彼の噂を聞いていた邦吾は驚きはしたがすぐに老婆の掛け軸はいいことをしたようだと確信し安心したように肩の力を抜いた。



「あぁ、そうだこれつまらないものですが」

「!、ここの茶屋は俺も家族も好きだ、ありがたく頂く」

「それと…兎がこれを婆に渡してほしいと…」

「兎?…あ!なるほど確かその店の掛け軸はお婆様の…いえ、同じ職人の作品でしたな」


納得するように小さな包みを受け取ると導十郎は掛け軸の前に置いた。

元の場所に戻り、座り直した導十郎に邦吾は掛け軸はいいことしたようだと再度確信し笑みを深めた。


「この掛け軸がここでうまく暮らしているようで安心しました」

「天野宗助職人の作品のことは聞いていますぞ、城内でも有名ですから」

「それは月ヶ原様が惚れこんでますからなぁ…河原家の河童の像の話も最近では有名です」

「ふふっうちでもお婆様の掛け軸は守り神のように敬っていますよ…邦吾殿」


導十郎は姿勢を正し幸せそうに微笑む姿に邦吾も姿勢を正せば彼は掛け軸を一度見て邦吾へ向き直った。


「もし、天野宗助職人に会ったら礼を伝えて頂きたい…あなたの描いた老婆は我々家族を幸せにしてくれた優しく素晴らしい掛け軸だと」

「…えぇ、必ず」


そう答えた邦後は少し話をすると轟山家を出た。


「最後は渓谷の掛け軸…これは雲江家の奉公人が買ってたな」


雲江家には悪い噂があるため不安そうな顔をするが天野宗助の作品のことは気になるし…と雲江家の屋敷のある方へ進むのであった。



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数日前の夢の中にて…


涙を流しながら老婆の膝に顔を埋めて眠る導十郎を老婆は優しく頭を撫でた。

その顔は導十郎の頭を撫でる手つき同様に優しい笑みを浮かべていた。


「まぁまぁ、随分涙を貯めていたのね」


よしよしと撫でる老婆は導十郎が眠ってから庭に突如現れた黒い靄に導十郎に向けていた優しい目ではない冷たい目を向け、静かに導十郎を守るように彼の頭に手を添えた。

その様子を見た黒い靄は怒るように揺ら揺らと蠢いていた。


「まだあの女子はこの子を思っているのね…それも歪んだ愛で」

「(唸り声のような言葉のようなものを発している)」

「…この子には手を出させません、失せなさい」


黒い靄はまるで激昂したように唸り声をあげると老婆に向けて飛び掛かる。

爪なのか棘なのかわからない鋭いものを老婆に向けるが彼女はおびえることなく黒い靄を睨んでいた。

しかし黒い靄の鋭い何かは老婆に届くことなく真っ二つに切断された。

それは老婆によるものではなかった。黒い靄を斬ったのは黄緑の着物と茶色の袴の貴族の恰好をした美しい顔をした男であった。



「無茶をなされるなお菊殿!!」

「まぁ青葉来てくれたの」


のほほんとした答えに青葉と呼ばれた男は全く貴方という人はと肩をすくめる中で男の背中から二羽の兎が飛び出し黒い靄に同時に蹴りを入れて吹っ飛ばすと華麗に着地した。


「私達もおりますよ」

「婆さん無茶は駄目だぜ」


二羽の兎は導十郎の無事を確認すると雄の兎は杵を持ち青葉の隣に並び、雌の兎は老婆の前に守るように立つ。

黒い靄は起き上がる動きをすると怒りを表すように激しく蠢き始めた。


「こりゃまたすごい生霊だな、とんでもない執念だ」

「長年この子に憑いていましたものですからね…捕まっても反省はしていないようですが」

「女の執念は蛇のようにしつこいものです、が…これは相当な上に歪んでいるので更に質の悪いものです」

「ミカ殿ははっきり言われるな…しかし私もこんなにしつこい女子は勘弁です」


言いたい放題な二人と二羽に黒い靄は怒ったのか獣のような声を出してまた突っ込んで来ようとするがその前に雄の兎が上から杵を振り下ろし、青葉が続いて上下半分に分けて斬った。強い衝撃からの斬撃に黒い靄は耐えきれず切られた箇所から体を崩しながらも導十郎に向けて手のようなものを伸ばすがその前に矢がその手を射ちぬいた。


「私の孫を苦しめたものにこの子は渡しませんし、ふさわしくありません」


お菊の言葉に黒い靄は悲しげな声を出しながら塵になって消えていった。


「流石この国で弓姫と名を知られたお人ですな」

「俺ら要らなかったかねぇ?」

「いいえ、私一人では時間がかかったかもしれません…助かりました」


お菊の言葉に青葉はならよかったと刀を納めると笑みを浮かべた。

二羽も嬉し気に飛びながら眠っている導十郎の顔を覗き込む。


「長いこと恐怖の感情を植え付けられていたみたいね…可哀想に…」

「でももう元凶は倒したからな、笑顔も出来るだろうさ!…時間はかかるだろうが」

「それは周り次第ね、でもあの女子はまた来るでしょう…何とかせねばなりません」

「今は見守りましょう…互いに今は忙しいですからな」


その言葉に二羽は杵を叩き、青葉は楽し気に微笑んだ。

その様子にお菊は彼等もどうやら仕事をしているようだと察し、互いに頑張ろうと頷いたのであった。


三日(みか)(まん)はお茶屋さんを、青葉はあのお嬢さんを…そして私は可愛い孫と娘のために頑張らないとね」

「…孫のためとはいえ己の魂を変えて父上の作品になったお菊殿もすごいお方だ」

「強い母の愛ですよ、愛はつよしです」

「その愛も姿が変わればあんな生霊になるまで歪んじまうなんて…人間は大変だな」


やれやれと首を振るマンと呼ばれた兎と頷く一羽と一人にお菊は上品に笑う。


「ふふっ、だからこそ心配になって宗助様の絵に宿って来たのよ、この家の者は皆厄介な者に好かれますからね…でも掛け軸になってよかった」


お菊は優しい目で彼らを見て笑みを深めた。


「こんなに素敵な兄弟が出来たなんて嬉しいわ」

「俺が兄さんだからな!」

「あんた!…私もですよお菊」

「姉上…私もです、貴女と姉弟になれたこと嬉しく思います」


二人と二羽の兄弟達は笑い合うと夜が明けてきたことに気づき、二羽と一人は元の絵へと戻っていったのであった。


「今度皆で新緑の方へ遊びに行こうかしらねぇ」


絵の中の温かい日差しを受けながらお菊はそうこぼし、目が覚めたため消える導十郎の姿を見て微笑んだ。


「さぁ、ここからが根気がいる仕事ね」


彼女は導十郎のいたところに娘の姿が現れたのを確認し、優しく微笑んだ。



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Wiki 天野宗助 作品



名品 掛け軸 慈愛の母


天野宗助が描いた掛け軸 始まりの三作の一つの作品。

現在 轟山家が所有。


轟山家にて代々受け継がれてきた掛け軸であり天野宗助が絵師として初めて世に出した掛け軸の一つ。

日当たりの良さそうな縁側にて老婆が優しく微笑む姿が描かれている。

この掛け軸は轟山家のある代の当主の奥方である菊という女性の晩年の姿によく似ていると娘の嘉良が購入し、孫である轟山 導十郎の消えた笑顔を蘇らせたという逸話がある。


また轟山 導十郎の婚姻の切っ掛けにも立ち会い、導十郎の背を押したという逸話もある。


轟山家並びに親交のある家の者は老婆に会い、話をしたり茶を飲んだりする夢を見ると話す。

悪いことをすると優しく諭され、苦労をしたりすごく頑張ると沢山褒めてもらえたり等優しい祖母のような存在となっており、ある年に轟山家の男児が反抗期になった際に老婆にだけは本心を全部伝えたり甘えたり等していたらしく特に轟山家での老婆の信頼は厚く大きな存在と今も語られる。


また大きな災いが近づくと夢に出て伝え災いに備えるよう用心させたり、嘉良の夫が病魔に苦しんだ際に励まし、病魔を弓で祓う姿を夢でみたと話す等轟山家を代々守っているため老婆を守り神であるという者もいる。


轟山家の一族はこの掛け軸の老婆は轟山 菊が掛け軸の姿になって轟山家を見守っているのだと信じ、お婆様と呼んで慕っている。



※轟山 菊は弓の腕がよく若い頃はその腕を見込まれ害獣退治にも呼ばれ猪の眉間の真ん中に矢を射抜き仕留めたという。そのため当時は常和一の弓の名人として知られ『常和の弓姫』と菊は呼ばれていたという。



次回で始まりの掛け軸の話は終わりです。


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