第一話 地球は支配されている
白鷺悠真は、中学卒業を機に働くことを決意した。
「進学はしません。今までお世話になりました」
その旨を学園長に告げた時、彼は非常に悲しげな顔を作った。
それが瞬時に表面だけのものだと解った。
残念に思う、と寂しげに呟く教頭を一瞥すると、直ぐに嘘だと解り、決して口には出さないものの、目を細めてただ呆れるしかなかった。
お世話になりました、と常套句を吐き捨て、振り返らずに校長室を出る。
今頃扉の向こうで笑い声を押し殺すようにして腹を抱えているのだろうか。きっとそうだろう。そう思い、校長室から離れる。
廊下の途中で、同い年の連中とすれ違う。向こうより先に気付き、廊下の端に寄る。
暫くして向こうの一団の誰かが顔を上げ、その者が友人と思しき人物の耳元に口を寄せると、明らかに雰囲気が変わる。
見慣れた光景だった。
自分と極力距離をとろうとするのも。
見向きもせずに突っ切り、職員室に立ち寄った。
一年間、とある一件の際でしか、まともに会話を成立させなかった教師に嫌々ながらも頭を下げ、口先だけの礼を述べるとさっさと退場を決めた。
敬意を払ってもいないのに頭を下げる理由が解らないものの、そうしなければ余計な敵意を買うだろうし、時間をとられる。周囲の人間の視線も正直鬱陶しくてしょうがない。
早く帰りたい。漠然とそれだけを考え、最早やる事を終えた悠真は玄関に出る。
そういえば、少し前まで下駄箱はまったく利用していなかった。靴を隠されたり、靴の中に何かの死骸を入れられたり、過去の事例を挙げればキリがない。そういったものもこの学園では、暫し見受けられた。
もっとも、悠真にそんな真似をしでかす暇人は、もういない。
靴を地面に放り投げ、上履きを脱ごうとし、ああこれを履く必要もようやく無くなるのか、などとしみじみ思いながら、近くのゴミ箱に放り込む。
ついでとばかりに、貰って間もない卒業写真や卒業証書も入れようとする。
が、直前で思い至る。
「そのまま捨てるのは、問題があるかな」
面倒くさいな、と言って、躊躇無く破り捨てた。
何の感慨もなく、ビリビリと細切れになるまで千切る。
と、そんな時、後方から誰かが走ってくる音が聞こえてきた。息切れしつつも走り来る人の気配に、悠真は黙然と作業に徹して無視する。やがて音は、すぐ後方まで来た。
現れたのは黒髪の少女であり、眼鏡をかけた、やや地味な風体の少女だった。委員長と呼ばれれば明日からそう呼称が定着しそうなスタイルの少女は、肩で息をしつつ、瞳だけは、強く意思を込めて、紙片と化した証書や写真を引き裂く悠真を睨む。
「ちょ、ちょっと、何やってるのよ白鷺君! それ卒業写真と……」
「証書だな。知ってるよ」
だったら何で、と呆然と呟く少女に言った。
「いらねぇよ、こんなモン。持って帰ったところで邪魔だし」
「で、でもそれは……」
「お前には必要かもしれないが俺には必要ねぇよ」
やがて、細切れになった物を残らずゴミ箱に収めた悠真は、軽くなった鞄を片手に出て行こうとする。
少女はゴミ箱の中から視線を戻し、急いで悠真の袖を掴む。
「どこ行くのよっ? この後ホームルームやって一斉下校だって聞いてるでしょ?」
「悪いけど俺は参加しない。お前らだけで楽しんでくれ」
「! ま、待ちなさいよ! 貴方っていっつもそうやって逃げ……!」
少女は台詞を最後まで言えなかった。
袖を掴まれた悠真が、顔を半分振り向かせていたからだ。
何も考えていないような無感情な目に、少女の体が強張った。
「そういえば、お前には学園生活の中で何度も世話になったな。常に他者に対し配慮を欠かさず、クラス行事の際は采配を取って皆を引っ張る。ストレスに苛まれそうな立場だというのに一切周囲に感じ取らせない。常々俺はお前に驚嘆していた。だが、」
だが? と聞き返す少女に、悠真はストレートに言った。
「はっきり言って迷惑だ。世話を焼く相手を間違えているぞ、お前」
息を呑んだ少女の手を無情にも振り払い、再び足を動かした。
「一年間世話を有難う。お陰様でお前を慕う連中から随分可愛がられた。まぁこれはお前が気に留めるべきことじゃない。飯に誘い、授業中も俺の相手を務めるお前に構って貰いたい馬鹿が大勢いたという事実は知っておくべきか」
「え……?」
悠真は後ろを振り向かない。だから少女がどんな表情を浮かべているか見ていない。
素直な感情を浮かべた時の心情は、時に読み取りづらい。
頭を掻きつつ、真っ直ぐ校門まで進む。
温暖化の影響で桜が早い時期に咲き揃い、卒業式を迎えた学園を祝福するように花を散らしている。教室の方で時折生徒のはしゃぐ声や体育館の方から黄色い声が聞こえる。中学の卒業式だからか、思い出を残そうと無意味に騒ぐ連中や、想いを重ねた相手に告白する輩もいるのだろう。
最後に一度だけ、悠真は背後を振り返る。
そこには門に彫られた、学園の名がある。その隣には同校の第何期卒業式を開催する、と書かれた看板がある。
三年間通い続けた学び舎を、大して感慨もなさげに見つめる。
「これで俺も卒業。来月から社会人か」
進学しないことは学園長にも言っておいたし、実家の叔父夫婦にも伝えてある。四月からは、叔父が運営する工務店で汗を流す日々となる。細身の悠真が肉体労働をするには、過酷な毎日となるだろう。だが頑なに進学を拒み、就職先まで導いた叔父には感謝の一言に尽きる。
何から何まで世話になっている叔父夫婦への最低限の恩返しとして、労働を選んだのも理由の一つだ。
「さぁ、帰るかな」
吹き寄せる春風に、前髪が踊る。右の額に残る傷痕に、少しだけ沁みた。
痛みはない。自然とそこへ手を伸ばす悠真は、最早校舎を振り返らずに帰路に着く。
穏やかな風に包まれて、爽やかな風に撫でられて、風が孤独の背中を飛び越える。
「友達も学校も、今日で終わりにすると決めたんだ」
そう言い、やって来た歓声が悠真に届く頃、彼は一人、無人の道を歩き出す。
桜の花が目の前を過ぎる。それに見向きもしない。
白い桜の花の中を行く、一つの色。少年が一人、陽の当たる道を歩む。
黒く、何も移さない虚ろな彼の右の目は、ただ青いだけの夢想の空を映している。
瞳の中の青空には、巨大な白い船の姿が映っていた。
町はまだ静かで、小鳥の鳴き声だけが悠真の耳に届いている。
周囲に人影は少なく、時折自転車や車が通り過ぎる。その際すぐ横手のフェンス越しに桜の花が風に引っ張られ、華を散らす。はらはらと散っていく様を見つつ、学校から離れた。
暫く歩き、国鉄が通る線路まで来ると、桜はもう見かけない。
民家の間を通る電車の路線は静かで、それは今の時間帯で利用する客が少ないからだ。都心に住む者なら驚くだろうが、田舎ならこれが常識だ。
無音の踏み切りを渡り、代わり映えのしない景観を横目に、道を行く。
五分もしないうちに視界に入ったのは、特に何の変哲も無い、普通の小学校だ。
緑色の屋根を持つ体育館や木造校舎、その向こうにある鉄筋の校舎に、池のあるロータリー。正門には警備員が立ち、目が合うと軽く会釈されたので頭を下げる。
以前通っていた母校。黒い柵の間から校庭を覗くと、体操着を着た子供たちが校庭を横断するように走っていた。授業中らしい。教師の掛け声で数人が走り出し、遥か先に立つクラスメートの元へ行く。短距離走の時間測定のようだった。
クラスの人数は、ざっと見た限り十八人。悠真の頃は三十人はいたが、今では少子化の影響で自然と生徒数も減っていた。過疎化、という言葉が脳裏をよぎる。
「いずれ母校も消える運命、か」
近いうち、それは現実となるかもしれない。
人も変わりやすければ、環境も変わりやすい。ここ数年で科学は多少の発展を見せた。反面、環境は悪化、人口も減少。水位上昇や森林問題などかつて危惧されていたらしいのだが、実際直面して見ると、今更どうしようもないと絶望するしかなかった。軽度の損傷なら直せたかもしれない。だが壊れすぎた物は直すことも、再び生み出すこともできない。
民家も空きが多く見られるようになった。付近のアパートはもぬけの殻、という物件ばかりで、静かな時間が好きな悠真としては、正直有り難い状況である。
学校から離れ、歩道橋の伸びた先、路地の一つに入る。そこを歩き、数分と経たぬうちに見えてくるのが、悠真の住む家だ。
小道の中にある平屋。『白鷺』と表札のかかった、若干古臭さを感じる家。実際観察してみれば、近頃新たに建つ家は少ないとはいえ、この一箇所のみ雰囲気からして異なり、また木造建築ということで外見からして『古い』の一言で処理されそうだった。まるで戦前からの遺産である。
実際内側も少々老朽化が進んでおり、縁側の床板も腐りかけて先日修理したばかりだ。リフォームでもすべきだと進言しても、かなり呑気な叔父夫婦は、『風情があっていいじゃないか』と適当極まりない事を言って雨漏りする天井を見ていた。どうしようもない。後で自分が奔走する羽目になる事を思うと今から憂鬱だ。
叔父夫婦は昼間は出かけている。叔父は工務店で仕事、叔母は恐らく知人と会う為に外へ出ているのだろう。植木鉢の中に鍵が転がっていた。
それを手にし、玄関の鍵を開いた。
「ただいま」
と言っても返事はないんだけどな。自虐気味に思いつつ、私室へ直行。
私室は落ち着きのある和室で、日常面では何一つ不自由の無い、しかし一切無駄な物が存在しない殺風景な部屋だった。円形テーブルが中央にセットされ、端には広い勉強机と本棚、脇に洋服箪笥。押入れには布団や生活用品などを押し込めてある。本棚には小説が主で漫画は数える程度。棚の中にテレビがあるが、ゲーム類はほとんど無い。
畳の上に横になる。
視界が狭い。掲げた右手で右の目をそっと撫でる。
左目を閉じれば視界は暗くなり、世界が闇で閉ざされる。眠気は無いが、このまま寝てしまうのも良いだろう。思い、身体を楽な体勢にすると、すぐに睡魔がやってきた。
意識を閉ざす前に、窓の外が見えた。そこには空は無く、ただ白い物体が浮かんでいる。
空を多い尽くすような規模の、巨大な戦艦によって、空は閉ざされている。
二十三世紀。世界は一度、滅びた。
飛躍的に進歩し続けた科学や、それに伴う劣悪な環境による星の衰退。この数百年で人口は激減し、陸地の面積は僅か百年で七割にまで減った。
少子化が進んで過疎化が幾多の町で起こり、景気はいつ明けるか解らない暗黒期へ突入していた。兼ねてより危惧されていたそれらの問題は、しかし滅びの原因とはほぼ無関係だった。
正確に言えば、滅びたのではなく。滅ぼされたのだ。
異世界からやって来た、未知の人間達によって。
――異世界。かつてはその言葉を耳にすれば非現実的だと嘲笑い、漫画や小説の中でしか見られない空想上の存在だと言われていた。
だが現実問題、異世界人は実在し、それが異世界の存在を実証していた。兼ねてより噂されていた宇宙外生物よりも先に、その存在を史実に残す事と相成ったわけである。
彼らは唐突に、ある時、世界を飛び越え、この世界に姿を現した。
地球史上初となる異世界人との接触は、唐突な来訪から始まった。空間を飛び越えてやって来た彼ら異世界人は各国の主要な大都市上空を占領し、人々を混乱に陥れた。その後駆けつけた空軍と街の頭上にて激しい銃撃戦が始まる。
否、銃撃戦というのは異界側の視点からすればそう呼べるものだっただろう。しかし地球側からすれば、それは一方的な撃墜戦だった。
そもそも敵うと思うことすらおこがましい話だったのだ。相対した瞬間、否、彼らが異界より赴いた時点で勝敗は決していた。空間を飛び越えてやって来た異界の軍勢が、今だ広大な宇宙を自在に飛び回る術を持たない地球の軍隊に劣る理由は無い。軍備開発の技術一つさえ雲泥の差なのだから。侵攻する異界の軍は、容赦無く迎え撃つ軍を撃ち落した。
ところが彼ら異世界人は応戦こそしたものの、自ら攻撃を仕掛ける事はなかった。
敵国を攻め滅ぼした後、自らの支配化に置く。それも手段の一つだろう。しかし異世界人達は異なる手法を用いて地球人に迫った。穏便に事を運ぶ為、敢えて圧倒的戦力差を見せたところで、休戦締結を求めたのだ。
無益な殺生を拒むならば対談の席に着け、と。
歴然とした戦力差を痛感した地球側は即座に講和会議を開いた。自分達が滅ぶかどうかは、異世界人達のさじ加減一つなのだ。ならば今ここで敵意を剥き出しにすれば人類は即滅亡だ。それだけは如何様な手段を用いても回避せねばならなかった。
こうして欧米にて各国首脳を交えた、異界との初の対談が行われる運びとなった。
無論、優勢だった異界が何を要求したか、推察するのは容易だろう。
彼らが提示した条件は、某国和親条約並の不平等な内容だった。しかし、『穏便に事を済ませたい』と敢えて含みのある発言をした異界代表の言葉に、各国代表はさぞ戦慄したことだろう。その言外に意味する事を汲み取れぬほど愚かではなかった。
既に戦意を削がれた地球側に、敵対心など微塵も残っておらず、心身も凍てつく相手方の提言に、承諾するほか無かったのだ。
元々、異界の軍勢が渡来せずとも、いずれ滅びを迎えたであろうこの世界に、彼らは定住の地でも求めて来たのか。新たな新天地へ旅立つ足がかりにでもするつもりなのか。それは余人の知る由はない。
結果として、第一級世界都市を中心に異界の住人達は介入を開始し、瞬く間にこの世界を自分達にとって都合の良い様に変えていった。
異界の民を受け入れる領地は限られている為、空に浮かべられた要塞が、異世界人の新たな居住の地となっている。頭上を仰げば、白い戦艦の姿が窺えるのはその為だ。
まるで自分達を見下すかのように。
上空から地上で生きる人々を嘲笑うかのように。
唯一の幸いは、異世界人は鷹揚かつ寛容な者が多いことだろう。不平等な条約を締結したとはいえ、彼らはまるで同郷の人間のように気さくであり、今の人間には欠如してしまった他者を思いやる精神や、現状を慮るだけの思慮深さを持ち合わせていた。
そういった意外な面もあってか、異世界人の存在がこの世界に溶け込むのに、大した歳月は要さなかった。異世界人達は次第に人望を集め、滅びかけたこの世界を導く使徒の如き扱いさえされているという。
篭絡されていると気付く者が、一体どれだけいるのだろうか。
少なくとも、ある少年にとって、異世の住民は信用を置いてはならない存在であると同時に、人様の土地を勝手に踏み荒らしている、容認し難い邪魔者でしかなかった。
例え異世界人が全て悪人ではなかったとしても、過去の遺恨が消えることは無い。
こうして。地球は一度滅びを向かえ、そして新たな時代を築き上げようとしていた。
支配の下に成り立つ、箱庭の中の楽園で。
だからこれは、希望を求め、運命に抗う人のお話などではなく、
絶望と憎悪に駆られた、醜い人の生き様を描くお話なのだろう。