隠し味、あるいは恋という名の病
あの冬子との会話から、ゆっくりとしかし遅刻しないギリギリの速度で学校に向かって歩いてきた。
校門をくぐり、下駄箱で靴を履き替え、自分のクラスに入る。
「おはよー」
クラスメイトからの朝の挨拶。
もちろん俺に向けられたものではなく、隣にいる冬子に対してだ。
「おはよう」
俺に対して朝の挨拶をしてくれる奴はあまりいない。
それに比べて冬子はクラスメイト以外の奴からも挨拶をされる。
隣にいる俺は針のむしろだ。
冬子に挨拶をするついでに、俺のことを睨んでくる奴までいるからな。
あぁ、嫌だ嫌だ。
毎回、毎回、朝にこんな目に合うなんて。
冬子がクラスメイトと談笑をしている隙に、自分の机に座り込む。
今日使う教科書を鞄から取り出し机の中に入れ、鞄を机の横に架ける。
俺は教科書を毎回必要な物だけを家から持ってくる派だ。
教科書全てを学校に置いていくのはどうも不安で、重い鞄を毎回家から持ってくる。
なぜ不安なのか俺には分からない。
でも不安なのだ。
そんな、どうでもいいことを考えながら机に座り窓の外を見つめる。
外は雲ひとつ無い綺麗な青空。
さっきまでの俺の気持ちとは対照的な清んだ空。
何の根拠もないが、今日はいい日になるかもしれないと思った。
「おはよう、春君」
後ろから女性の声が掛かった。
誰だろう? 俺に声を掛けるのは。
俺に挨拶を掛けてくるとは珍しい。
しかも女性が声を掛けるとは。
疑問を抱きながら、俺は後ろを振り返る。
そこにいたのは、俺が昨日告白され、冬子曰く俺が振った積もりでいる小川藍子だった。
「おはよう藍子」
「うん、いい朝だね春君」
藍子は笑顔で言った。
「うん、うん。やっぱり何かいいなこういうやり取り」
疑問に思う。
「えっと……」
「好きな人との何気ないやり取りってやっぱり良いね。朝から元気が出てきたよ」
何で彼女はこんなにも笑顔なのだろう? 普通は振られた翌日はテンションが下がるものじゃないのか? やっぱり冬子の言う通り、俺が振った気になっていて彼女の中では振ったことになっていないのか? だとしたら、ハッキリともう一度言わなくてはいけない。
何か取り返しのつかない事が起きる予感がする。
「えへへへ、いいなーやっぱりいいなー。何回も何回もやりたいよ」
でも、言えない。
少なくとも今は言うことができない。
もし言ったらどうなることか。
きっと彼女は泣いてしまうだろ。
そして他のクラスメイトに注目され、少しづつ治まってきている噂が今度はもっと酷くなる。
そんなことは絶対に嫌だ。
そして何より、幸せそうな顔をしている藍子の笑顔を壊してしまうのがもっと嫌だ。
だから俺は、
「本当に良い朝だな、藍子」
こんな、当たり障りの無い言葉しか言えなかった。
「うんうん、朝から幸せな気持ちになるよ。でもね?」
藍子の笑顔が崩れ真顔になる。
さっきまでは笑顔だった綺麗な顔を、どこか憎々しく親の仇を見るかのような顔になった。
何て顔をしているんだ。
いや、なんでそんな顔ができるんだ?
俺は今まで藍子のそんな顔をしているのを見たことがない。
「何であなたがそこに居るの? 朝からの幸せな気分が台無しだよ」
藍子が後ろを振り向きながら言い放つ。
そこに居るのは、一緒に登校してきた冬子だった。
「おはよう小川さん、良い朝ね。私が居るのは席が春の前だからよ。そんなの知っているでしょ?」
「うん、知ってる。でもね? 私と春君はまだ話しているの。だから邪魔しないでよ雪風さん」
「邪魔なんかしていないわ。私は自分の席に着こうとしただけよ?」
「邪魔していない? してるよ。私と春君が喋ってるの。雪風さんは他のクラスメートと話してたら? 人気者の雪風さん」
「なぁに? 昨日振られたのにもう彼女気取り? 気が早いわよ、小川さん」
まずい、このままだと昨日の放課後に言い争ったようになる。
止めなくては、冬子と藍子の争いを終らせなければ。
でないと、クラス中に注目される。
あぁ、少しづつこちらを見る目が増えてきた。
「おっはよーさん!」
俺が止めようと席を立とうとした時、陽気でどこか抜けている、この場に似合わない声が掛かった。
俺と彼女達がその声がする方向に顔を向けると、そこには俺の知り合いの一人、田中元がいた。
「よう、藍子に冬木に雪風さん、おはよー。なになに朝から集まってどうした?」
助かった。
本当に助かったよ田中。
さっきまで冬子と藍子の間にあった険悪な雰囲気は、田中の陽気な声で毒気を抜かれたのかなくなっていた。
「おはよう田中。いや、別にどうもしていないよ」
「本当かよー冬木。雪風さんがいつも一緒なのは知ってるけどさ、藍子まで一緒とは珍しいぜ?」
「いや、藍子とはただの世間話をしていただけだ」
「ん? 冬木、お前いつから藍子って下の名前を呼ぶようになった? いつもは小川さんって……」
そうだった、俺は昨日まで小川さんって呼んでいたんだ。
名字で呼んでいた人間が下の名前を呼ぶようになっていたら、関係を疑われてもおかしくない。
けど今更、名字で呼び直すのもおかしいし、何より藍子に下の名前で呼ぶように言われている。
もし名字で呼んだら……きっとアノ刺すような目で俺を見つめてくるに違いない。
それは嫌だ。
嫌だ嫌なんだ。
怖い、堪らなく怖い。
アノ目で見られるとアノ人を思い出すから。
駄目だ……アノ人のことを考えるだけでも……蓋が少しづつ開いていく。
閉めろ、閉めろ、閉めろ。
蓋を開けては駄目だ。
落ち着け俺。
「私が下の名前で呼んでって言ったんだよ元」
「そうなの? え、もしかして二人って」
田中と藍子の声が聞こえる。
あぁ田中、お前の考えていることは違う、違うんだ。
俺と藍子はそんな関係じゃない。
そんな関係になるつもりはないんだ。
藍子がどう思っていようとそんな関係にはなれないんだ。
だって俺は………………。
「違うよ。まだそういう関係じゃないよ」
「そ、そうか……よかった……」
田中がなにやら安心した顔をしている。
そんな顔を見た俺は、田中に声を掛けた。
「よかったって何がだよ? あれ、もしかしてお前」
冷静に心を落ち着かせ、おどける様に声を明るくして、暗く沈んでいた心を隠すように声を出す。
「ち、違うぞ! 違うからな! あ、あれだ、幼馴染の恋愛事情がきになっただけだからな」
「本当か? 怪しいな」
そうだこれでいい。
このまま田中をいじって、有耶無耶にしよう。
俺の心も、藍子のことも何もかも。
「もしかして元、私のこと……」
「そ、ち、違えーし。ありえないから」
「うん知ってる」
「え、あ……うん」
今は考えたくない。
朝から考えたくない。
今日は折角の青空だから。
「それより元、あのことなんだけど」
「あーあれなー」
二人の会話をバックに俺は再度窓の外を見つめた。
「春?」
窓から冬子に目を向けた。
「なんだよ」
「アノ二人、幼馴染だって」
「それがどうした」
「私達と同じね」
「そうだな」
「もう、つまらないわね。他に何か無いの?」
他にと言われても、特に無いだろ。
田中と藍子を見ていても仲が良いぐらいにしか思わない。
今も二人で仲良く何やら話しているし。
「仲が良いな」
だからそう言った。
「……仲が良いね?」
「違うのか?」
「春にはそう見えるの?」
「あぁ」
「フフフ、そうね、仲が良いわね」
そう言うと、冬子は自分の席に座り黒板の方を向いてしまった。
アノ二人は自分から見て、仲が良い風に見えるが冬子は違うのか?
どこからどう見ても仲良しにしか見えないだろう。
それに、クラス中の奴らも二人の仲を知っている。
一部には二人が付き合っているという噂もあるぐらいだ。
それなのに冬子は、二人の仲を疑っているのか?
朝のコトともそうだが、冬子の言動はとても不安になる。
俺の心を乱し、自分の心の内さえも、わけが分からなくなるんだ。
あぁ、くそっ。
「春君、あのね、聞きたいことがあるんだけど?」
田中との会話が終ったのか、藍子が俺に聞いて来た。
何だろうか? 藍子の顔は少し赤く、もじもじと指先を動かしている。
「何?」
「えっと、その、お昼休みなんだけど」
「昼休みがどうした?」
「お、お弁当作ってきたから一緒に食べよ?」
藍子からの昼飯の誘いに俺は驚いた。
しかも、手作り弁当。
「藍子、俺にはないのかなーって思うんだけど」
「元にはありません」
「ま、マジかよチクショウ」
しかし、俺はいつも冬子と一緒に昼飯を食べている。
冬子の手作り弁当をだ。
だからこの場合、俺はどうすれば良いのか。
藍子の誘いを断るべきか、冬子に断りを入れるべきか。
……よし、折角だが藍子には悪いが断ろう。
これ以上、勘違いをさせる行為は駄目だ。
あぁでも、もし断ったら藍子はどうなるんだろう? 泣いてしまうのか? 怒るのか? 俺はどうすればいいのだろうか。
「春、お昼食べてきたら?」
さっきまで前を向いていた冬子が俺達の方を向いて言ってきた。
「雪風さんには聞いてない」
「ゴメンなさいね。でも私も小川さんには言ってないわよ」
「うるさいよ雪風さん。今、春君と喋っているの」
「少しぐらい待ちなさいよ小川さん。すぐに終わるわ。春、今日はお弁当を作ってきていないの。だから、お昼ご飯はないわよ。学食に行くか何かしなさい」
「わ、分かった冬子」
「そう」
珍しい。
冬子が弁当を作ってきていないなんて。
いつも俺が断っても作ってくるのに作ってきていないなんて。
なんで今日に限って作ってきていないんだろうか。
「春君、お昼どうかな?」
財布にはお金があまり入っていない。
朝もあまり食べていないので昼飯を抜くのは正直つらいが、藍子の誘いに乗ってもいいのだろうか?
「だ、駄目かな……朝から頑張って作ってきたんだけど」
藍子の顔がどんどん暗くなっていく。
さっきまで笑顔だったその顔は、今にも泣き出しそうだ。
そんな顔しないでくれ。
そんな顔は見たくない。
だから俺は、勘違いさせてはいけないと思いつつも、藍子と一緒に昼飯を食べることにしようと思う。
「わかった、ご馳走になるよ」
どうかこの選択が間違っていませんようにと、信じてもいない神に俺は祈る。
「よかった、断られたらどうしよう思ったよ。お昼休み楽しみにしているね春君」
「そうだな」
「春、お弁当美味しいといいわね?」
冬子が俺に向かって、いや、俺の後ろにいる小川に向かって言っているようにも聞こえる。
あぁ何でそんな余計なことを言うんだ。
「私のお弁当は少なくとも、雪風さんよりは美味しいよ」
「私は春の好みの味を知ってるわよ」
「それが? きっと今まで雪風さんの不味いお弁当でも食べていたんでしょ? 私のは愛情がいっぱいだからあなたより美味しいよ」
「愛情ねぇ?」
「愛がいっぱい詰まったお弁当だよ春君。私の愛が詰まっているお弁当だよ。それにね、隠し味が凄く美味しいんだよこのお弁当。隠し味は秘密だから教えないよ」
「そ、そっか。楽しみ、だな」
「うん、またお昼にね」
そう言うと、藍子は冬子を一睨みして自分の席に着いていった。
「春、美味しいと良いわね?」
冬子も前を向く。
「冬木、お前羨ましいな。藍子の弁当を食べられるなんて。俺は一度も食べたことがない」
そう言って田中も自分の席に着きに行く。
一人残された俺は、一抹の不安を抱えたまま、朝のホームルームに来た担任を見つめていた。
昼休みが不安だ。