彼と学校、時々彼女、後に蓋
藤林市には五校の高校がある。
一つ目は県立藤林北高等学校。
偏差値が県内トップクラスであり、有名大学の進学率も高い。
通っている生徒達もみんなまじめであり、有名人の卒業生も多々いる。
二つ目は県立藤林高等学校。
偏差値も高く、私服登校が許されている自由な校風であり、文武両道な学校だ。
三つ目は県立藤林南高等学校。
藤林高校と偏差値が同じであり、よく藤林高校と比べられる高校である。
通っている生徒は若干、藤林高校より真面目な生徒が多い。
四つ目は県立藤林西高等学校。
この高校は運動部が盛んな高校だ。
県内の大会でも優秀な成績を残している運動部が多く、何年か前に県立でありながら野球部が甲子園に出場していた。
そして最後に俺が通っている県立藤林東高等学校だ。
県全体で比べればそこそこの偏差値ではあるのだが、他の四つに比べればかなり低い。
通っている生徒も、チャラチャラしている生徒とおとなしい生徒に二分化している。
そう、だからこそ不思議に思うのだ。
学力は普通、運動も普通で中学時代に受験する際に、この東高に受験するしかなかった俺が東高に通うのは分かる。
しかし、冬子は違う。
学力は県内トップクラスで運動神経も良く、俺とは違って北高に通っていていいはずだ。
中学時代、俺と一緒に東高を志望すると決めた時、担任の先生に何度も志望先を変更するようにいわれていた。
それなのに頑なに志望先を変えず、俺と一緒に東高を受験する。
当然、入試試験ではトップであり、入学生代表の挨拶をしていた。
おそらくその時からであろう、冬子の人気が出始めたのは。
黒く長い艶の綺麗な髪をして、顔立ちも綺麗であり、凛とした雰囲気を身に纏い、堂々と代表生の挨拶をするその姿に何人もの生徒や先生が見惚れていた。
俺も少しだけ、ほんの少しだけ見惚れていたぐらいだ。
だから冬子は入学式以来、他の生徒や先生、学年が上の生徒達からも人気が高い。
部活の勧誘に誘われるし遊びにも多く誘われる。
しかし、冬子は全ての誘いを断っている。
理由は俺だ。
俺と一緒にいるために全ての誘いを断ったらしい。
するとどうなるか? 答えは簡単、いつも一緒にいる俺という人物が注目される。
あの彼女が断るのはある人物が原因らしい。
そいつはどういう奴だ? と、生徒から注目される。
その当時の俺はというと、クラスでも友達があまりいないく目立たない存在だった。
そんな俺を見て彼女が断る理由に疑問を持ち、曰く彼女を脅迫しているやら、弱みを握って傍に置いている等、悪い噂が流れるようになった。
そんな噂を信じた奴からいろいろと言われたりされ、いつしかクラスからも学校からも孤立するようになる。
それでも冬子はどこ吹く風といったように常に俺の傍にいた。
まぁ、この噂のおかげで一年たった今でも友達はあまりいない。
「春、何か考え事?」
「あぁ、少しな」
学校に向かう通学中に冬子が俺に聞いてくる。
「何? 早く行かないと遅刻するわ」
「なぁ、どうして東高を受験したんだ?」
「またその質問?」
この質問は入学式以来、何回もしている。
そして帰ってくる答えはいつも同じ。
「あなたと一緒にいたいからよ」
「そっか」
「早くしなさい」
だからこそ、毎回この答えを聞くたびに思うのだ。
俺なんかと何故一緒にいたがるのかと。
そして申し訳なく思う。
俺がいなければ、彼女は今頃、違う高校に通っていて、友人にも恵まれてより良い人生を送れているのではないかと。
俺みたいな汚れて犯されている人間に関わることが無ければ、彼女はもっと前へ、光に進めるのだ。
アノ薄暗い地獄から抜け出せない俺と違い、彼女は抜け出すことが出来たのだから。
…………あれ? なぜ俺は薄汚れてるとか、地獄とか考えた? どうして考えた? 俺は薄汚れていないし、地獄ってなんだ?
……あぁそうか……それはアノ人が関わっているのか…………。
アノ人に俺は幼い頃――――――――――――駄目だ思い出すな蓋をしろ。
思い出してはイケナイ。
思い出したら俺は終る。
きっと終る。
何もかも終る。
蓋だ、蓋をしろ。
早く早く早く蓋をしろ。
「なにボーっとしてるの?」
「あ、あぁ何でもない」
「何でもないって、顔色が悪いわよ」
キツク、キツク蓋を俺は綴じる。
何を思い出してはいけないのかわからないが、これ以上思い出さないようにと蓋を閉める。
きっと俺は終ってしまうから。
「本当に何でもないんだ」
「ねぇもしかして――――」
もしかして、冬子はこの蓋の奥に何があるのか知っているのだろうか?
思い出したくない、思い出せないこの蓋の奥底にある記憶の一部を知っていて、今この瞬間に尋ねてくるのか? だとしたら俺は……俺はっ。
ドキドキする。
冬子から発せられる次の言葉を聞くのが怖い。
「小川さんに会うの緊張している?」
心の中でため息が一つ出た。
そうだよな、いくら冬子でも心まで読めないよな。
あー俺は何でこんなことを考えていた? あり得ないだろそんな事。
蓋のことなんか俺以外に分かる奴なんかいないだろ。
けど、冬子は何かと察しやすいから気を付けて誤魔化そう。
「少しな」
「そう」
俺の目を真っ直ぐ冬子は見つめる。
隠せ、気が付かれるな。
蓋の存在を冬子にばれるな。
蓋に気づいたら、冬子はその奥を無理やり暴こうとするぞ。
「ふ、フフフフフ。大丈夫、大丈夫」
「何がだ?」
「小川さんのことよ」
藍子のことは今はどうでもいい。
別に藍子と会うことに緊張などしていない。
普段どうりに接してくるはずだ。
彼女だって俺とのことを学校中に知られたくないだろう。
だから今は、冬子のことだ。
「蓋」
その言葉に俺の体全体は強張り、口の中がなんだか渇いてきた。
「蓋?」
「そう蓋よ」
「それはジャムか何かの蓋か?」
「違うわよ。心の蓋」
好くない。
早くこの話を終らせよう。
この話を続けられたら、俺にとってやなことが起きそうだ。
「心の蓋? そんなもの藍子に関係ないだろ。それより早く学校に向かうぞ」
俺は足早に学校に向かおうと、歩く速度を速め冬子と距離をとろうとした。
しかし、
「まちなさい。この速度なら充分学校に間に合うわ」
冬子のこの言葉と供に手を握られ、冬子から逃げられない。
その場に俺と冬子は立ち止まった。
「なんだよ」
少し語尾を強め冬子に言い放つ。
「そんなに慌てないで。さっきの話の続きよ」
「蓋のことだろ。小川に何の関係があるんだ」
「彼女は一つ蓋を開けたわ。恋心という名の蓋を」
「それがどうした」
「人はね、心に蓋をする生き物なの。見たくないこと、自覚したくないこと、聞きたくないこと、思い出したくないことに意識的にあるいは無意識に心に蓋をするの。
見ていない、自覚していない、聞いていない、思い出していない。そうして心を安寧させ生きている。
別にこれは悪いことではないわ。そうしてないと不安で生き難いものね。処世術のひとつよ」
「だからなんだよ」
「彼女が開けた蓋は恋心。きっと、はしゃいでるわよ彼女。学校でも積極的に接してくるでしょうね。恋は楽しいものだからね。
まぁ、辛く悲しいものでもあるけど、恋に恋して浮かれてる彼女は、そんな事考えていないのでしょうけど」
藍子が積極的に接してくる? そんな事、ありえるのか? しかしそうだったら、また針のむしろだな。
藍子は意外と人気が高いから。
「そうだ春、聞きたいことがあるの」
藍子のことで考え込んでいると、冬子から質問が来た。
冬子の目を見る。
その目はどこか楽しそうで、慈しんだ顔をしている。
「春に―――――――――――――――――――」
次の言葉は聞きたくない。
聞きたくないんだ。
自覚したくない、見たくない、思い出したくない、お願いだからどうか先の言葉は言わないでくれ。
どうか、どうかお願いだから、蓋については触れないでくれ。
お願いします。
お願いします。
俺に蓋があること事態、自覚したくないんだ。
あぁだから言わないで。
「心の蓋はある?」
言われた、言われてしまった。
「フフフフフ、学校に行きましょう」
少しだけ、ほんの少しだけ蓋の奥からドロリとした汚物が心に流れ出す。
流れた物は体中を駆け巡り、心を犯し、力を奪っていく。
立っていられない、歩く力が湧いてこない。
しかし、歩かなくては。
こんな俺の姿を冬子が見たら、心の蓋に気付いてしまう。
だから、蓋を閉めよう。
もう一度、今度は二度と蓋が開かないようにキツク閉めよう。
蓋から漏れ出した思い出は分からない。
しかし何故か、約束した彼女が頭を過った。
あの日あの時、夕日が綺麗な公園で、黄昏に染まった彼女。
あぁ、こんな情けない姿、いつか約束した彼女に見られたら何と思われるか。
彼女には、彼女だけにはこんな姿を見せたくないんだ。
どんな約束をしたかは忘れてしまったけど、この思いだけは本当だ。
「早く来なさい」
少し距離が離れた冬子から声が掛かる。
行こう。
大丈夫、学校に付く頃には蓋は完全に閉まっているはずだ。
大丈夫、大丈夫。
大きく一度息を吸い、ゆっくりと心を落ち着かせるように息を吐く。
大丈夫、少し心は落ち着いた。
よし、行こうか。
ゆっくりと、俺は学校に向かって再度、歩き出した。