彼と妹
駅前にある、スーパー南国に冬子と俺は今晩の夕食の材料を買いに来た。
「カレーのお肉、何がいい?」
「豚肉かな?」
正直、豚でも牛でもどちらでもいいのだけれど、今日の特売は豚肉だったのでそう答えた。
「豚肉でいいの? 本当に?」
「いや、ほら、今日は豚肉が安いしさ。だから、牛肉より豚肉がいいかなって思ったのだけど」
「豚肉も牛肉も余り値段は変わらないけど?」
「いや、結構値段はちがうぞ。それに、豚肉の方が俺は好きだし」
「そうね、じゃあそうしましょう」
冬子は買い物カゴに豚肉を1パックいれた。
カゴには人参、ジャガイモなどカレーの材料が入っている。その他にも、牛乳、バター、各種調味料、ドレッシング、冷凍食品など今晩の夕食の材料には関係が無いものまである。
「冬子、カレーには関係が無いものまであるけど、何コレ?」
「春のお家の冷蔵庫を見たら切れそうだったから買うのよ」
人の家の冷蔵庫を勝手に開けて見たのか? 何も知らない間柄では無いにせよ、冷蔵庫なんか勝手に開けて見ないだろう。しかも中身まで把握しているなんて……勘弁してくれよ。
「人の家の冷蔵庫を勝手に見るなよ」
「芽衣さんは知っているわ。それに、今日の買い物は芽衣さんに頼まれている物もあるのよ。お金だって芽衣さんに貰っているもの。知らなかったの?」
知らないよ……そんなことは。それより、何時の間に芽衣さんと仲良くなっているんだ?
「いつから、そんなことをやっているんだよ」
「いつからって? 結構、昔からよ。芽衣さん仕事で忙しいらしいから、よく春のお家に行くから頼まれるのよ。」
確かに、芽衣さんは仕事で忙しく、夜遅くに家に帰ってくることが多い。家事も俺と雪音で殆どやっている。けど、買い物ぐらい、わざわざ冬子に頼まなくとも俺か雪音に頼めばいいのに。
「さぁ、夕食の材料も揃ったし、レジでお会計して帰りましょうか」
「そうだな」
スーパー南国を出て、俺の家に冬子と二人で向かう。
家に着くまで冬子との会話はなく、ただ真っ直ぐ家路に向かうだけだった。
夕日に染まったアスファルトは綺麗で、アスファルトに反射されて、オレンジ色に染まった冬子の顔も綺麗で、俺は冬子の顔をまた見ていた。
「なぁに、また私の顔を見ているの?」
冬子は歩く足を止め、俺の目を見つめてくる。どこか小さな子どもに優しく質問するような顔で、慈しむような表情で、優しい声色で聞いてきた。
「別に……見ていないよ……」
「見ていたわよ、ココでも学校でも」
「ゴメン……悪かった」
「フフフ、いいのよ、悪い気はしないし……むしろ嬉しいぐらいよ。ただね、いつも私の顔をあまりジロジロと見てこない春が今日に限って見てくるから、少し気になってね」
冬子の顔に見惚れていた何てことは言えないし言ったら後が怖い。
「何でもない、ただ見ていただけだ」
「そうかしら? ねぇ春、本当に、本当に私の顔を見ていただけ?」
冬子の顔を見ていただけではない。
「昔、どこかで見た覚えがあるんだ。今の冬子の様に、夕日に染まった女の子を。どこか分からない公園で」
いつの事か思い出せない遠い、遠い幼い日。ココではないどこか別の公園で、今日と同じ夕日が綺麗な空の下で、どこの誰か分からない幼い女の子を俺はまた思い出していた。
「そう…………そうなの……。その女の子が誰かは思い出せないの?」
「わからない。ただ、何か大切な約束をした気がするんだ。大切な約束を……」
何故か申し訳ない気持ちになり、忘れた約束に後悔し冬子の顔を見られない。
俺の心は暗く落ち込み、それとは対照的に、見つめたアスファルトは夕日に照らされていて綺麗だった。
「そう、いいのよ。今は思い出せなくとも、いつか思い出してくれれば。いつか、その女の子が誰か思い出してくれればいいのよ。いつかきっと、春は思い出すから。フフフ……あの時のオマジナイ効いたのかしら?」
最後の言葉は聞き取れなかったが、どこか嬉しそうな冬子の表情に俺は安堵し、自宅に向けて冬子と供に再度足を進める。
「さあ、早く帰りましょう。雪音ちゃんも待っているわ」
「わかったよ」
冬子にそう答えながら見上げた空はやっぱり綺麗で、夕日でオレンジ色に染まった空は、黄昏に染まったこの空間は、俺にとっても冬子にとっても大切なものに思えた。
「空、綺麗だな」
「えぇ、本当に綺麗ね」
本当に綺麗だ。このまま消えて無くなりたいぐらいに。
俺は夕日に染まった道を冬子と供に歩き出した。
特に何の変哲もない二階建ての一軒家。
藤林駅と新藤林の中間にあり、両方の駅から徒歩10分の所に俺と妹の雪音がお世話になっている家がある。
「ただいま」
そう言いながら玄関のドアをあけると、後ろから「ただいま」と冬子も言いながら玄関に入ってきた。
「おかえり、兄さん」
そこには、学校から帰宅したばかりなのか、まだ制服姿の雪音がいた。
「ただいま、雪音」
「あらぁ? 私も『ただいま』と言ったわよ、雪音ちゃん。私にも、『おかえり』は雪音ちゃん?」
雪音は冬子の言葉に一瞬顔を歪めるが、直ぐにいつもの無表情に戻し、
「いらっしゃいませ、冬子さん」
と、冬子の目を真っ直ぐ見ながら言った。
俺は内心、冷や汗を掻きながら冬子と雪音のやり取りを見守った。
何かにつけて冬子は雪音によく絡む。
今みたいなやり取りも日常茶飯事だ。
そしてその度、雪音は冬子に冷たい言動をとる。
雪音は冬子のことをあまり好ましく思っていないのだろう。
まあ、雪音の冷たい言動は冬子だけではなく、俺に対してもそうなのだが。
きっと、俺のことも雪音は嫌っているのだろう。それは、仕方の無いことだし、嫌っていても仕方の無いことを俺はしてしまったのだから。
しかし、家に帰ってそうそうこのやり取りはツライ。
ただでさえ、藍子と冬子のコトが遭ったばかりなのだ。
「あのさ、冬子に雪音……」
俺の言葉を遮り、
「冬子さんじゃなくて、冬子お姉さんと言ってもいいのよ? それと、『おじゃまします』ではなく『ただいま』と私は言ったわ」
冬子が余計なことをまた言った。
「……お帰り、冬子さん」
冷たい、いや、凍てつく寒さのようなものがこの場を支配してきた。
何とかしよう、そうしなければ俺の心が持たない。
「あ、あのさ二人とも、兎に角リビングに行かないか? 玄関で何時までもこのままってわけにもいかないだろ?」
「そうね、その通りだわ。あ、雪音ちゃん、夕飯は私が作るから今日は作らなくていいわよ。ちなみに、今日の夕飯はカレー。春の大好きなカレー。お肉は豚肉よ」
「そうですか。兄さん、そうゆうことはもっと早く電話で伝えて下さい。いいですね? 私は夕飯は要りません。宿題があるので部屋に戻ります」
雪音は俺の目を真っ直ぐ見つめながらそう言うと、自室に戻るため踵を返した。
「まてよ雪音。せっかく冬子が夕飯を作りに来てくれたんだ。だから要らないなんて言うな。それに、宿題なんてお前ならすぐに終わるだろうし、夕飯を食べ終わってからでもいいんじゃないか?」
頼む、雪音。冬子と二人っきりにしないでくれ。何を言われるか堪ったモノじゃない。まだ、冬子と雪音に挟まれた冷たい雰囲気の中にいるほうがましだ。だから頼む雪音。
「いいじゃない、春。雪音ちゃんが部屋に行っても。宿題は大切なことよ。本当に宿題はね。それに、夕飯を作っている間、今日の学校で会った藍子さんとのコトをもっと詳しく聞きたいわ」
お前、藍子とのコトをよりにもよって雪音の前でいうな!
「部屋に戻ります」
最悪だ。本当に最悪だ。
雪音の奴、いつにも増して機嫌が悪くなっていやがる。
部屋の扉を閉める音も家全体に響き渡るような大きさだし。
しかも、雪音の部屋からは何か大きな音がし始めているし。
本当に最悪だ。
「冬子どういうことだよ」
「何が?」
「何が? じゃなくて、どうして藍子のことを言った? それにどうして毎回毎回、雪音に絡む? ただでさえ、俺に対していつも機嫌が悪いのに今日はいつも以上に機嫌が悪くなったじゃないか」
「大切なことだからよ」
「大切なこと?」
「雪音ちゃんはね、いろいろなことを知っておいたほうがいいのよ。それにね、今日は機嫌が悪いけど、いつもは機嫌が良いはずよ」
笑顔で俺を見るな。
だいたい、いつも機嫌が良いだって? そんなはずあるか。俺といる時は大体無表情で何を考えているか分からない顔。何かを尋ねれば、感情のこもっていない声か、機嫌が悪い声色で返ってくるんだぞ。
それなのに、いつも機嫌が良いだなんて言うな。
「何? 信じられないの」
「信じられるはずが無いだろ。雪音がいつも機嫌が良いだなんて」
「それはね、春が冬木雪音という、か弱くてとても愛らしい一人の女の子のことを何も分かっていないからよ。まぁ、雪音ちゃん自身も自分のことを分かっていない、いや、アノ子の事だから分かっていても、分からない、知らない振りをしているのかもしれないわね」
まてまて、冬子。
どうして、俺以上に雪音のコトを知っている理解している? アイツのことを誰より分かっているのは俺だろ。
俺と雪音は今だけはたった二人だけの兄妹として、この家で何年も暮らしているのだから。
いつも一緒にいないお前に何が分かるっていうんだ?
「何、春。どうして俺以上に雪音ちゃんのことが分かっているって驚いた顔しているの? この事に関してだけは、分からない、分かるはずがない、分かっていいはずが無い、今はまだ分かってはいけないコトだから。そんなことよりも、夕飯、早く作りましょう。お腹が空いたわ」
今日一日のコトを冬子の夕飯を作る音に合わせて思い出す。
何がなんだか分からない。
今日は本当に疲れる一日だ。
さっきの冬子の思わせぶりの言葉、藍子の告白とその後の態度、雪音のいつも以上の機嫌の悪さ。本当にいつも以上に疲れた。
「カレーできたわよ」
「わかった」
「雪音ちゃん呼んでくるから、お皿に盛っておいて。ドレッシングは冷蔵庫の中に入っているから、味は好きなのにして」
雪音を呼ぶだと? アレだけ機嫌が悪くて部屋に行ったのに雪音の奴がココに来るとは思えないが。
「いや……雪音は」
「大丈夫、来るわよ絶対に。それに三人で私は食べたいの。じゃあ、呼んで来るわね」
そう言うと冬子は階段を上って雪音の部屋に向かって行った。
冬子に言われたとおり、冷蔵庫からドレッシングを出しサラダをテーブルに並べ、三人分のカレーをよそりテーブルに置き、俺は深くため息を吐きながら椅子に深く座り込んだ。
本当に大丈夫か大丈夫なのか? 本当に雪音は来るのか? 何も問題が無ければいい。もうこれ以上厄介ごとはゴメンだ。
「おまたせ、春」
「夕食にしましょう兄さん」
驚いたことに、冬子と雪音が一緒に来た。
さっきまで機嫌がすこぶる悪かったはずの雪音がいつもの機嫌の悪さに戻っている。
いったい何をしたんだ冬子?
俺が驚いて幾分か動きが止まっているのを尻目に、二人はテーブルに着いた。
俺の横に冬子。冬子の正面に雪音の席順だ。
「さぁ、食べましょう」
冬子の言葉を合図に三人ともカレーを食べ始める。
味は……旨い。本当に美味しい。昔食べたアノ人の味によく似ている。
「味はどうかしら雪音ちゃん?」
「嫌いです。不味くはないですけど嫌いです。食べられなくはないですが」
「おい、雪音」
「いいのよ春」
「特に豚肉なのが嫌いです」
豚肉? 雪音は豚肉が嫌いだなんて聞いたことは無いはずだが。
「カレーに豚肉は嫌いです。嫌です」
「でも、豚肉を選んだのは春よ」
こっちに会話を振らないでくれ。
「兄さん、なぜ豚肉にしたんですか?」
「いや、そんなのなんだって良いだろ」
「答えてください兄さん」
いやいやいや、カレーに何の肉を使おうがどうでもいいだろ。
冬子も笑っていないで何とかしてくれ。
「豚肉の方が好きだって春は言っていたわよ」
「おい、冬子」
「私は本当に豚肉でいいの? と聞いたわよ。春が豚肉を選んだのでしょう」
「確かに言ったが、アレは安かっただからで」
「豚肉の方が好きだとも言ったわね」
「いや言ったが、確かに好きだと言ったけど。そもそもカレーに何の肉を使おうが―――」
「兄さん今後カレーを作る際は豚肉を使わないで下さい」
「いや、どうしてだよ」
「今後使わないで下さい」
「いや、だから―――」
「使わないで下さい」
何故そこまで豚肉に拘る?
「いいですね」
「わかった」
こうして、俺と冬子と雪音による食事会は粛々と進み、終わったのだった。
余談だが、仕事から帰ってきた芽衣さんはカレーには鶏肉の方が好きとのことだ。