国を護ってきた聖女でしたが、用済みと処刑宣告されたので大人しく死を受け入れる……はずでした 〜自滅した愚かな王族たちは放置して、隣国の魔術師長様に拾われ幸せになります〜
「この偽りの聖女め! よくも『真の聖女』たるマリーナを害しようとしたな。貴様との婚約は今この時をもって破棄だ! 地下牢へ幽閉ののち――明日の正午、民衆の面前で処刑とする!」
豪奢なシャンデリアが照らす王城の謁見の間。
『偽りの聖女』として死刑宣告されたリリィは、それをどこか他人事のように聞いていた。
つい先ほどまでリリィの婚約者であった王太子エドルドが、そんな彼女を勝ち誇ったような笑みで見下ろしている。彼の腕の中には、リリィの義妹であるマリーナが「エドルド様、怖い……」と涙ぐみながらしなだれかかっている。
「申し開きはあるか、この悪女め!」
周囲を取り囲む貴族たちの侮蔑の視線が、床に跪くリリィに突き刺さる。
しかし、彼女の口から出たのは、弁明でも命乞いでもなく――微かな安堵の吐息だった。
(ああ……これでようやく、眠ることができる)
リリィは、反論する気すら起きなかった。
そもそも、義妹を害した覚えなど一切ない。マリーナは少しの擦り傷を治す力を、派手な演出で大層な魔法のように偽って見せびらかし、エドルドや貴族たちを誑かしただけだ。
彼らは知らない。リリィがこれまで、この王城の地下深くに封じられた『王族の呪い』を、毎日血を吐くような思いで浄化し続けてきたことを。
王城が呪われた土地の上に建っていることは、王族の権威に関わる最高機密だった。王都の人々はそれを知る由もない。
孤児として辺境でひっそりと暮らしていたリリィは、特異な魔力を見出されるや否や、当時の国王によって強引に王城へと連れ去られた。――それが、五年前のことだ。
極秘裏にこの任を押し付けられた彼女は、表向きは「祈りの間での瞑想」という名目を与えられ、誰にも知られることなく地下の瘴気へ魔力を流し込み続けてきた。
だが、その真実を知る国王が病に倒れ、新たに実権を握ったエドルドは、そんな裏事情など欠片も知らない。彼にとって、部屋に引きこもって祈りを捧げるだけのリリィは「古臭い慣習にしがみつく無能」であり、目の前で怪我を治して見せるマリーナこそが『真の聖女』だった。
それでもリリィは、無知なエドルドに見下されながらも、今日に至るまでの五年間、己の命を削って瘴気を浄化し続けてきた。罪なき王都の人々のためならばと。
睡眠時間は毎日二時間あれば良い方。肌は荒れ、目の下には消えない隈が張り付き、魔力枯渇による頭痛で立つのさえやっとの状態である。
そんなボロボロのリリィに比べ、よく食べよく眠り、綺麗に着飾ったマリーナの方が、よほど『聖女』らしく見えるのは、なんとも皮肉な話だった。
「黙っているということは、罪を認めるのだな! ええい、早くこの薄汚い女を地下牢へ連行しろ! 明日から城の浄化は、真の聖女であるマリーナが担う!」
エドルドのその言葉に、マリーナが彼の胸元で毒々しい嘲笑を浮かべた。
(……浄化を、マリーナが?)
城の地下に渦巻く、何百年分もの悍ましい怨念と瘴気。あんなものを、擦り傷を治す程度の魔力しか持たない彼女が抑え込めるはずがない。
一日、いや、半日もすれば結界は破れ、この王城は瘴気に呑まれて地獄と化すだろう。
リリィの中で一瞬だけ哀れみが込み上げたが、すぐにどうでもよくなった。それほどまでに、リリィは疲れ切っていたのだ。
「……承知いたしました。殿下。お二人とも、どうか、お幸せに」
リリィは震える足でなんとか立ち上がり、深く頭を下げた。
反発して無様に喚き散らすとでも思っていたのか、エドルドが拍子抜けしたように目を丸くしている。それを一瞥もせず、リリィは自ら進んで近衛兵に両腕を差し出した。
「なっ、なんだその生意気な態度は……! もう良い! 早くこの女を連れていけ!」
怒号を背に受けながら、リリィは兵に引っ張られるようにして、王城の地下深くへと続く石階段を下りていく。
やがて、カビと鉄錆の臭いが鼻を突く地下牢へと乱暴に突き飛ばされた。ガシャン、と重い鉄格子が閉ざされ、兵士たちの足音が遠ざかっていく。
罪人と断じられ死刑を宣告されたリリィに未来はない。
けれど、冷え切った石畳に身を投げ出された彼女の心は、これまでにないほど澄み切っていた。
(もう、魔力を振り絞らなくていい)
……命を削る痛みにも、耐えなくていいのだから。
(ここはなんて静かで、涼しいのだろう)
氷のように冷たい牢の中、リリィはそのまま石畳に身を横たえた。
明日には処刑される命だというのに、不思議と恐怖はなかった。
ただ、一つだけ。
――せめて、王都の人々には悪いことが起こりませんように。
それが、すべてを諦めたリリィの最後の祈りになる――はずだった。
◆
冷たく硬い石畳の上で、リリィは浅い眠りに落ちていた。
この五年間、まともに眠れたことなど一日もない。……地下牢の静寂がひどく心地よかった。
――キィン……。
ふいに、硬い硝子が軋むような耳鳴りが牢の中に響いた。
魔力の気配にリリィが重い瞼を開けると、何もないはずの空間がぐにゃりと歪んでいる。
空間の歪みから現れたのは、一人の男だった。
夜の闇を溶かしたような漆黒の髪に、知性を感じさせる紫水晶の瞳。豪奢な刺繍が施された最高級のローブを纏った彼は、長身で、酷く整った顔立ちをしていた。
とてもではないが、薄汚れた地下牢に似つかわしい人物ではない。
「お迎えに上がりました。私の、たった一人の女神」
男は一切の躊躇なく、汚れた石畳の上に優雅に跪いた。
ボロボロに汚れたリリィの細い手を取り、大切に、まるで壊れ物を扱うように恭しく口付けを落とす。
突然の熱を帯びた言葉と、手の甲に落ちた唇の感触に、リリィはびくっと肩を揺らした。
(め、女神……!?)
あまりにも突拍子もない呼称に目を白黒させ、咄嗟に手を引き抜こうとする。しかし、男の大きな手は優しく、けれど絶対に逃がさないという確かな力でリリィの指先を包み込んでいた。
(いえ、それよりも……)
「……あ、あの、あなたは?」
男は、ゆったりと口角を上げた。
「覚えてらっしゃらないのも無理はない。酷い怪我をして、泥水に倒れていた私を、あなたはその優しい光で救い上げてくれた。……それももう、六年も前のことですからね」
甘く、けれどどこか熱を帯びた声に、リリィの脳裏に古い記憶が蘇る。
六年前、王城へ連れてこられる前のこと。孤児院の手伝いで森へ薬草を摘みに行った際、血まみれで倒れていた見ず知らずの人物を助けたことがあった。
村の大人たちが『敵国の間者では』と物騒な噂を立てていたが、国の圧政で両親を失い孤児となったリリィには関係のないことだった。……何より、目の前の命が消えるのが嫌で、持てる力のすべてを使って治癒したのだ。
「あの時の……? いえ、それよりも、どうしてここに?」
「あなたをお救いするためです。私の名はノア。隣国にて、魔術師長を務めております」
にこりと、花が綻ぶような完璧な笑みを浮かべた彼――ノアは、リリィの体を軽々と抱き上げた。
「っ……!」
「……なんという軽さだ。この国は、あなたにどれほどの無理を強いてきたのか」
リリィのあまりの軽さに、ノアの紫色の瞳がスッと細められる。
彼の纏う空気が一瞬だけ氷のように冷たく、ひどく恐ろしいものに変わった気がした。しかし、リリィが注視しようとすると、先ほどまでの甘い微笑みに戻っていた。
「さあ、このようなおぞましい場所からはすぐに出ましょう。どうか、私の国へ」
「ですが……」
「ご心配には及びません。彼らは自らの意志で、あなたを不要だと切り捨てたのですから」
ノアは空いている片手を軽く振り、空中に小さな転移陣を展開した。
そこへ、あらかじめ用意していたらしい数枚の羊皮紙の束を滑り込ませる。
「今、エドルド王太子の執務室の机へ、私からの『置き土産』を送りました」
「置き土産……?」
「ええ。我が国からの正式な国交断絶書と、あなたが去ることで王城の結界が消失するという予測データです。……あちらがそれを読んで理解できるほどの知能を持ち合わせているかは、大いに疑問ですがね」
クスクスと、ノアは楽しそうに笑う。
その言葉の意味を理解し、リリィは息を呑んだ。
……それはつまり、法廷的にも外交的にも、隣国がこの国を助ける義理は『完全にない』と宣言したも同然だ。事実を隠蔽してリリィを搾取し続け、あまつさえ罪人として捨てたのはこの国自身。助けを乞う権利など最初からどこにもないのだと、真っ向から突きつけたのである。
「彼らには、自分たちがどれほど取り返しのつかない愚行を犯したのか……その身をもって学んでいただきましょう。何、安心してください。あの城の人間以外に被害が及ばないよう、手回しは完璧に済ませてあります」
逃げ道をすべて塞ぎ、合法的に絶望へ突き落とす。
それはあまりにも手回しが良すぎる、悪魔のように冷酷な所業だった。
しかし、リリィを見るノアの瞳には、狂気的なほどの執着と、溺れるような甘い愛情しか存在していない。
「あなたはもう、何も心配しなくていい。私にすべてを委ねて、ただ愛されていればいいんです」
空間が再び大きく歪む。
ノアの温かい胸の中で、リリィは五年間縛り付けられていた呪わしい王城から、あっけなく姿を消したのだった。
◆
その異変は、翌日の昼前に起きた。
王城の地下から突如として噴き出したどす黒い『瘴気』が、瞬く間に城内を飲み込み、阿鼻叫喚の地獄へと変えていた。
「ゴホッ、ガハッ……! な、なんだ、この肺が焼けるような瘴気は……っ!」
謁見の間。その床に這いつくばりながら、王太子エドルドは喉を掻きむしって咳き込んだ。
周囲では、昨日までリリィを嘲笑っていた貴族たちが、次々と泡を吹いて倒れている。
「マリーナ! 早く浄化しろ! お前は真の聖女だろうが!」
エドルドが血走った目で怒鳴りつける。
しかし、肝心のマリーナは、部屋の隅でガタガタと震えて泣き叫ぶばかりだ。
「む、無理よ、こんなの! 私の力じゃ……っ!」
マリーナが必死に両手を掲げ、微かな光の粒を生み出す。
しかし、それは圧倒的な瘴気の波に呑まれ、一瞬で掻き消えた。擦り傷を治す程度のハリボテの魔力では、何百年分もの怨念の塊に太刀打ちできるはずもない。
「この、役立たずめ!!」
パァンッ、と乾いた音が響く。
エドルドがマリーナの頬を力任せに張り飛ばしたのだ。
「な、何よ、その言い草! 仕方ないじゃない! こんなの聞いてないんだから!! あなただって『聖女なんて、そこにいればいいだけの楽な役目』って言ってたじゃない……!」
床に倒れ込んだマリーナは、醜く顔を歪めて泣き喚く。つい昨日まで愛を囁き合っていた二人の間には、もはや見苦しい責任転嫁の諍いしかなかった。
「へ……殿下っ……! 執務室に、隣国からの国交断絶書と、『結界消失の予測データ』を記した書類が……!」
「なんだと!? なぜそんな重要なものが今頃……」
這うようにして報告に来た側近の言葉に、エドルドの顔から血の気が引く。
……そういえば今朝、机の上に見慣れない羊皮紙が置かれていた。だが、公開処刑の準備で頭がいっぱいだったエドルドは、「どうせ下らない報告書だろう」と中身も見ずに床へ払い落としていたのだ。
(まさか……あの薄汚い女がいなくなったせいで、結界が……!?)
ようやくエドルドが己の致命的な過ちに気づいた、その時だった。
「おや。随分と賑やかなようで」
重厚な謁見の間の扉が開き、涼やかな声が響き渡った。
そこに立っていたのは、夜の闇を思わせる漆黒の髪と、紫水晶の瞳を持つ長身の男――隣国の魔術師長、ノアであった。
城内を満たす濃密な瘴気の中にあって、彼だけは違った。その身を包む完璧で清浄な結界が、一切の穢れを弾いている。豪奢なローブを纏い、優雅に微笑むその姿は、地獄に舞い降りた死神のように美しく、そして恐ろしかった。
「貴様は……隣国の特使か! ちょうどいい、早く我々を助けろ! この瘴気をどうにかするんだ! あと、牢から逃げたリリィを捜索して連れてこい! まったく、あの女、勝手な真似を……!」
王太子としての傲慢さを捨てきれないエドルドが、すがるような、それでいて命令するような口調で叫ぶ。
しかし、ノアは哀れな虫けらを見るような目で彼を見下ろした。
「……穢れたあなた方の口で、リリィ様の名を気安く呼ばないでいただきたい」
「なっ……!?」
「彼女は、我が国に招かせていただきました。今頃、温かいベッドでゆっくりとお休みになられているはずですよ」
「き、貴様が連れ去ったのか!?」
「私はただ、恩人である彼女をお救いしただけです」
ノアは、リリィの話をする時だけは表情を和らげた。
しかし、エドルドたちに意識が戻ると、それは即座に氷のように冷たいものへと変わる。
「『真の聖女』たるリリィ様を一方的に断罪し、処刑宣告までしておいて、今更助けを乞うだなんて――随分と虫の良い話ですね?」
ノアがゆったりと微笑みを深める。
その紫水晶の瞳に射すくめられ、エドルドはヒュッと喉を引き攣らせた。しかし、己の死を予感したエドルドはなりふり構わず、青ざめた顔で必死に捲し立てる。
「わ、我が国が滅びれば、隣国も無事では済まんぞ! 瘴気は王都の民も巻き込み、やがて国境を越える!」
恐怖に歯の根を合わなくさせながらも、エドルドは己の命惜しさに必死の虚勢を張った。
「ご心配なく」
ノアは楽しげにくすりと笑い、杖の先で床を軽く叩いた。
「我が国の優秀な魔術師たちが、すでにこの王城の周囲を『瘴気を外に逃がさないための結界』で完全に覆い尽くしております」
「……は?」
「王都の民には、指一本触れさせませんよ。あなたがたの腐りきった呪いは、この城の中だけで完結させてください」
その言葉の意味を理解し、エドルドは絶望に目を見開いた。
ノアは最初から、国を救いに来たのではない。エドルドたちを王城という名の『棺桶』に閉じ込め、外へ逃がさないために蓋をしに来たのだ。
「ま、待ってくれ! 私が悪かった! だからリリィを……リリィをここに連れてきてくれ! あの女にこの瘴気を払わせれば済む話だろうがぁっ!」
どこまでも反省せず、自らの保身のためにリリィを道具扱いするエドルド。その醜態に、ノアの瞳から完全に温度が消え去った。
「お断りします。彼女を不要と切り捨てたのは、あなた方ご自身だ。今更もう、遅い」
悲鳴を上げてすがりつこうとするエドルドを、ノアは冷酷な一瞥だけで退けた。
「彼女がたった一人で耐え続けてきた五年間分の地獄――何百年にも及ぶ『王族への呪い』を、瘴気を……どうぞ、ごゆっくりご堪能ください」
踵を返し、優雅な足取りで立ち去っていくノアの背中を、エドルドたちはただ這いつくばって見送ることしかできなかった。
閉ざされた扉の向こうに、愚か者たちの後悔の叫びが木霊する。だが、その声が城の外に届くことは、二度となかった。
◆
ふわりと、鼻先を掠める甘い花の香りで、リリィはゆっくりと目を覚ました。
体を包み込んでいるのは、雲のように柔らかく温かい、上質な寝具だ。冷たく硬い石畳の感触も、常に肺を圧迫していた淀んだ空気も、ここにはない。
窓から差し込む穏やかな陽光に目を細めていると、静かに部屋の扉が開いた。
「――お目覚めですか、リリィ様」
入ってきたのは、漆黒の髪を持つ美しい青年。確か――。
「……ノア、様……?」
「『ノア』とお呼びください」
「そんな……」
彼はベッドの傍らまで歩み寄ると、ホッと安堵したように目尻を下げ、愛おしげにリリィの頬にそっと触れた。
「あの、ここは……?」
「我が国の、私の屋敷です。数日の間、ずっと眠っておいでだったので……心配しましたよ」
ノアの温かい手の平の感触に、リリィは自分が本当にあの薄暗い地下牢から救い出されたのだという事実を、ようやく実感し始めていた。
……しかし、同時に胸の奥をチクリと刺すものがあった。
「ノア様……私がいなくなって、王国はどうなったのでしょうか。結界が消えれば、城の地下にある瘴気が溢れ出して……王都の人たちが……」
自分を虐げてきた王族たちへの未練はない。しかし、何も知らない罪なき人々まで犠牲になるのは、どうしても耐えられなかった。
青ざめるリリィを安心させるように、ノアは優しく首を振った。
「ご心配には及びません、私の心優しい女神。……王城のあなたを虐げた人間たちは今頃、自分たちの行いの報いを受けている最中ですが、王都の民には一切の被害が及びません」
「え……?」
「我が国の優秀な魔術師たちが城の周囲に完璧な結界を張り、瘴気を外部へ一歩も漏らしていません。それに――」
ノアは少しだけ冷徹な、しかしどこかすっきりとした笑みを浮かべた。
「……あの国の王族たちが敷いていた圧政には、我々も頭を悩ませていました。ただ、他国の内政に干渉するわけにもいかず、機を窺っていたのです。しかし今回、彼らが自ら結界を崩壊させ、自滅してくれた。大義名分を得た我が国は、早急に人道支援と治安維持のための部隊を王都へ派遣し、混乱が起きぬよう保護の手はずを整えてあります」
「では……王都の皆さんは無事なのですね……?」
「ええ。我が国の兵士たちはあくまで治安維持に留め、住み慣れた街で民衆が安心して暮らせるよう、新しい自治体制の設立を陰から支援しているところです。幸い、あの愚かな王族から冷遇されていた良識ある貴族たちが残っていましたから、彼らが中心となって国を正しく導いてくれるでしょう」
「……王城はどうなるのでしょう」
「罪ある者たちがその罪を償い、呪いが鎮まり次第、あの城は浄化し、更地にいたしましょう。二度とあの禍々しい歴史が繰り返されぬよう」
王族という「腐った機能」が消滅し、隣国の協力による平和的な再編が進められる――。
それは、ただの崩壊ではなく、虐げられ続けた民衆にとっても真の意味での「救済」だった。
その言葉に、リリィの目からポロポロと大粒の涙が溢れ出した。
――もう、自分が身を削って結界を維持する必要はない。
――王都の誰もが、もう理不尽に苦しめられなくていい。
五年間、リリィの小さな肩に重くのしかかっていた『聖女としての呪い』と、民を背負わなければという責任感が、完全に消え去った瞬間だった。
「……っ、ああ、よかった……本当によかった……っ」
両手で顔を覆い、子供のように泣きじゃくるリリィを、ノアはそっと抱き寄せた。
広い胸にすっぽりと包み込まれ、規則正しい心音を聞いていると、不思議と心が安らいでいく。
「あなたはもう、誰かのためにその身を削る必要はありません」
ノアはリリィの銀色の髪を優しく撫でながら、耳元で甘く、熱を帯びた声で囁いた。
「六年前、森で怪我をして倒れていた私を、あなたはご自身の身の危険も顧みず、素性も問わずに助けてくれた。あの見返りを求めない優しさがなければ、今の私はありません」
「ノア様……」
「あなたが過去に蒔いた無償の善意が、巡り巡って、あなた自身を救ったのですよ。……ですから、どうかご自分を誇ってください」
そう言って微笑むノアの紫水晶の瞳には、ひたむきで、どこまでも深い愛を湛えた感情が揺れていた。
「痛い思いも、苦しい思いも、二度とさせない。これからのあなたの人生は、すべて私に委ねてはいただけませんか?」
「……っ」
「あの日から、私の心はあなただけのものです。……絶対に、もう離しません」
執着すら感じさせる重い愛情の言葉。
けれど、誰からも必要とされず、ボロ雑巾のように捨てられたリリィにとって、それは何よりも欲しかった『温もり』だった。
至近距離で見つめ合う、端正な顔立ち。自分だけへ向けられる熱の籠もった眼差しに、冷え切っていた心がじんわりと溶かされていく。この温かく広い背中に縋りたい、この人となら新しい未来を歩んでいける。リリィは自然とそう思えた。
彼女はノアの背中にゆっくりと腕を回し、その胸に顔を埋める。
「……はい。よろしくお願いいたします、ノア様」
涙で濡れた顔を上げて微笑むと、ノアは一瞬だけ息を呑み――やがて、春の陽だまりのように優しく、心からの笑顔を見せた。
かつて国を裏で救いながらも罪人として捨てられた真の聖女は、隣国の冷酷で過保護な魔術師長に溺愛されながら、これからの日々をどこまでも幸せに生きていくのだった。
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