第15話 心の傷 人生の一部品 貴女が与えてくれたもの 口づけの嵐
追記+イラスト差替えver.
「…あの2年のことは全て覚えています。
僕は記憶を司る神鼠ですから、基本的に物事を忘れません。
僕自身に神通力をかけて忘れることはできますが、
絶対に思い出せなくなります。
あの誘拐戦争と独立運動は大きな動きです。
あの2年の中に、重要な出来事や証拠がある可能性がある。
だから、意図的に忘れることはできない。」
リヒトさんは、繋いだ手に力を込める。
「感情を失っていた間は、あの出来事は、僕にとって、ただの事実でした。
よく自分が苦しむ悪夢を見ましたが、
目覚めれば『夢を見た』と思うだけです。」
リヒトさんは黙っている。
「でも、その代わり、僕の日常は、
何も書いていない白紙のページを一枚一枚めくるような日々でした。
そのときに、貴女が来た。」
リヒトさんの手がピクリと動いた。
「貴女が心配しているように、
感情が戻って来ると同時に、例の2年の記憶は、ただの事実ではなくて、
不快な記憶として蘇りました。
でも、貴女によって再生されたものは、それだけじゃない。」
僕たちは人通りのない狭い路地に入った。
坂になっている路地の突き当りには、日光が広がって、猫が昼寝をしている。
「お腹はすくし、食べ物はおいしい。
難しい問題の解を見つけて興奮する。
風呂に入ったときは気持ちいい。
ぐっすり眠って晴れた朝には伸びをする。
そういう、当たり前の感覚が、感情を伴って戻って来たんです。」
僕は、坂道を上りながら、リヒトさんの手をしっかり握った。
「貴女が大暴れして、皆が大慌てするのはおかしかった。
貴女に会う時間が来るとき、ソワソワする。
貴女が僕を見ると、もっと見てほしいと思う。
貴女の顔を見たら心が浮き立って、
貴女に会えなかったらがっかりして、
次に会える予定をそっと確認する。」
リヒトさんは立ち止まってそっとつないだ手を離した。
肩を震わして、顔を覆っている。
僕は、路地の突き当りまで数歩進んで日光を浴びると、
リヒトさんを振り返った。
「リヒトさん。
貴女が再生してくれた感情は、数えきれない。
僕の人生のページは、
貴女が僕に襲い掛かったあの日から、
たくさんの色彩で溢れている。
あの2年は、今はもう、僕という人間の、一つの部品に過ぎないんです。」
リヒトさんは顔を上げて、僕が浴びる日光を眩しそうにした。
「もちろん…貴女に触れようと思うたび、
こんな穢れている自分でいいのかと考えます。
貴女への触れ方が、あの連中の動きをなぞっている気がするのは、
特に僕を苦しめる。」
リヒトさんは顔を歪めて、小さく顔を横に振ってくれる。
「もしかすると一生逃れられないのかもしれない。
でも、それでも、色とりどりの僕のページの一部品なんだ。
僕は、貴女が僕に命懸けで与えてくれた感情を、
その一部品だけで無駄にしたりしない。
絶対に!」
リヒトさんの夕日色の瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「だから、リヒトさん…気持ちはとても嬉しいけど、
あなたがそんな…
自分の身を売ってまで、僕とフェアになろうとする必要は、もうないんだ。」
僕はリヒトさんに手を差し伸べた。
「こっちに来てください。」
リヒトさんは鼻をすすりながら涙を拭っている。
「こっちに来て?」
リヒトさんはうつむいている。
きっと考えているのだ。
僕は、リヒトさんの後ろから、こちらに向かって来る猫を見つけると、
思いついて、そっと呼び掛けた。
「リヒトさん、猫さん、こっちに「こい」…」
リヒトさんは、自分を通り越していく猫にハッと目をやると、
その猫と同じように、ソロソロと滑らかに僕の方に向かってきた。
僕は膝をついて手を広げた。
リヒトさんは崩れ落ちるように僕に抱きついて、
何かを言おうと、僕の顔を見上げたが、
僕は、その震える唇に、思い切り僕の唇を押し当てた。
「フェア計画は絶対にしないと、僕に誓ってください。」
僕は、唇をつけたままリヒトさんに言う。
「し…ない…」
リヒトさんは少し喘ぎながら言う。
僕も息を荒くしながら、それでも唇は離さないまま、話し続ける。
「もっとはっきり…僕に誓ってください…リヒトさん…」
「絶対に…しま…せん…」
リヒトさんの言葉に、僕はもう一度、今度はもっと長く唇を押し当てる。
呼吸が苦しくなるほど押し当てて、そっと唇を離すと、
リヒトさんが、耳まで真っ赤にしながら、目を逸らして囁いた。
「馬鹿リヒトだ、私…」
僕は大きく首を横に振った。
「これを言ってくれたから、
僕は、心のしこりになっていた虐待に向き合って、
さっきの言葉を言うことができました。」
僕はリヒトさんに口づけを繰り返す。
「貴女の優しいフェア計画は、僕の人生の彩になりました。
今度は僕の番だ。
リヒトさんがロベルトのことで苦しむときは、いつでも僕がフェア計画を立てます。」
リヒトさんは、僕の唇から逃れて、
「エェ?嫌だよ、君が身売りするなんて…」
と言いかけたが、賢いリヒトさんは、ちょっと自分を指差してクスリと笑う。
「君の気持が分かった」と言うように。
そんなリヒトさんを見て、僕は勇気を出して、ちょっと咳払いしてから話し始めた。
「リ、リヒトさん…前からずっと聞きたかったんですけど、
リヒトさんは、僕のことを…」
【グ―――――ッッ】
リヒトさんはパッと自分のお腹を押さえて、「私だ…」と照れ笑いする。
「乾パンとソーセージ半分しか食べてないから…」
「そうでした…僕が食べちゃいましたから。
お祭りに戻って、たくさん食べましょう。」
僕はリヒトさんを抱き上げて、坂道を下り始めた。
路地の先に、いよいよ賑わう祭りが垣間見えた。
十二支と神鼠は猫に「こい」
第Ⅰ章(人生の 最後のページで 見えるもの):https://ncode.syosetu.com/n5418ls/
第Ⅱ章(禁忌の竜):https://ncode.syosetu.com/n3802lt/




