第10話 呼んでほしくない人に限って 愛称で呼んでくる
猫の天神の石の間から出た瞬間、シリウスがそっと私を抱き上げた。
「リヒトさん、裸足です。」
「だ、大丈夫…」
「歩くの、辛いでしょう。」
シリウスはそのまま歩き出す。
しかし、いつものような足取りではないことに気付いてそっとシリウスを見上げる。
シリウスの髪が汗でぐっしょりと濡れ、ひどく乱れている。
薄い狩りの服も、薄汚れて汗で張り付いている。
顔も、土気色でやつれ、くっきりと隈が浮かんでいる。
すぐ外にいた馬に乗り、走り出す。
夜明けの空は冴え、明けの明星が光っている。
しかし、シリウスは、気力、体力、精神力、神通力の限りを尽くし、もう限界のようだ。
「リヒトさん、近くの門前町で宿をとります。」
シリウスは低い声を絞り出した。
************
ほどなく宿は見つかった。
シリウスは、部屋に入ると同時にベッドに倒れ込んだ。
私は、「大丈夫?大丈夫?」とオロオロしてしまう。
シリウスの無尽蔵の体力が切れたことなどなかったのだ。
シリウスが背負っていた布袋を何とか外し、
掛け布団を引っ張り出して身体にかけようとしていると、
ふいに声が聞こえた。
「どうして、テオは『リティ』と呼んでいいんですか?」
「…えッ?」
意表を突かれ過ぎて、混乱する。
「テオは、貴女に、『リティ』と呼ぶことを許してもらったと言いました。
呼び方一つで、僕とテオに差がついている、と。」
「な、なんか違う…」
「違わない。僕は、愛称で呼ぶことを許してもらっていない。」
「愛称とか、そんな話なかったし…」
「でも…リヒトさんは…プロポーズされたんでしょう?テオに。」
「うん…そうだけど…」
「リティと呼ばせたりして…と…特別…なんですか?テオが…」
「ああああ―――――…」
私もベッドに倒れ込んだ。
私をリティと呼ぶ男は、どうして皆、私を悩ますんだろうか。
「あのね、もともと、テオ様が、勝手に私を「リヒト」って呼び捨てで呼んでたの。
私が、やめてほしいと言ったら、何か呼び方を考えてくれって…
大学で、私を苛めていた学友いたでしょ?
あの人たち、私のこと「リティ」って呼んでたの。
それを思い出して…
めんどくさいから「リティ」って呼ぶのはどうかって提案したの。
それだけ。
これで伝わった…?」
シリウスは、弱々しいアクアマリンの瞳でジッと私を見つめて、困ったように笑った。
「なんだ…そんなことだったんですか…
僕は、馬鹿シリウスですね。」
ふと、私自身も、マリア様のことでモヤモヤと悩み続けていたことを思い出した。
自分にとっては当然のことも、
はっきり伝えなければ、相手の悩みの種になってしまうことを。
私は、汗ばんだシリウスの額の刻印にそっと指を置いた。
「プロポーズも断ってるわ。
テオ様も言ってた…私は取りつく島がないって。」
シリウスは、私の指をそっと握って、ゆっくりと唇に持っていった。
「私…シリウスの『リヒトさん』っていうの…優しくて…いいと思う…」
「ありがとう…」
シリウスはふわりと笑って、瞼がゆっくりと閉じていく。
私の手を握る力も徐々に緩んでくる。
シリウスは、私の心がテオ様にあると思い込んでいながら、
必死に、私を助けに来てくれたのだ。
そのくせ、テオとくっつけるために、
助けた私と距離を取ろうとしていたんだろう…
私は胸がいっぱいになって、唇を噛みしめた。
外は既に明るく、労働を始める人々の気配もする。
窓から自然の光が差し込んでくる。
光を受けて眠る、シリウスの顔を眺める。
やつれて薄汚れた顔。
閉じた目に長い睫毛。
銀髪は乱れるだけ乱れ、波打って顔を縁どっている。
私は、寝返りを装ってシリウスに思い切り近づいた。
私の額に、シリウスの寝息が少しかかる。
シリウスの汗っぽい熱気がマットを通じて体に伝わる。
恐ろしい記憶も、
今この時だけは遠くに去っている。
秋の十二支会議の晩餐会の日から、いったいどれだけの出来事があっただろう。
もう思い出せない…
「呼んでほしくない人に限って、愛称で呼んでくるのは…どうしてだろう…」
気づけば、私も泥のように眠り込んでいた。




