降臨
朝起きてキッチンに行くと、いつものように父さんがダイニングテーブルで新聞を読んでいた。母さんは味噌汁をよそっていて、妹のマリは鼻をほじって食べていた。
いつもの光景だ。布団から出られない俺がだいたい最後だから。こんな寒すぎる季節に、よくみんな起きて行動できるよな。鼻くそなんか下手したら凍るだろ。
「おはよう」
そう声をかけると、三人が同時にこちらを振り向いた。そして、動きが止まった。
目が合った瞬間、彼らの視線にいつもの温かさがないことに気がついた。俺、なんかしたか⋯⋯?
数秒の沈黙の後、三人は俺の前に整列するように集まり、床に手と膝をつき、額を擦りつけるような深い土下座の姿勢をとった。
「ちょっと、みんなどうしたの?」
そんな俺の言葉も聞こえていないかのように、じっと床を見つめている。
「おはようございます」
「おはようございます」
「おはようございます」
三人は抑揚のない声でそう言うと、テーブルのほうへ歩き出した。
父さんは新聞をゴミ箱に捨ててテーブルに向き合うように座り、マリも同じく小指の爪についていた鼻くそをゴミ箱に入れて座り、母さんは味噌汁の続きに戻った。
三人とも、どこを見ているのか分からないような目をしている。
「何があったの? みんなどうしちゃったんだよ!」
俺の声に反応した父さんが、こっちを向いた。
「どうもしておりません」
なんで⋯⋯なんで敬語なんだ⋯⋯
「なぁマリ!」
「どうもしておりません、お兄様」
「お兄様!? お前今まで俺のことウンコって呼んでただろうが!」
「これまでの無礼、深くお詫び申し上げます」
そう言ってマリは再び土下座の体勢になり、動かなくなった。
普段の生意気さを悉く失い、まるで人形のように無感情になった妹の姿に、俺は言い知れぬ恐怖を覚えた。
「どうしちまったんだよ⋯⋯!」
「拓也様、こちらをお召し上がりくださいませ」
母さんまで⋯⋯
「なぁマリ、何があったんだ? なんでみんな敬語なんだ? ドッキリかなにかか? ユーチューバーが来てるのか? ヒカキンか? セイキンか? けんた食堂か?」
「何もございません。私どもにとってお兄様は遠い存在なのです。ですから、敬うのです。それは当然のことなのです」
「何言ってんだよ⋯⋯なぁ父さん! 何があったんだよ!」
父さんは少し困ったような顔をして、それから穏やかに微笑んだ。普段の優しさとは違う、偽物みたいな、寒気のする笑顔だった。心に絶望が芽生え始める。
「いえ、特に何もございませんよ。拓也様がお元気そうで、何よりでございます」
聞き馴染みのない父さんの敬語が胸に突き刺さる。家族なのに、なぜこんなに遠い? 孤独感が一気に襲いかかり、涙がにじむのを抑えるのに必死になる。
「拓也様、こちらお飲み物でございます」
拓也様。
なんなんだよ。
俺の名前を様付けで呼ぶ母さんなんて⋯⋯
昔、いつも幼稚園の送り迎えをしてくれた母さん。
風邪をひいた時に、夜中まで額に冷たいタオルを当ててくれた母さん。
俺が問題を起こした時も、いつも味方をしてくれた母さん⋯⋯
俺は耐えきれなくなって、母さんの手を握った。
母さんの手は、体温を感じなかった。
「母さん、俺だよ! 拓也だよ! どうしてそんな話し方するんだよ! 」
母さんは驚いたような顔をして、それから優しく俺の手を握り返した。
「はい、拓也様でございますね。いつもありがとうございます」
母さん⋯⋯もう、みんなダメなのか⋯⋯?
三人が恐ろしくなった俺は後ずさり、いつの間にかリビングに入っていた。リビングのテーブルに、一枚の写真が立てられていた。
そこには父さんと、母さんと、マリが写っていた。笑顔で、幸せそうに。そしてその写真の中央に、俺の姿はなかった。元々あったはずの場所が、丁寧に切り取られていたのだ。
「母さん、なんだよこれ⋯⋯自分の息子の写真を⋯⋯」
「息子ですか? 息子は先日死にました。だから全てを切り抜いたのです。死んだのですから、この世からいなくなったのですから、切り抜いて捨てたのです」
「死んだ⋯⋯? だって俺はここに⋯⋯」
「あなた様は拓也様です。息子ではなく、拓也様です。あなた様は私どもの息子ではなく、拓也様です。拓也様です。息子ではなく、拓也様です」
「そうです、母さんの言う通りです。あなた様は私どもの息子ではなく、拓也様です。息子なんかではなく、拓也様という、ありがたいお方なのです」
「嘘だ! 俺は死んでないし二人の息子だ! マリの兄だ!」
「あなた様は私の兄ではありません。兄は死にました。それから、お兄様が降りていらっしゃいました」
「ありがたや」
「ありがたや」
「ありがたや」
「もうやめてくれよ⋯⋯! 三人ともどうかしてるよ! ふざけてるだけならもう終わりにしようよ! 怒んないから! もー! ヒカキンいつ来るんだよ!」
「ありがたきお言葉」
「なんて素晴らしい⋯⋯」
「お兄様、お兄様、お兄様ぁ!」
「いい加減にしてくれよ!」
つい、マリの頬を叩いてしまった。
マリは一瞬驚いたような表情を見せると、頬を押さえた。
「ありがとうございます」
「娘を叩いてくださいまして、ありがとうございます」
「ありがとうございます」
なんなんだよ⋯⋯
マリは娘なのに、俺は息子じゃないってのかよ。
気がつくと、俺は台所にあった包丁で母さんの胸を刺していた。
小さな体をプルプルと震わせ、苦痛に顔が歪んでいるようだった。服に血が広がる。
「あり⋯⋯がとう⋯⋯ございます」
俺の目を見て、涙を流しながら、絞り出すようにそう言った。
「ありがとうございます」
「ありがとうございます」
父さんとマリも同じように聞き飽きた言葉を発していた。
気持ちの悪い家族だと思った。
そこから先は、覚えていない。




