誰が袖
「東宮さま。」
「なんだ。」
宮城にしばらく滞在した後、約束通りに天壇へと戻っている最中だった。
あたりはすでに日が落ち、質量があるようにも思える闇が煙のように充満している宮城内に人気はない。
それでも、普段は確実に人目につかない場所か必要な場合にしか燦黯に話しかける事のない高忠がこうして声をかけるのは珍しい事だ。
「私のせいで妙な噂が流れかけ、挙句には燻輝様に借りを作ってしまい、申し訳ありません。」
「私が対応を間違えただけだ。気にするな。」
燦黯は生真面目な部下の方を見やり、出来うる限り軽い調子で返す。
先程のような事は、さして珍しい事では無かったからだ。
「燻輝は、御史大夫の元に向かったはずだが………どうなっているであろうな。」
まさか、斗綺が帝への道の重要な鍵になるとは思っていなかった。
高忠は燦黯の独り言には答えず、ただ俯いて後ろをついてくるだけだ。
「高忠、お前、妙な夢を見るか。」
歩を止める事も振り返る事もせず、燦黯は自身の部下に問う。
もう暫くすれば、斗綺と珱子が待つ天壇に到着する。
それまでに答えを得られなければ、燦黯は無理に聞くつもりはなかった。
高忠は物怪やら何やらの荒唐無稽な話を好むような部下ではない。
だから、答えはないと思っていた。
「見ます。」
「………どんな夢だ?」
思いの外素直に返ってきた答えに、燦黯は前を向いたまま軽く目を見開く。
後ろにいる高忠の姿は見えないが、声は普段通りの平坦で落ち着く低い声だった。
「昔の、夢です。まだ、貴方に会う前の。」
「そうか。」
燦黯が高忠に初めて会った時の、高忠の姿が燦黯の脳裏を過ぎる。
「家の者に、折檻されている夢です。」
昔の彼は、酷く痩せていて、身体中傷だらけだった。
その代わりに聡明さを讃える光と諦めの濁りが同居した瞳が酷く美しかった。
「貴方と会う直前に、いつも夢が終わります。」
当時の燦黯は、落ちこぼれと言われて空気のように扱われていた自分にも一人前の証である家臣がつく事を誇らしく思っていた。
だから、傷だらけの心身の目の前の高忠を、守らなければならないと思った。
そして、その美しい瞳を濁らせる諦めを払拭したかった。
「お前を折檻する者達は、お前の袖を引いてはおらんか。」
「東宮さま、いい加減にそのような話をなさるのは____」
「引かれておるのだな?」
高忠の声を遮り、強く問い返すと、高忠は黙り込む。
燦黯は気にせずに問いを投げかける。
「袖を振り払う事は、できぬのか?」
燦黯が思うに、引かれている袖を自ら振り払えば助かる。
玉静が助かったのは、恐らく彼の母の手を振り払ったからだろう。
死んでいった者達は、死者の夢に囚われ、引かれる袖を振り払う事が出来なかった。
だから、かえれなくなってしまった。
「袖を引いているのは誰だ?其方が振り払えぬ手は、誰のものだ?」
振り返り、その美しい瞳を見ながら問うと、高忠は諦めたように目を伏せた。




