宮城
天壇を後にし、燦黯が向かったのは、多くの人が行き交う皇居。
皇居といっても、住む者がいないその場所は現在、官僚達が推薦する東宮を選ぶための場所であり、東宮達が自分を売り込む為の場所となっている。
その為、他の皇位継承権を持つ者達は朝から晩までここにいる。
ここで自分を推薦してくれそうな者を探し、時には自身を売り込む。
残り時間が少なくなってきた今は、燦黯以外の候補者は皆ここにいる様だった。
八つ時からここに顔を出すのは、燦黯くらいのものだろう。
「東宮さま、まずは推薦を約束している者達に念押しを……」
「おお、燦黯じゃないか。」
皇居の庭で誰とも話す事なく立っていた燦黯に最初に話しかけたのは、燦黯と同じく皇位継承権を持つ男、要は燦黯の兄だ。
名は蠢材と言う。
「全然来ないから心配してたんだぜ、おれぁ。」
自身の従者を幾人も従え、蠢材は燦黯の肩に腕を回す。
燦黯は身がすくみそうになるのを耐え、笑顔で対応する。
昔から、この兄は‘格下’と見た者に容赦がない。
「ようやく帝になるのを諦めたと思ったのに、まだここに来るなんてな。」
周りの官僚達には聞こえない様、燦黯の耳元に口を近づけて言う蠢材に、燦黯は黙って耐える。
「お前なんて、燻輝の出涸らしなんだ。とっとと諦めろよ。」
何も言わずに黙っている燦黯に嫌気がさしたのか、蠢材は舌打ちをすると燦黯の肩に回されていた手をきつくする。
「なぁ、おれは忠告してやってんだぜ?万、いや兆に一つお前が帝になったとして、だ。お前の付き人は猋家の奴が一人だけだろ?それも、出来損ないで有名な……」
「高忠は出来損ないではありません。」
黙っていようと決めたのに、燦黯は思わず鋭い声を出し、気づけば蠢材の手を振り払っていた。
突然の抵抗に、一瞬驚いた様な顔をした蠢材だがすぐに表情を変えた。
最初は驚き、次に気に食わないという顔、最後には白々しく悲しげな顔を作り上げた。
「おお、弟よ!兄の心配をこの様に手酷く振り払わなくとも良いではないか!兄はただお前に辛く苦しい道を歩んでほしくはないと思っているだけなのだ!」
兄の放った言葉に、燦黯は不味い(まずい)、とだけ思ったが、時は既に遅かった。
「何だ?誰が揉めている?」
「あれは………近頃は全く姿を見せなかった末の東宮様ではないか。」
「それにしても、兄の心配を振り払うとは何と無礼な………」
小さい漣の様な声は、すぐに宮城全体に広がった。
小さく交わされる会話の中で、燦黯は無礼な弟、蠢材は弟を心配しただけなのに振り払われた優しく弟思いな兄。
どちらの方が帝に相応しいかなど、一目瞭然だった。
「東宮さま。」
高忠がそっと声をかけてくるが、燦黯は何も言えず、ただ立ち尽くすことしかできない。
これが帝を選ぶ期間でなかったら、最終選考期間でなかったら、燦黯はいくらでもこの失態を取り戻す術を考えられただろう。
しかし、五日後には帝を選ぶ様な時期でのこの噂は、もう取り返しがつかない。
燦黯が帝になることは出来ない。
燦黯が緩慢な動きで宮城から出ようとすると、目の前に蠢材が立ちはだかった。
その後ろには、多くの従者を従えている。
「気をつけて帰れよ。」
勝ち誇った笑みで、燦黯の肩を叩く。
燦黯は唇を噛みながら宮城を後にするしかない……と思った。
「お待ちになって。」
凛とした声が宮城に響く。
決して大きくはないが、その声を聞いた者達は静かに声の主の為に道を開けた。
そこに立っていたのは、燦黯も見知った顔だった。
「蠢材、また燦をいじめたのね。」
「いっ、いじめてなんかいないさ。こいつが俺の心配を…」
「燦が人の手を振り払う訳ないわ。燦は優しいもの。」
そう言って燦黯に目配せをするのは、燦黯の双子の姉、爛 燻輝。
現在、最も帝に近いとされる皇位継承権を持つ春宮だ。
燦黯は姉の目配せの意味を察し、一歩前に出る。
「蠢材……兄上は、私の付き人を侮辱しました。私はそれが許せず、つい手を払ってしまいました。どうか、無礼をお許しください。」
前半は姉の燻輝に、後半は蠢材に向けて丁寧すぎるほど丁寧に言葉を紡いだ。
それを聞いていた蠢材は顔色を悪くし、反対に燻輝は満足そうに微笑む。
「蠢材、嘘を認めるのなら今のうちよ。」
燻輝はそう言って蠢材を一瞥する。
例えここで蠢材が認めなくとも、燻輝がこうだ、と言ったことの方が宮城の噂となる。
それ程に、燻輝の影響力は強い。
こうして一応は対立関係にある他の東宮を助けられる程度には余裕がある程に。
「分かったよ、俺が悪かった!」
あっさりと嘘を認めた蠢材は、燦黯ではなく燻輝に謝罪をしてから逃げるように宮城を後にした。
これで燦黯は帝になれる可能性がある。
しかし、それはあくまでも可能性であり、その可能性を掴み取る事は随分と難しい。
「見たか、今のお姿を。」
「ああ、濡れ衣を着せられた弟君をお助けになったぞ。」
「御姉弟ではあるが、現在は帝の地位を争う敵同士であるのに、何と懐が深い。」
「ああ、今迄の男方の帝とは違い、きっと慈悲に溢れた聡明な帝になられる。」
ただでさえ強かった燻輝の威光が、今回の件で更に増した。
燦黯は助かったが、結局のところ帝から遠かったと言う事実だけは変えられない。
しかし、助けてくれた姉には感謝しなければならない。
「姉上、口添えいただき感謝いたします。」
そう言って燦黯が頭を下げると、燻輝は慈愛に満ちた優しげな笑顔を見せる。
「いいのよ。お前はわたしの可愛い弟だもの。それより、最近はこちらに顔を見せていないようだけれど、何かあったの?」
蠢材とは異なり、優しいげに燦黯を気遣う燻輝に、燦黯は返答に窮する。
素直に事実を伝えるわけにはいかないが、帝の選出期間にそれを放り出してまでしなければならない何かを即座にでっち上げる事はできなかった。
答えあぐねている燦黯に痺れを切らしたのか、燻輝は話題を変える。
「そういえば、蠢材は燦の従者を馬鹿にしたのよね。燦の従者はこんなに綺麗なのに、蠢材も見る目がないわ。」
「はい、高忠は自慢の部下です。」
「そうね、わたしも燦が羨ましいわ。ところで今日は、あの子はいないの?確か、燦の所の猋家が管理しているっていうあの美しい子。」
高忠が面倒を見ている、美しい人間。
燦黯には心当たりが一人しかいなかった。
「玉静のことですか?彼は猋家の従者ですので、私に付くことはありませんよ。」
「あら、そうなの?さっき、百柳枝殿で燦とその子を見たと言う話を聞いたのだけれど、わたしの勘違いだったのかしら。」
そう言って首を傾げる燻輝に、燦黯は何と答えようか迷う。
きっと、燻輝が聞いた話は、つい先刻、玉静に袖を引く手について聞いた時の事だ。
玉静はその美しい顔が目立ち、人の記憶に残りやすかったのだろう。
しかし、燦黯と玉静が天壇の外で共に行動した事はない。
何故燻輝は玉静と燦黯が一緒に天壇にいたと知っていたのだろうか。
「……私は少し心を落ち着けようと天壇におりましたが、玉静は見ておりません。」
「あら?そうなの。お礼に貰おうかと思っていたのに。」
そう言って上手い冗談を言ったように笑った燻輝に、燦黯は何故か背筋が凍るような感覚に襲われていた。
「じゃあ、磨ノ守が天壇に入って行ったと言うのもただの偶然かしら?あの天壇は古いものだし、普段は誰も近付かないのに、昨日から頻繁に人が出入りしているのよ。」
「…………」
何も答える事ができない燦黯に、燻輝はどうしてか満足そうに笑う。
そして、また優しい優しい笑みのまま口を開く。
「わたしね、探している人がいるの。」
「……探している人……ですか。」
からからに乾いた舌で、燦黯は燻輝の言葉を繰り返す。
「そう。探すのを手伝ってくれないかしら?」
「……誰を探しているのですか。」
「御史大夫よ。」
御史大夫。
それは、天壇の主、斗綺の役職名。
「御史大夫は、推薦権を持っておりませんよ。」
御史大夫は官吏達の監察機関、御史台の長だ。
帝との癒着を防ぐため、例えどれだけ高貴な家柄や役職でも、御史台の人間は帝を推薦する権利がない。
従って帝になる為の根回しを御史大夫に行う利点がない。
それなのに何故御史大夫を探しているのかと、燦黯は疑問に満ちた目で姉を見る。
姉は、楽し気に笑っていた。
「でも、やはり挨拶くらいはしたほうが良いでしょう?それに、御史大夫には推薦権が無いけれど、咲ノ守は推薦権を持っているもの。」
その手があったかと、燦黯は密かに驚嘆の息を漏らす。
御史大夫という役職や御史台は、あくまでも政の中での位である。
しかし、政の外に出れば男方と女方に別れる役職、つまりは妃帝制に基づく役職が存在する。
それらの役職は政の役職とは別枠である為、役職を兼任している者は推薦権を二枠持っている事になる。
推薦権を持つのは妃帝制、政どちらかで従五位以上の位を持つものに一枠ずつ与えられる。
従って、女方の位の最高位、正一位の咲ノ守である斗綺はこれに該当する。
斗綺の妃帝制における推薦権はまだ生きているのだ。
「しかし、咲ノ守よりも、磨ノ守の方が推薦の影響力が強いのではありませんか?」
女方よりも、男方の人間の方が政の官位を持つものが多い。
女方の長に取り入るよりも、男方の長に取り入った方が得られる票が多くなりそうだと燦黯は考えた。
しかし、燻輝は当然のようにそんな事は考えていたらしい。
「ええ、その通りね。さすがはわたしの弟、聡明ね。」
「では…」
「でもね、磨ノ守は咲ノ守に従うと言ったの。」
燻輝は困ったように溜息をつく。
「彼は咲ノ守と同じ人間に票を入れるし、彼に従うもの達もそうするつもりだと言うのよ。」
それ即ち、斗綺の一票で男方の票の大半の行き先が決まると言う事だ。
男方の結束がどれほどのものなのかは分からないが、場合によっては多くの票が集まるだろう。
「だから、御史大夫を探しているのだけれど、燦はどこにいるか知っているかしら?」
燦黯は再び返答に窮する。
ここで斗綺の居場所を伝えずに燦黯が斗綺に頼み込めば、帝となれる確率が飛躍的に上がる。
しかし、燻輝は燦黯が百柳枝殿、つまりは天壇に出入りしていることも知っている。
ここで口を噤んだところで、燻輝が天壇に辿り着くのは時間の問題だろう。
その上、つい先程助けてもらった恩もある。
燦黯は悩んだ末に、口を開く。
「御史大夫は、百柳枝殿にいると思います。」
「あら、やはり御史大夫と会っていたのね。」
絞り出すように言った燦黯に向け、燻輝はやはり優し気な笑みを向けた。
しかし、その言葉は死刑宣告のように響く。
斗綺が帝の選出に興味があるのかは分からないが、燻輝の事だ。
上手く説得する気がしていた。
「それじゃあ、わたしはもう行くわ。また会いましょう、燦。」
幾人もの従者を引き連れ、燻輝は宮城を後にした。
きっと、天壇へと向かったのだろう。




