願い
「引く手の正体は、分かりましたか?」
最初に沈黙を破ったのは、部屋の最奥に座る斗綺だった。
「いや、あれだけでは正体は分からぬ。」
燦黯は苦々しい顔をして答える。
高忠は相変わらず心ここに在らずと言った様子で顔を伏せていた。
「本当に、本当に夢は見ていないのよね?」
珱子が確認する様に何度も念を押してくるが、その度に燦黯は高忠を気にしながら『見ていない』と答え続ける。
高忠は何やら難しそうな顔をして、珍しく主人である燦黯をその瞳に映さない。
そんなやりとりを静観していた斗綺が、ふと思い出した様に声を発した。
「ところで、先程の方は猋家の人間ですか?」
「いや、猋家に仕えている者で、猋家の血筋ではなかったはずだ。」
珱子のしつこい質問から逃れる為にも燦黯は斗綺の言葉に応じる。
そのまま流れでぼんやりとしている高忠の方を見やり、言葉を続けた。
「確か、あの者は高忠が面倒を見ていると聞いたが。」
燦黯の言葉を聞き、珱子と斗綺が高忠に注目する。
そこで初めて自分が話題に上がっていると気がついたらしい高忠が慌てて背筋を伸ばす。
「な、なんでしょうか。」
「先程の……玉静と言ったか。あの者について教えてくれ。」
燦黯が命じると、高忠は先ほどまでぼんやりとしていたのが嘘の様にはっきりとした声で話し始めた。
「玉静は、女方の下級妃の子供です。下級妃でありながらも驚くほどの美貌を持つ妃だったそうですが、皇后になる事はなかったとか。そしてその美貌を受け継いだ息子である玉静は女性の春宮さまの妃に、という話が出ておりましたが、下級妃の息子という事で冷遇されていたところを猋家が引き取りました。優秀な男だったので養子にして皇位継承権を持つお方の付き人に、という声もありましたが、あまりに優秀な者だったので養子にはせず我が家につかえさせております。」
「母親との関係は良好だったの?」
燦黯に聞く様な丁寧さに欠ける口調で珱子が高忠に聞くと、苦い顔をしながらも丁寧に高忠が答える。
「私が知っているのはあくまでも引き取った後、つまりは母親が亡くなった後の事です。それも、私が彼の面倒を見始めたのは玉静が猋家に引き取られてから数年以上経過してからの事。彼と母親の関係など知りません。」
少しばかり刺々しい答えだったが、珱子は気にした様子もなく澄ました顔をしていた。
「それで、あの者の素性を聞いて何か分かったのか?」
燦黯が玉静について聞いてきた本人、斗綺に聞くと、斗綺は机の上の筆を見ながら答える。
「いえ、突然の呼び出しに応じられる人間がどこの誰だったかと少し気になっただけですよ。」
「そうか…。」
特に手がかりはないかと落胆したところで、珱子が思い出したように口を開く。
「そういえば、五日後には時期帝が決まるわね。」
「それがどうした。」
今聞く事では無いだろうと、燦黯は不思議そうな顔をして珱子を見る。
「東宮さま、本日は帝の選定の五日前。本来ならば大臣をはじめとする方々への挨拶や根回しの最終段階の時期でございます。」
珱子の代わりに答えたのは、考え込むように俯いていた高忠で、今はしっかりと燦黯を見据えていた。
「あ、ああ、そうだ、そうだな。今はそういう時期だ。」
そんな事はすっかり忘れていた燦黯は、慌てて取り繕おうと口を開く。
「わ、私は帝候補としての教育は殆ど受けておらぬが、根回しや挨拶はもう終わっておる。後は……五日後を待つのみだ。」
本当は、根回しも挨拶も五日後の期限間際まで行うべきだ。
そうで無くとも、燦黯は‘帝から最も遠い’と言われていた東宮。
つまりは、最初から燦黯にとって帝になるという事は夢のまた夢と言っても過言では無い。
それでも燦黯が帝の最終決定候補者にまでなり得たのは、ひとえに彼自身の努力と従者である高忠の努力だった。
「お言葉ですが……正直、このような事をしている場合では無いと思われます。」
「高忠。」
高忠が言わんとする事を察した燦黯は、そっと従者の名を呼ぶ。
しかし、高忠は止まらない。
「あと五日。あと五日です。あと五日で、帝が決まるのです。他の候補者である方々は、昨日も今も、帝になる為に動いております。少しでも五日後に自分の名が呼ばれるように、根回しや挨拶、牽制、情報収集。今こうして雲を掴むような話を聞いて、見えもしない物怪やらに振り回されている間も、ずっとですよ。今からでもまだ間に合います。どうか、今一度ご自分の動き方を考え直してはいただけませんか。」
高忠の言葉は、何一つとして間違ってはいない。
本来ならば、燦黯はこんなところで油を売っているわけにはいかない。
この国では、皇族であるからといって帝になれるわけでは無い。
男に生まれたから帝になれるわけでは無い。
早く生まれたから帝になれるわけでは無い。
優秀であるから帝になれる。
その器を持ち得るから帝になれる。
この国、緑簾では、帝は皇位継承権を持つ東宮、または春宮から推薦で選ばれる。
選ぶのは、政を行う高位の官僚達。
例え帝が死んでおらずとも、推薦という制度だけは変わらない。
推薦人の中に、先代の帝も加わるだけだ。
そして、推薦者が最も多い皇位継承権を持つ者が帝となる。
それがこの国の帝の選び方だ。
独裁者を生まぬように、無知な者が帝にならぬ様にと考えられた制度だ。
もし仮に皇位継承権を持つ者の中に適任者がいなければ、養子縁組だって行う。
勿論王家の血は途切れぬ様にされるが、それでも優秀でなければ帝になどなれない。
そんな帝の位を燦黯が得る為に、高忠は手を尽くしてきた。
それは全て、己の主である燦黯の為。
燦黯が今の自分が高忠にどう見えているのかを考えれば、普段から必要な事は不敬とわかっていてもはっきりと言う高忠の事を考えれば、今回の高忠の発言は、遅いくらいだった。
それはおそらく燦黯の命がかかっていると思っていたからだろう。
高忠は袖を引く手など信じてはいなかったかもしれないが、他でもない燦黯が死ぬかもしれないと燦黯自身に言われた。
だから、ここまで待った。
待ってくれていた。
しかし、あと五日という期限に、焦りを感じ始めた。
あと五日。
そこで結果を出せなければ、燦黯は帝にはなれない。
燦黯は、今回の件で、死ななければ良いと思っていた。
しかし、高忠からすれば袖を引かれている人間が死ぬなど、信じられないだろう。
信じたくも無いだろう。
だから、もう付き合ってはいられないと、油を売っている猶予はないと、燦黯に伝えた。
高忠の中には、明確な優先順位がある。
一番上に来るのは主である燦黯。
次は自らに近しい人間。
玉静や自分が面倒を見ている家の者達がこれにあたる。
それ以外は全て目をくれる価値もない。
だからこそ、袖を引かれているのは燦黯ではないと気づいた高忠は、もうやめようと言っているのだ。
燦黯の命が危ないわけではないのだから、もうこの件はいいだろうと。
こんな事をしている暇があるのならば帝になれる様に根回しや情報収集をした方が良いと。
帝になりたいと願ったのは、燦黯なのだ。
高忠の中で一番優先されるべき、燦黯がそう願ったから。
だから、燦黯以外の命よりも、燦黯の願いを叶えようとする。
それが高忠の考え方だった。
「高忠。」
「はい。」
燦黯は、迷いながら口を開く。
しかし、名前を呼んだだけで、何を続けていいのか分からない。
そんな微妙な空気の中では、珱子も斗綺も何も言ってはくれない。
燦黯は、弱々しくふっと息をついて、笑った。
「では、一度宮城に行こうか。」
「承知しました。」
高忠が頭を垂れたのを見てから、珱子と斗綺の方を向いて言う。
「少し出てくるが、終わったら戻る。」
「……東宮さま。」
「少しなら良かろう。夜ならばどうせできることもない。」
不満そうな高忠を黙らせ、燦黯は天壇を後にした。




