引く手
「東宮様、いかがなされましたか。」
「なんでもない。それより、高忠はまだか。それと例の妃も。」
「探して参ります。」
燦黯が聞くと、妃付きの侍女……正確には女孺という……はすぐに踵を返して二人を探しに行った。
この国では男女で大きく文化が異なるため、同じ役職でも男女で異なる名称が用いられることがある。
女官が出て行った後の部屋に残ったのは齢二十ほどの若い男が一人。
名を爛 燦黯という男は、現在この緑簾で幾人かの帝候補の一人であり、まさに翌週にはその幾人かの中から時期帝が選ばれるという大切な時期である。
燦黯は一人でとある妃を待っていた。
その妃は妙な噂を持つ妃で、彼女を内密に尋ねるためにわざわざ月のない新月の夜遅くに女の後宮、皓月宮の一角、糸蘭殿に従者である高忠と共に足を運んだ。
内密に尋ねた理由はいくつかあったが、最も大きな理由は次期帝を決めようというこの時期に問題が起きたからだ。
その問題は大きく、しかし公にすれば間違いなく帝からは遠ざかる。
しかし、どんな手を使ってでも解決しなければならない。
そんな思いを胸に、燦黯は妃を待つ。
しばらくすると聞き慣れた足音が聞こえ、それに続いて軽い足音も響く。
どうややら待ち人がきたようだ。
「失礼致します。例の妃をお呼びしました。」
低いいがよく通る、角ばった声が聞こえ、次に着物が擦れる音がして、柱の影から小さな人影が現れる。
二人を呼びに行った女官の姿はない。
また畳と着物が擦れる音を響かせながら、一人の娘が恭しく座り、そのまま深く頭を下げる。
「お初にお目にかかります、東宮様。わたくしは_____」
「よい。そなたの名は知っておる。それより、手短に頼みたいことがあるのだ。面を上げよ。」
手を上げて妃の言葉を遮り、早急に本題に入るよう急かす。
本来なら、今はこんなことをやっている場合ではないのだ。
少しでも支持を集め、基盤を強化し、姉に勝たなければならない。
この緑簾では、帝になれるのは男だけではない。
女であっても帝になることができる。
その為女性の王位継承権を持つ者は‘春宮’、男性は‘東宮’と書き、差別化されていた。
そして、昔から燦黯よりも姉の春宮、燻輝の方がよほど人気がある。
こうしている間にも、燻輝は準備を進めているだろう。
一方、それを知ってか知らずか妃は何も言わずに顔を挙げると、見定めるような視線で舐めるように燦黯を観察する。
それを見た高忠はないか言いたげに前に出るが、それも手を上げて制する。
妃は今しばらく何も言わなかったが、燦黯がもう一度高忠を止めたところでようやく口を開いた。
「そうお急ぎにならずとも、まだ夜は長う御座います。」
「私は忙しいのだ。」
やや食い吟味に返すと、妃は顔を顰めたのが部屋の四隅にある行灯だけが照らす薄暗い部屋の中でもよく分かった。
そしてその顔に今度こそ高忠が口を挟む。
「糸蘭の更衣様、ここにおられるのは次期帝候補にございます。」
位が低い妃とはい後宮内で彼女らに礼を欠くわけにはいかないので口調こそ丁寧であるが、高忠は不機嫌そうな威圧感を放っている。
燦黯は忠誠心が高すぎる腹心も考えものだと思いながら妃を見やる。
これで少しでも話を聞く気になってくれれば良いと考えたが、妃はむしろ先ほどまでの品定めするような視線に嫌悪まで追加して燦黯を見据えていた。
「わたくしの名をご存知ならば、そちらで呼んでいただけませんか。」
「呼べば話を聞いてくれるのか?」
また何か言おうと身を乗り出した高忠を再び止めて聞くと、妃は嫌そうな視線を向けた。
「たしか、そなたの名は珱子といったか。珱子よ、私の話を聞いてはくれぬか。」
妃___珱子は、一度目を閉じるとゆっくりと目を開け、素早く口を開いた。
「かしこまりました。お話をお聞きしましょう。」
「では____」
「その前に。」
早速話をしようと口を開きかけると、珱子が先程の燦黯のように手を上げて燦黯の言葉を止めた。
高忠がまた何か言おうと息を吸い込んだのが分かったため燦黯は黙って止め、珱子に先を促す。
珱子は早口に言い切った。
「貴方様は人に頼み事をなさろうと言うのにも関わらず、わたくしのほうを見ようとも致しません。目の前にいる人間に向き合うこともせず、どうして話を聞いてもらえましょう。」
「更衣様。お言葉がすぎますぞ。」
怒気を孕んだ声で高忠が言うが、珱子は気にした様子もなく真っ直ぐに目の前にいる人間、つまりは燦黯を見ていた。
その視線の言わんとすることを理解した燦黯はぼんやりと珱子の周りを見ていた自分の視線をしっかりと珱子の顔に向ける。
珱子は、亜麻色の髪に同じ色の大きな瞳を持つ、美しさよりも幼さが勝る顔立ちのまだ少女と言ってもいいような年頃に見えた。
その亜麻色の瞳を見据えて、燦黯はもう一度言う。
「話を、聞いてくれるか?」
「…………かしこまりました。お話を聞きましょう。」
ようやく話を聞く体制に入ってくれた珱子を見て、燦黯は彼女の噂を思い出す。
皓月宮には、摂家の出でありながら下級妃、ここでは更衣であり、また更衣でありながら自分の御殿を持つ特異な妃がいると。
そしてその妃はどうしてか人の話を聞いただけで物事をぴたりと言い当て、度々宮中で起こる不審死でさえ解決し、その魂を導くという。
そんな妃のことを、人々は物怪憑や狐憑き、占い師だと言う者もあれば、道士や仙人、はたまた巫女だと言う者までいて、中には邪悪で狡猾な山師だと言う者までいた。
とにかく、嘘も誠も分からぬ女だ。
そんな怪しい女に、時期帝候補である燦黯が会っていたとなれば、帝の席から遠ざかる。
それでも、燦黯は藁にもすがる思いでここにやってきた。
「袖を引かれておるのだ。」
「と仰られますと?」
「ずっと、見えるのだ。帝と皇后がお隠れになって以降、ずっと。」
燦黯の両親である前の帝と皇后は、半年前に事故で亡くなっていた。
その後釜を決めるための最後の選出期間。
それが、つい先日から始まったのだ。
珱子は真っ直ぐに燦黯を見ていた目を少し俯け、顎を引いた。
「前帝がお隠れになられたのは秋、今から半年も前の事でございます。」
みなまでは言わなかったが、珱子が言いたいのはなぜ時期帝を選ぶこの時期になって相談に来たのか、と言うところだろう。
燦黯は一つ頷き、表情を変えずに短く答える。
「今まで害はなかった。」
「では、なんらかの害ができたと仰られるのですね。」
先を察して話を進める珱子は、また真っ直ぐに燦黯の瞳を射抜く。
賢い娘ではあるようだが、その瞳からは興奮が見てとれる。
「ああ。最初は他人の袖を引く手が見えていただけだった。しかし、その手が____」
「その手が、ご自分の袖に見えるようになった。」
燦黯の声を遮り、珱子が先を続ける。
本来であれば無礼極まりない事だが、燦黯は高忠を抑えながら黙って珱子の言葉を聞いていた。
「ご自分の袖が引かれて初めて焦って動くとなれば、今まで袖を引かれていた者達には何か悲運でもございましたか。」
珱子はどこか責めるような口調で言った。
燦黯は少し驚きながら珱子に向けて頷き、肯定を示す。
「袖を引かれた者の大半は、一月もせぬうちに鬼籍に入っておる。」
「大半ということは、例外もあったのですか。」
「ああ、幾人かは見ぬうちに袖をひく手が消えておったな。」
燦黯はそっと琥珀色の袍の袖を引く手を見る。
手の先にはうっすらと、顔のわからない男の姿が見えた。
やはり手は、袖を引く手の持ち主は、消えてはいない。
今まで見てきた者達も、老若問わず多くの顔の見えない者達の手で袖が引かれていた。
「やはりおぬしにも見えぬのか?」
「袖を引く手以外に、何か妙なものが見えたことはございませんか?」
燦黯の言葉を無視して質問に質問で返した珱子を殺気の籠った目で見ている高忠を抑えながら、燦黯は正直に答えた。
「あるにはあるが、あれを見たと言って良いのかは分からぬ。」
「なんでも構いません。何が見えましたか。」
やけに真剣に聞く珱子のは目は真剣さと、やはりどこか高揚するような熱に満ちていた。
「あれは……ふとした時に、視界の端に黒い靄のようなものが見えたり、寝ている時に人の様な影が通り去った様に見えたり……あげて数えればキリが無いな。」
はっきりと見た、というよりは偶然視界に入ったような気がする、程度のもので、一つ一つは大したことがないが、燦黯はそれらがふと視界に入る瞬間の多さに気がつき、背筋が凍った。
それも、それらが見える頻度は日に日に増している。
「なるほど……。」
春らしい襲色目の着物の袖を持ち上げてシャラリと珱子の髪についている玉飾りが揺れた。
珱子は顎に指を当てて何かを考え込んでいる。
高忠が燦黯に声をかけようかと考え始めた頃、ようやく珱子が口を開いた。
「それはおそらく、物怪の類の仕業でしょう。」
「物怪?」
「宮城の言い方では妖魔や鬼怪と呼ばれるものです。」
珱子は、思考のために俯けていた顔をあげ、訥々と話す。
「この国には、古くから物怪や鬼怪というような人ならざるものが昔から多くおります。そのうちの何かが袖を引いているのでしょう。」
珱子の話は簡潔であったが、それを信じろと言われて素直に信じられるものが果たしてどれくらいいるだろうか。
よほどのことでなければ信じはしないだろうが、燦黯にはそのよほどの事がある。
もとよりそう言ったきな臭い話になるのは読めていた。
「それで、どうにかすることはできぬのか。」
「わたくしにはできかねます。」
「なぜだ。」
「わたくしは物怪の類を見ることはできますが、東宮様が仰る袖を引く手は見えませんし、わたくしには大した力はございません。」
はっきりと言い切った珱子の顔に偽りは見えない。
本当に珱子にはどうしようもできないのだと、燦黯は悟った。
「本当に、本当にどうしようもできぬのか。」
「わたくしには如何様にもしかねます。」
「………そうか。邪魔をしたな。」
珱子にどうすることもできないのであれば、もうここに用はない。
物怪云々の話も、噂に箔をつけるための嘘だろう。
どこかで悟っていた事だが、ここが最後の頼みだったのだ。
普段から感情を表に出さぬように気を遣っていた燦黯の表情に、僅かに落胆の表情が浮かんでいるのを、高忠は見逃さなかった。
「……一つだけ、お聞かせください。」
立ち上がり、自分の宮に帰ろうとしていた燦黯に、座ったまま珱子が問う。
燦黯は振り返り、珱子を見た。
「構わぬ。許そう。」
「何故他人の袖が引かれているのを捨ておいたのでしょう。」
先ほどのように憤りを込めた声に、燦黯は珱子の根を見た気がした。
そうか、珱子は自分が周りの者達を見捨てたことに憤っておるのか。
「捨ておいた訳ではない。身の回りに何か変わったことがないか、体に悪いところはないか、と心当たりのあることは一通り探った。しかし、誰も彼も幸せそうに何もないと言うて伏していったわ。………あの時、もっと気遣っておれば、助かった者もおったかも知れぬが。」
燦黯が声をかけた者の中にも、袖を引かれなくなった者はいたが、ごく少数だった。
あの時、自分にどうにかなることではないと思い、それ以上何もしなかった。
「そうですか……。」
珱子は再びシャラリと玉飾りをならして考え込んでしまった。
一応少しばかり待っては見たが、珱子が動く気配はなかったのでそっと帰ろうと動きかけた時、やっと珱子が顔をあげた。
「東宮様は、帝になりとうございますか。」




