第一章 出会い
平地の雪はすっかり溶けたが、山はまだ白い三月初め。山形県にある中堅企業、山形鐵工所では、年度末のあわただしさと共に、春を迎える準備に追われる人々の姿があった。冬の名残を感じさせる風の中で、誰もが少しだけ足早に、新しい季節に向かおうとしている。
そう、これから始まる物語を予感させるような、静かで確かな、季節の始まりであった。
「おーい、匠人!ちょっと来てくれ」
昼休みが終わる直前、開発部の片隅から声が飛んだ。声の主は、高瀬開発部長。相馬匠人の上司である。
──相馬匠人 《そうま たくと》。二十八歳の開発部の中堅社員。無口そうに見えるが、話し始めると驚くほど穏やかな声をしていて、初対面でも相手の緊張を和らげる何かがあった。無造作に整えた短めの黒髪と、理知的な目元が印象的。いつも白いワイシャツの袖を軽くまくっており、そのたたずまいはどこか落ち着いた雰囲気をまとっていた。自分のことをあまり語ろうとはしないが、提出される提案書や図面には、彼なりの誠実さと配慮がにじんでいる。
匠人はノートパソコンを閉じ、椅子を軽く回して立ち上がると、声のする方へ向かった。
「どうしました?」
「設計部の岸本部長から、新人を手伝ってやってくれって頼まれてな。米沢のプラント設計で、最近ずっと図面とにらめっこらしい。だいぶ気負ってるみたいだ」
「新人……ですか?」
「原田つむぎ、って子だ。配属二年目で、今回が初めての単独案件らしい。お前の説明なら、伝わると思ってな」
高瀬の口調には、どこか温かさがあり、ほんの少し茶化すような響きも混ざっていた。
──原田つむぎ《はらだ つむぎ》。その名前に聞き覚えがあった。設計部の若手社員。真面目で几帳面な性格らしく、彼女が作成した図面や報告書には丁寧さがにじんでいた。実際に言葉を交わしたことはなかったが、以前、共有サーバーに上がっていた彼女の設計書に目を通したことがある。無駄がなく、細かい寸法調整もきちんと取れていた。
資料を手に、匠人は設計部へ向かい、岸本部長に声をかけた。
「部長、こんにちは」
「おう、わざわざ悪いな。……原田さん、こっち来てくれる?」
席を立ち、こちらに歩いてきたのは、まさにその人だった。
黒く長い髪をハーフアップにまとめ、細縁の眼鏡をかけた女性。控えめな表情と整った身なりが、彼女の仕事ぶりそのものを映しているようだった。どこか穏やかで、春の風のような香りがふっと通り抜けたように、匠人には思えた。
「どういたしましたか?」
落ち着いた声だが、わずかに緊張の色が混じっていた。彼女は小さく息を吸い、姿勢を正す。
「君が担当している米沢の案件、初めての主担当で大変だと思ってな。開発部の相馬君に、少しサポートしてもらうことにした。わからないことがあれば、遠慮せずに相談するといい」
つむぎは軽くうなずき、少し緊張した面持ちで匠人の方を向いた。
「はじめまして。原田つむぎと申します。初めての主担当で分からないことばかりなので、どうぞよろしくお願いします」
──これが、原田つむぎとの最初の接点だった。