その日はとても疲れていた。理由は分からない。
目元が乾いて瞑ると滲む感覚は、ぼくの疲労感と連動しているようだった。
乾き、しんと下しか見れないような寂寥なる気持ちが渦巻いて、ひたひたと足音を鳴らす妖怪のように背筋を撫でている。身体の異常を自覚したころ、ついに疲労をため込んでいたことにはっとした。人間的な虚しさと鳴る腹の虫が梅雨の涙に向かって霧散し、途方もない旅に出かけて二度と戻ってこないように思われる。外気にふれた気霜も体から出て行ったとき、それはカエル化したように知らんぷりして薄まっていった。
その日はよく疲れていた。理由は分からない。
思い当たる節は遡上すれば見つけられるが、そんなこといつもやっているただの日常――だというのに今日に限って、ささくれだった心がそこにいた。人の気持ちとは何ともまあ不便だと身に染みて感じた。蹌踉な足でじめじめとした街を歩き、肩に乗っかったさまざまなソレは力を増している様にさえ思われた。徐々に意識は微睡にのまれ、気温と差異のある肌寒さがしきりに芯を凍結させた。脳には濃霧がかかり黒い影が視界には落ちている。景色もコントラストが下がり、物事の理解が進まない感覚が気持ちをじらしているようで心地が悪い。
こんなぼくは一人である。
それとなく生きている人間の一人でありながら、事実孤独である。
意味のない人間関係。意味のない収集趣味。意味のない独り歩き。意味のない仕事業務。すべてに押しつぶされ、またはぎりぎりで持ち上げて、生存をしてしまっている。それにこの場合に限り、よく成功した人々を目に入れてしまう。あれほど猛毒な物はない。悠々と自身の成功話をぽんぽんと発射し、「こんなことは誰でも出来る」とまるでつっけんどんな言葉を安々と悠然と平然に語れるその口を、縫い合わせて叩いて海に沈めることこそがぼくの幸せに感じる。隣の芝生が青く見え過ぎて欝々した。認めてくれる人なんていないことがはっきりと明瞭に突き刺さる。ぼくは一人、生涯孤独。嗚呼、そう思うとよけいに侘しかった。
家までの道のりがとても長く思われる。雨はあがり蒸発した空気がくさい。人々が歩き、電車は揺れ、そして改札の音が脳裏でよく反響した。電車に揺られている間は気を保つのに必死だった。外の気温に合わせて調整された空調設備は、ぼくの意識をほどよく溶かして快適さを付与した。だがその快適さは命取りだった。すべては鉄道会社によるみんな終点まで運んでしまおうという悪計の算段に思えた。でもこの温もりこそが、疲労の特効薬となるきがした。ただひたすらに意識をそこに託して、生きることを放棄してしまいたかった。気持ちのいい世界に溶け込んで消えてなくなりたかった。そう思えば思うほど包まれ、はてない温もりに身体を捧げている。母の抱擁のような体験だった。
ブザーがなって駅員に肩を揺らされた。どうやらぼくは何もかも乗り過ごしてしまったらしい。
一人徒歩でいこうと出ると、どっと土砂降りの雨が頭皮にあたった。閑静な住宅街を、たった一人の男が歩いた。