四.狐か狸か、梅か桜か
最初の声は、より冷ややかで、後の声は、より柔らかい。とはいえいずれ劣らぬ品と矜持を窺わせる凛とした声に、千早はその主たちを瞬時に悟った。葛葉と芝鶴──この見世の、御職の花魁に違いない。
「珊瑚と、瑠璃かえ。相も変わらず遊んでばかりで──」
「あの、お騒がせして申し訳ございません!」
冷ややかなほうの声の主が、階段を見下ろそうと足を進める気配を感じて、千早はその場に平伏した。艶やかに磨き上げられた床材も、さすがに花魁たちの姿を映してはくれない。彼女の視界に入るのは、小さく整った爪先と、ふたりの帯や打掛が床に落とす色鮮やかな影だけだった。
千早を這いつくばらせたまま、花魁ふたりは顔を見合わせて微笑んだようだった。
「見ない顔だねえ。葛葉さんのお知り合い?」
「まさか。かように粗忽な小娘は、きっと狸の眷属でありんしょう」
おっとりとした声のほうが、狸の芝鶴花魁。棘のある声のほうが、狐の葛葉花魁らしい。耳と頭に刻みながら、千早は額を床に擦り付けんばかりに頭を下げた。
「私、今日からこの見世にお世話になることになった、千早と申します。あの、御職の花魁にご挨拶しなければ、と思ったのですが、恐れ多くて迷っていたところで──そうしたら、あの子たちが……」
千早のお尻のほうから、珊瑚と瑠璃の高い声が聞こえてくる。といっても泣くのではなくて、いまだ興奮冷めやらぬ風のはしゃぎ声だ。この見世の花魁なら、すべてを語らずとも察してくれるだろう。実際、千早の頭上に呆れたような溜息がふたつ、落ちる。それぞれとても良い香りで、酔ってしまいそうな──でも、同時にとても怖い気配もするような。
「ま。では、わっちらはちょうど良く現れたと、そう申すのでありんすなあ?」
「どちらに先に来るのか、楽しみにしていたというに。姑息な技を使ったこと」
御職を張るだけのことはあって、ふたりは千早の魂胆をあっさりと見抜いてみせた。珊瑚と瑠璃を騒がせて、天岩戸の逸話よろしく、隠れた御方をおびき出そう、だなんて。これで、張り合う花魁ふたりを「同時に」呼び出すことに成功は、したけれど──
「まあまあ、葛葉さん。これはこれで良い趣向ではありいせんか?」
「……まあ、確かに。直に会って見比べれば、どちらが『上』かは間違えはしいせんな?」
こうなるのも、やはり道理ではあった。くすくすと、愉しげに笑う声が、千早に顔を上げろと命じている。瑠璃と珊瑚が決められなかったのを、お前が肩代わりしてみせろ、という訳だ。
「それは、あの──」
千早が絶句したのは、時間稼ぎのためではなかった。艶やかな声に抗えずに身体を起こすと、あまりに眩い絢爛さが彼女の目を射た。
葛葉花魁の打掛は、咲綾を織り出した朱の綸子に金の刺繍で扇と吉祥の文様を描いた豪華極まりないもの。並みの女なら色と模様の華やかさに「負ける」だろうけれど、この女は違う。涼やかな目は、整った顔立ちの中、眦を染める紅によってひと際鮮烈な輝きを放つ。通った鼻筋に、花びらのような唇は、花に喩えれば大輪の薔薇か牡丹──そんな、力強く華やかな美しさ。元禄風に髱を大きく取った勝山髷は、とはいえ古臭い印象はまったくなく、大名も相手にしたという時代の太夫を思わせる品格を漂わせている。
一方の芝鶴花魁が纏うのは、銀通しの花浅葱の生地に、杜若と八橋を配した涼しげな打掛。みどりの黒髪も、重々しく結い上げてはいない。師宣の見返り美人さながらに、後ろ髪を玉結びにして無造作に鼈甲を挿している。湯上りの時のように飾らずさりげない、瑞々しい色香を醸す趣向なのだろう。おっとりと微笑む、やや垂れた目尻を彩る泣き黒子がまた艶っぽくて、露に濡れる木蓮や梔子を思わせる、しっとりと匂い立つような美女だった。
このふたりを前にして、どちらがより美しいかなんて、言えるはずがない。どちらも、千早がこれまでに見たどの娼妓よりもずっとずっと綺麗だから。しかも、ふたりの美しさはまったく種類が違うのだから。
(どちらも……そう言ったら、どうなるかしら……?)
葛葉花魁も芝鶴花魁も、そんな答えで納得するはずがない。喜んでどこがどう、どれだけと、問い詰められるのが目に見えている。千早の拙い誉め言葉で、ふたりを満足させることができるだろうか。口の中が干上がって、舌が顎の裏に張り付いて。息苦しささえ感じるようになった時──ふわ、と良い香りが辺りに漂った。
「梅と桜、牡丹と芍薬、いずれがいずれに勝るかなど、語ったところで無駄だろう。うちの『花』は、どれも劣らず美しく芳しいのだからな」
千早が考えた通りのことを語る、低く、胸の底をくすぐるような柔らかな声──その主は、朔だった。花魁たちに比べればずっと地味な装いなのに、それでも匂い立つ色香にあてられてしまいそう。髪と着物を乱した瑠璃と珊瑚が狛犬のように左右に控えているのも、まるで往事の花魁道中のよう。花魁が戯れに男装したらかくや、の艶姿だった。