終.あやかし遊郭の内儀
若菜を抱いて見世に入った千早は、歓声に迎えられた。あやかしたちの美しさや異形の不思議さに関わらず、猫の可愛らしさはまた格別なのだ。
「まあ、この子はどうしたの?」
「寿々お嬢様が来てくださって──預かることになったんです」
幸い、花蝶屋で飼われていた若菜は知らない大勢の人──人ではないけれど──に構われるのも慣れている。だから抱く腕が次々と変わっても、大人しく喉を鳴らしてくれていた。
「瑠璃、珊瑚、おいで」
元から大きい目をまん丸くしている禿ふたりに千早が呼び掛けると、弾かれたような勢いで駆け寄ってきた。これほど小さい子供は花蝶屋にはいなかったからか、それとも血の繋がりが分かるのか、若菜が怪訝そうにうにゃ、と鳴く。
「わっちらの妹じゃ!」
「どうしてここにいるのじゃ?」
ぱたぱたと、軽い足音を響かせて若菜を覗き込む瑠璃と珊瑚に微笑んで、千早は身を屈めた。
「これからは一緒に暮らせるよ。あのね──」
事情を説明するうちに、ふたりの目はきらきらと輝き、ついでうるうると潤み始めた。息を合わせる気配もないのに、ふたりして同時に千早に飛び着いて、苦しいほどにぎゅっとしがみついてくる。
「わっちらはこの見世で幸せだけれど、この子のことは気になっておった」
「様子を知るどころか、一緒に暮らせることができるとは」
「主のお陰じゃなあ」
「千早、ありがとう」
左右から訴えられ、身体をすり寄せられてよろめきそうになりながら、千早はそっと白と黒の耳を撫でた。柔らかい毛並みの感触が、胸が痛くなるほど愛おしい。溺れさせられて殺されるなんて、とても苦しかっただろうに。今が良ければ良いと言えて、離れた妹のことを案じられるなんて。
(この見世は、この子たちの居場所でもあるから──)
だから、守らないと。千早が決意を新たにした時、お針の白糸がひょいと顔を覗かせた。
「千早、内所で楼主様が呼んでるよ」
「はい。すぐに行きます」
千早も、朔に若菜のことを伝えなければ、と思っていたところだった。猫の一匹くらい大丈夫だとは思うけれど、楼主の許しを得なければならないから。
白糸について内所に向かうと、朔のほかに織衣も待っていた。繕い物関係の仕事でもあったのかしら、と首を傾げつつ、千早は口を開いた。
「楼主様、あの──」
「千早。貴女のお陰で近ごろ嬉しい忙しさだ。改めて──というか何度でも言うつもりだが……ありがとう」
まずは若菜のことを手短に、と思ったのに。朔に深々と頭を下げられて、千早は慌てて腰を浮かせた。
「い、いえ、そんな……っ。私こそ、助けていただいたんですから!」
「そうか?」
激しく首と手を振る千早を見て、朔はふんわりと優しい微笑を浮かべた。もしかして彼女の反応を予想して揶揄ったのでは、なんて思うくらいに、目を細めてじっくりと眺められて──恥ずかしさに、千早は耳が熱くなるのを感じながら俯いた。話の主導権は、すっかり朔に移ってしまっている。
「懸念もなくなったところで貴女の見世での役割を正式に決めても良いかと思ったのだが、特に希望する役どころはない……という状況で間違いないかな」
「はい……。すみません、取り柄がなくて……」
浮かれた恥ずかしさが情けなさに変わって、千早は顔が上げられない。あやかしに比べると、ただの人間の小娘の、なんと非力で無能なことか、改めて突き付けられたようだった。
「では、こちらから頼みたいことがある」
「は、はい」
だから、朔に言われれば否やがあろうはずがない。追い出されるかも、だなんて考えてはそのほうが失礼というものだろうけど、役割がない居心地の悪さは耐え難いものだから。
汚れ仕事でも力仕事でも何でも、の思いで、千早は正座して朔からの命令を待った。覚悟を示そうと、彼の顔を真っ直ぐに見つめて。……でも、何秒、何十秒待っても、朔は口を開いてくれない。整った綺麗な顔を見つめ続けるのも、それはそれで気恥ずかしいものだというのに。
促しても失礼にならないかどうか、千早が真剣に悩んでいると、白糸と織衣が朔を交互に突いてくれた。といっても手を出すのではなく、言葉でそっと急かしたのだ。
「ほら、楼主様。早く」
「言わないと千早も困るでしょう」
ふわりと優しい微笑は、このふたりが常に纏っているもの。でも今日は、どこか悪戯っぽい気配も漂わせている気がして、千早は密かに首を捻る。
「あ、ああ」
朔は、どういう訳かぎくしゃくと頷くと、白糸と織衣に目配せした。お針のふたりは嬉しそうに立ち上がり、内所の隅から平たい木箱──着物を収納するためのもの──を持ってきた。真新しい桐の香りがするその箱の表面をそっと撫でてから、朔は蓋に手を掛けた。
「……白糸と織衣に頼んでいたんだ。これを……千早に」
「わ──」
まず目に飛び込んで来たのは、山吹色の生地の鮮やかさだった。細やかな凹凸が、色味にいっそうの温かみを添えている。次いで、細やかな刺繍の模様が千早の溜息を誘う。銀糸で描いた流水紋に、金で彩られた赤い紅葉が舞い落ちる意匠。秋を先取りしたというだけではなくて、これはきっと──
(ちはやふる、の歌からだ……!)
ちはやふる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに みずくくるとは──百人一首の、在原業平の短歌。不思議や奇跡に満ちていた神代の昔にも例がないほどの、色鮮やかな紅葉の景色を描いたもの。千早の名の由来でもある歌を表した着物を、朔は仕立ててくれたというのだ。
「ありがとうございます! でも、どうして……着物はもう作っていただいたし、こんなに綺麗なものをまたいただくなんて……?」
この着物は自分のためのものだ、と思うと心が弾む。弾み過ぎて、心臓が弾けてしまうのではないかと思うほど。でも、同時に不思議だった。寿々お嬢様と会う時に仕立ててもらった外出着よりもなお、この「ちはやふる」の着物は上質で手が掛かっている。白糸と織衣だって、ひと晩で誂えるという訳にはいかなかっただろう。
「西洋では、男が求婚する時には指輪を渡すものだというが」
「はい、そうですね」
突然関係のない話を切り出されて不審に思いながらも、千早は相槌を打った。すると、朔はなぜか顔を顰めて、白糸と織衣は袂で口元を隠してくすくすと笑う。三人ともいったいどうしたのか、やはりさっぱり分からない。
とても苦い茶でも呑んだような顔つきで、朔はまた口を開いた。
「俺にはその習慣は馴染みがないし……かといっていきなり白無垢という訳にもいかないし。だからなるべく千早を驚かせずに伝えられるように、相談していたんだ」
「……え?」
ここまで言われれば、何を言われているかは分かる──と、思う。でも、信じられるかどうかはまた別だ。間抜けな声を上げたきり固まった千早に、朔はそれでも辛抱強く語り掛けてくれる。膝を進めて、少しだけ、ふたりの間の距離を縮めながら。それによって吸い込まれそうな黒い目も近づくものだから、千早はろくに息もできない有り様だった。
「特段の希望がないなら、ここに──月虹楼の内所に、俺の隣にいてほしいと思った」
「え? ええ!?」
千早は、ひたすらに驚いていただけだった。意味をなさない声しか出せないのも、朔から目を逸らして、助けを求めるように白糸と織衣のほうを向いてしまうのも。でも、朔には拒絶に見えたのかもしれない。彼は悲しげに目を伏せて、睫毛の濃さと長さでまたも千早をどきりとさせた。
「……無理にとは言わない。嫌なら、ほかの役割を用意する。ただ……この見世には、どうか──」
「嫌なはず、ないです! どうか、いさせてください!」
自分のせいで、朔が心を痛めている。そのことに気付いて、千早は思わず声を上げていた。
「……本当に?」
「はい!」
勢いよく頷いた次の瞬間、求婚──なのかどうか、まだ分からないけれど! ──を受けたように聞こえてしまうことに気付いて、慌てて言い添える。
「あの、というかこの見世に……ずっといたいと、思っている……んですけど」
これは朔の求める答えになっているのかどうか。分からなくて、心配で。そっと彼の顔を見上げると、満開の桜のような──綺麗で華やかで晴れやかな笑みに、千早の目は釘付けになる。
「今はそれで構わない。あり得ないとか絶対に嫌だということでなければ」
舌も凍らされてしまったから、嫌ではないと示すにはぶんぶんと首を左右に振るしかない。その勢いに安心してくれたのか、朔はにこりと笑みを深めて千早の手を取った。
「では──改めてよろしく。……ということで、良いか?」
「は、はい。よろしく、お願いいたします」
ようやく動くことを思い出してくれた舌で、やっとそれだけ呟くことができた。茹蛸のように真っ赤になった千早の横で、白糸と織衣が楽しそうに語らっている。
「それこそ、神代も聞かず、でしょうねえ」
「ええ、迷い込んだ人の娘があやかしに馴染んで神様を落としてしまうなんて」
「落とすなんて、そんな……!」
畏れ多い表現に目を剥く千早の髪を、けれど朔はそっと梳いた。掃き掃除をしていたところだったから、軽く括っただけの雑な髪型でしかないというのに。
「いや、見事に落とされた」
なのに、花魁を口説くような艶のある声と口調で優しく語り掛けてくれるのだ、この神様は。
「着物を着たところを見てみたい。着てくれるか?」
「……はい」
朔の顔を真っ直ぐに見つめることなど、恥ずかしくてできそうにない。小さくこくりと頷くのが千早の精いっぱいだった。それでも、手の熱さや赤い耳や頬や項が、彼女の想いを存分に語っていただろう。
* * *
吉原にまことしやかに流れる噂がある。細見にも乗っていないどころか、どの通りを覗いても普段は見つからない見世が「どこか」にあるのだという。夢と現の狭間にあるその見世に登楼するのは、偶然に迷い込んだ者だけ。あるいは、条件を満たした者とも言う。月のない夜に目を瞑って歩くとか、決められた順に角を曲がるとか、九朗助稲荷に詣でてからとか──眉唾ものの願掛けじみたやり方の数々は、それだけその見世に出会えた者が少ないという証でもある。
それでもその見世で遊ばんとまじないを試す者が後を絶たないのは、尋常の遊郭ではないからだ。天女のように美しい花魁が手招きするかと思えば、化け猫が躍り鬼が嗤う、あやかしの遊郭なのだとか。古式ゆかしくも懐かしく、恐ろしくも美しく妖しい世界に浸ってみたいと世知辛い明治の世に疲れた者は願うのだ。
あやかしの遊郭ならば化かされたり喰われたりはしないのか、という者もいるが無用の心配だ。なぜなら、その見世の内儀は人間だというのだから。か弱い人間の女ながら、その内儀はあやかしどもの手綱をしっかりと握っているのだとか。
だから、吉原をそぞろ歩いていて、見知らぬ風景に迷い込んだとしても恐れることはない。暗闇の中にぽつりと浮かんだ灯が、客人を歓迎することだろう。束ね稲を抱える三日月の紋の暖簾を掲げて現われた──見世の内儀は、客の姿を認めて微笑むはずだ。そして、言うだろう。
「──月虹楼へ、ようこそお出でくださいました」




