一.再び吉原へ
土手に上がった里見は、待たせていたらしい人力車に千早を押し込んだ。続けて彼自身も乗車すると、車は滑らかに動き出す。車夫は、人間なのかあやかしなのか──いずれにしても、あらかじめ行き先は聞かされていたのだろう、こちらを振り向くことさえしなかった。
「どこに、連れて行くんですか……!」
隅田川の岸辺を彩る緑が、風のように流れていく。千早にとっては初めて感じる速さだけれど、楽しむ気にはもちろんなれなかった。
(せっかくの着物なのに……!)
織衣と白糸が、千早のために選んで着つけてくれた着物なのに。朔と並ぶなら恥ずかしくも嬉しかったけれど、里見なんかと逢引のような姿になっているのが情けなくて悔しくてならない。
「何、そう時間はかからないさ」
一方の里見は、泰然と足を組んで車の揺れに身を任せている。それでも油断しきっている訳ではなくて、その腕は千早の腰にしっかりと回っている。恋人同士のような演技をしつつ、飛び降りることさえ許さない構えということのようだ。
「この、すぐ後のことなら花蝶屋に向かう。さっきの娘の話は聞いただろう? 子爵様は、いかがわしい遊郭に直接足を運ぶくらいに苛立っておいでだ。娘同然に育てたから情が移ってしまった、つい嘘を吐いてしまって云々と、お涙ちょうだいのお話をひと通り訴えたところに、娘が女学校から『ちょうど良く』帰ってくる、と──そんな筋書きだったそうだ」
その筋書きを考えたのは、寿々お嬢様なのだろうか。花蝶屋の楼主が涙ながらに訴えたところに、さっそうと現れる華やかな少女──確かに、見栄えはするのだろう。千早から形見を受け取ることに成功していたら、疑う者もいなかったかもしれない。
(お嬢様は……そこまで……?)
実の親と別れて、一生嘘を吐き続けてでも、華族の令嬢になりたかったのか。そこまで、女郎屋の娘でい続けるのが嫌なのか。千早の一存で、その必死の願いを潰しても良いものかどうか──胸の裡に迷いが忍び寄るのを振り払って、千早は里見を睨みつけた。
「盗み聞きなんて卑怯です……!」
「花蝶屋の庭は獣が通り放題だぞ? 猫の餌を軒先に置いているだろう。いや、私が食ったりはしないが。てっきり犬も猫も鴉も雀も──狐だって出入り自由ってことだと思うんだがねえ」
里見の言葉に、千早は三毛猫の若菜のことも思い出す。お嬢様は、あの子のことも可愛がっていたのに。お嬢様が突然いなくなったら、若菜は寂しがるだろうに。……ううん、そもそも朔は間に合っただろうか。隅田川の流れは深いのに、ふたりとも無事だろうか。
(……ダメ。私は私にできることを考えないと……!)
迷いに加えて不安に気付いてしまうと、心まで身動き取れなくなってしまう。
(考えようによっては、思った通りになったじゃない。そうでしょう……!?)
自分に言い聞かせながら、自分を奮い立たせるために、千早は精いっぱい強気な声と表情を装った。
「私、子爵様にはっきり言ってやります。御家に入ったりしない、思い通りにならないって。そもそも、そのためにお嬢様に会おうとしてたんだから」
そうだ、渋江子爵には言いたいことがたくさんあるのだ。朔が傍にいてくれなくても、彼女ひとりでもできるはずだ。
「言うだけならご勝手に。お勧めはしないけどねえ」
にやにやと笑う里見は、小娘の覚悟など知れたものだと侮っているのだろう。実際、まんまと騙されて攫われかけた千早は見くびられても無理はない。
「……分かってもらいます。ううん、分かってもらえなくても! 大人しく捕まったままにはなりません」
どのみち、説得するのは里見ではないのだ。気力は渋江子爵と対峙した時に取っておけば良い。もう話をする気はないと、千早はそっぽを向いて里見の腹立たしい顔を見ないで済むようにした。──ううん、したかった、のだけれど。
「渋江様は、君を洋行させるだろうねえ」
「え……?」
さらりと言われたひと言が気になって、あっさりと里見のほうを向いてしまう。してやったり、と言いたげなにんまりとした笑みを見せつけられて、千早のお腹は苛立ちでかっと熱くなった。そこをまた、里見は逆撫でしてくるのだ。
「分からないかな。外国にやって勉強させるんだよ。亜米利加とか英吉利とか仏蘭西とかさあ」
別に、洋行の意味が分からなかった訳ではないのに。馬鹿にされているのが分かっていても、聞き返さずにはいられないのが悔しかった。
「……どうして、ですか。私なんかにどうしてそこまで……」
「だって、人の口に戸は立てられぬって言うだろう? どれほど隠しても、子爵様のご令嬢が吉原出身だって噂にならないはずはない。一方で、人の噂も七十五日、ってね。ほとぼりが冷めるまで君を人前に出さなければ、まあ何とかなるだろう。どうせ爵位を継ぐのは君の子だ」
女に爵位を継ぐことはできないのだそうだ。だから、渋江子爵が千早を──亡き若君のご落胤を欲しがる血を繋ぎたいからというだけだ。千早は卵を産む鶏と同じくらいにしか思われていない。それは、分かっていたから良いのだけれど。
「二、三年して戻ったら、君は立派な淑女になってる。適当な婿殿も待っているんだろう。──そのころには、月虹楼も潰れているかな」
「そんな……!」
千早が腰を浮かせると、疾走する人力車が危うく揺れた。車夫がちらりと振り返って睨んだ気もするけれど、頭を下げる余裕はない。里見の言葉を、聞き逃さないようにするのに手いっぱいで。
「お稲荷様でも、海の向こうまでは手が届かない。月虹楼は最近繁盛しているようだが、君がいなけりゃそうはいかない。人の世から切り離されれば、時代遅れのあやかしどもは痩せ細る一方だ」
「……それが、本当の目的ですか!? 葛葉姐さんだっているのに……!」
ことは、千早の身の上だけに関わるのではなかったのだ。里見は、なぜか朔と月虹楼を敵視している。
(長年の馴染みじゃなかったの……!?)
江戸のころは、里見も喜んで月虹楼に通ったのだろうと、葛葉の口振りからはうかがえたのに。いったいいつから、そして、どうして。問い質したかったけれど──
「その、葛葉のためだ!」
口を開こうとした千早を遮って、里見は吼えた。赤い口の中にずらりと牙が並び、目は、怒りによってか金色に輝いている。獰猛な狐にしか見えない姿で一喝されて、千早が口を噤んだところに、里見はさらに捲し立てる。
「大昔に、江戸のころに見た遊郭に──その幻に、いつまでも捕らわれて! 今の時代にはもっと綺麗なものも美味いものも幾らでもあるのに……! ドレスを着せて、鹿鳴館の夜会にも連れて行ってやりたかった。もたもたしてるうちに、すっかり寂れちまったじゃないか!」
葛葉を着飾らせて楽しませたいだけなのに、と。里見の言葉はひたすらに純粋にあの人を想うもので。伝わらなさに、悔しがる気配すら感じてしまって。千早は、目を瞬かせた。
(姐さんは、この人のことを怖い、って……)
花魁の弱みは、もちろん口に出せるものではない。まして、千早には男女の機微もあやかしの思いも分からない。
「そんな。無理矢理連れ出せば良いってものじゃ──」
「人間の小娘が口を出すんじゃない」
だから、当たり障りのない反論に、里見はいっそう機嫌を損ねたようだった。先ほどの千早のようにふいと顔を背けて──そして、口の端が少しだけ吊り上がる。
「ああ──もう到着だ。大門を、人力車で潜るのは初めてだろうな?」
言われて前方に目を向ければ、確かにちょうど、吉原大門を通り抜けるところだった。門といっても扉がある訳ではなく、漢詩を刻んだ石柱と、それを飾るガス灯が色街の内と外とを区切っているだけだけれど。たまのお遣いや外出では、徒歩で通るのが常だったから、車に乗った高さでの視点は新鮮だった。ううん、そんなことはどうでも良くて。
(帰って来てしまったんだわ……)
もう戻らないと決めたはずなのに。──違う。千早は、以前の自分と決別するためにここに来たのだ。
花蝶屋はもうすぐそこだった。




