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【52】種を撒く人 (エッセイ)




昔はゲームをよくやっていた。

ゲームの世界の中に確かにハマっていた。夢中になっていた。なんだったらば、この現実世界が、この○○って名前のゲームだったら良いのにな、そんな事を割りと真剣に思っていた事もある。その様にして思いながら、昔にハマったゲームの中にある今回の話題の種、


BAR○QUE〜歪んだ妄想〜


と言う、そんなタイトルのゲームが昔にあって、このゲーム中で観た、感じた世界の話をしてみようか。このゲームのタイトルにも使われている、その、言葉、『歪み』について。


人間は「全くの狂いが無い公正で完璧なレンズ」なんて、持ってやしない。


「人間は」と言ったが、言い直そう。


この世に生きている、あまねく全ての生き物達はきっと、「全くの狂いが無い公正で完璧なレンズ」なんて、そんな都合の良すぎるモノを持ってやしない。


己の(つちか)ってきた経験・価値観・受けた教育・共鳴した思想・感動した出来事・悔いの残った出来事・生まれた国・宗教・尊敬した人間・触れ合ってきた生き物・社会的な立場…


上記以外にも。

様々なベクトルを持ったある種の力場みたいなモノが、その「レンズ=主観」に作用しており、当然ながら、その見え方だって違う様に思う。


人はしばしば、そんな風にして、自己の歪んだ視え方を棚に上げて、他人を見たときに「歪み」みたいなモノを見出したりする。そんな歪みにスポットを当てた、あれは、そんなゲームだったのではないかなぁ? と。


他人を観た時に感じる、その「歪み」は、果たして、本当にその人間のモノなのであろうか? 自分の主観レンズの歪みが、そう見せているのではないか? 歪んでいるのは果たして、どちらであろうか? そんな事を考え続けていると、俺なんかは、心象(しんしょう)風景の砂漠に置かれてある、二枚。ドアみたいな大きさの、向かい合わせに置いた鑑を覗き込むみたいな光景の前にて立ち尽くし、そうやって、頭の中のもう一つの世界の果てしがない砂漠を、迷いながら歩いていたりするときがあったりするのである。


さて、件の、BAR○QUE〜歪んだ妄想〜 に話題の河岸を戻そうか。ダンジョンの深さがクリアの度に深まっていく。毎回、潜る度にランダムに変化してゆくダンジョン。特定の光景・イベントだけは、毎回必ず、決まって出現する特定の階層があり、


「…………こ、来……………(来ないで)」


と言って浮かんだ姿のままで後ずさり、壁の中に消えて行く女性や


「き、君はボクを傷つけたんだよ

 も、もうっ!覚えていないの!?」


と、憤るボクっ娘だとかが、そんな感じの特定イベントとなっている。


その特定イベントの中の、あれは一つに含まれるのだろうか? それは、前述のイベントと比べてみたらば、大変に地味な光景なのである。


ダンジョンのとある特定の通路の壁に蛍光灯の様な側面照明があり、それに光明を見出したものか、側面の照明が付いた壁から芽を出した無数の植物の芽。その芽が出て来て、苗が伸び始め、側面の照明を覆っているカバー的な部品に蔓草みたいに巻き付いて行き…ダンジョンに潜る度に、徐々にその謎植物たちが育っていく現象。それを、果たしてイベントと呼べるのかどうなのか?


このゲームには、何度もエンディングがあり、プレーヤーは何度も繰り返してダンジョンに潜って行くのであるのだが、一応、真のエンディング的なモノがあり、そのエンディングを迎えた以降の、即ち、ゲームクリア後のダンジョンにも、自由に潜ることが出来る。


ゲームクリア後の

その植物達はある程度まで育ってから、それから先のその続きが見られなかった。あの植物達の行く末を 見てみたかった気はするのだ。あの先に何があるのか? どんな景色に、それはなってゆくのか? 気になって未だに良く覚えている、そんな映像である。


心の中にある木を育てて育む事、これは大事な気がします。


ミヒャエル・エンデ氏の著書に、何かその様な事が書かれてあり、俺も、漠然と、「確かにそれはそうだよな」と、賛同している。


ゲーテだって、確か、「ウェルテル」の中で、どんな境遇に置かれていても、己の内面にある細やかな庭園を精一杯好きなように飾り立て楽しめれば、この世の牢獄の中に囚われて居ようとも… だとか、そんな表現で以って、記述をしていた様に記憶しているし、それは確かに素敵な事なのではないのか、と、自分なんかも思う事だ。


あれは、あのダンジョンのその続きの光景の植物達は果たして、無事に育って行けたのであろうかなぁ?







!!!

思い出した。

確か、あの無数に壁から発芽した植物達は。

クリア後のダンジョン世界の中で花を付けていたのだっけか。一面に赤い花を咲かせていた光景が記憶の中からまさに今現在、蘇って来た。そうか。あの植物たちは、かの、絶望に満ちていた、希望が無いみたいな世界の中で、着実に育っていって、花を付けたのか。きっと、実を結ぶ事も出来たのかも知れない。


あの光景が、ミヒャエル・エンデさんの、『木』や、ゲーテの、『心の内面に有る細やかな庭園』と重なってくるのだ。それは確かに、地味な、イベントとも言えない演出なのかも知れないのだが、自分は、あのアイデアを思い付いた開発者の、その優しさが含まれた人間性の素晴らしさが伝わってくる気がしたんだ。


現実世界でも、俺が好きなチャットの中の世界でも。人を恨んだり、(ねた)んだり、正義感と見せ掛けた実は憎悪や何かで、他人へと粘着したりする、そんな方々を見掛ける気はする。そして、


「好きなように無責任に振る舞っても、罪は問われないんだ、俺は無敵だヒャッハーやってやるぅ〜☆」


的になって、ネットの隠匿性(ひとくせい)のすっかりと安全なる素晴らしき無敵技みたいな方法。掩体(えんたい)を利用した、遣りたい放題の少々見ていても恥ずかしくなってくるみたいな事を繰り返している、そんな残念なる方々を確かに見掛けるのであるが、きっと彼等は…


愛の愛たる何かを理解し得ずに、また、与えられなかったが故に、感じる事が出来ないでいる類の人間には思える。


どうも私には、私の主観の歪みを持ち合わせたレンズを通して彼等を観察していると、そう言った風な像を結んで見えるのだ。


まぁ、俺には関係は無い。

己の内に存在している木。

彼らが、ソイツを育てる事を怠っていた。

または、幼い頃にそれを他の誰か悪意の人間によって、摘み取られて仕舞った、守り切れなかった、妨げられてしまったのだろうかなぁ? だとすれば、それは可哀想な事ではある。


しかし、

ああなっては、本当に厄介ではある。

空虚だけに。


彼等の心象の荒廃した砂漠。

そこへ種を植えるのは。

肥料や土を分ける事は。

水を撒く事は。


もはや、無駄な様に思えるのである。

それはまるで、無限の砂漠へと水を撒く

永遠に撒き続ける作業となるのだろう。

それを自分でやるにしても、

他者から施してもらうにしても。


なーべー なーべー そーこぬけー


自分なんかも、

若い頃に色々と有り過ぎて

実は一度は底が抜けた経験がある。


幸いにして、自分なんぞは戻れたのではあるが、きっと、そんな事は滅多に不可能であり、俺なんかは本当にラッキーだったのだとは思う。何とか普通みたいに振る舞える様になるまでに、実に四半世紀掛かってしまったのではあるがね。


最近、チャットで真夜中から明け方に話すとある人物がいる。何だか、最近は植物を育てる事の楽しさに開眼して、その道を遥かに先んじている彼の父親に。まだ父親がこの世に居る内に、その技術を受け継ごうかな? なんて、楽しそうにごちては、その、彼自身が育て上げた花を撮影した画像を、みんなに見せているのだ。


その花に、前述の、あのゲー厶にて咲いていた花の姿が見事に重なるのである。


ハイビスカス

あのゲームの花の出来事が頭の内に(よみがえ)り、こうして文脈に纏めている間合いに、チャットの会話だから、相手の姿は見えないのではあるが、間違い無く笑顔を浮かべてその花を撮影していたであろう、その、誰も傷付けはしない優しい趣味の、彼の姿と重なって()えてくる様な思いだ。




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