【49】シズカお兄ちゃん (エッセイ・自伝)
幼い頃に、憧れていた、好漢的なお兄ちゃんがいる。好漢と例えたが、見た目は幼い頃から、何処か落ち着いた感じの雰囲気の、そんな優男であり、男らしく猛々しいだとか、そう言った感じでは無い。
血は繋がっては居ない。母親の友達の、スナックのママをやっていた家の長男である。幼稚園に行く前から、出会った瞬間から、その「お兄ちゃん」に対して、何と言うか、一方的で盲目的な敬慕の念を抱いていたのである。
こう言う事柄に対して、説明は大変に難しい。
その「お兄ちゃん」の人間的な魅力はきっと、自身の、自分の中の直感的な領域から、まるで世の中の常識的な、理性に従った、啓蒙されきった客観的な価値観の領域とは明らかに異なる、それらとは隔てた場所からの感情なのだからであろう。
「シズカお兄ちゃん」
思えば、初対面から、足の爪先から頭の天辺に至るまでに、彼に対してなんら根拠の無い、絶対的な敬慕の念を抱いていたのであるから不思議な話である。これはもぅ、自分なんかの拙い表現力では、その説明はままならない、まるでその「何故彼に惹かれたのか」の説明に関して、お手上げなのだ。或いはもぅ、人智学だとか、その辺りを噛りまくって、少しばかりはその世界について理解の手が及んで、その末にようやく何とか説明が付くのかも知れないが、兎も角に、自身の中の霊的な部分がその、シズカお兄ちゃんに対して共鳴していた、としか、説明がつかない現象であるのだ、これは。
シズカお兄ちゃんは、大変に分別があり、一方的なる敬慕の念により、幼い頃の自分がなついて何処へでもついて行ったのに対して、彼はそんな俺に、大変に思い遣りがあり、様々な意見を、様々な場所にて、様々に、俺に話してくれたのだった。まだ、幼稚園に入る前の俺、彼は確か、数年年長であった。
スナックのママをやっていた、彼の母親は奔放であり、そして、彼の弟は色々と問題児で噛み癖があった。俺もしばしば噛まれていた。アレはヤバい奴だったのだ。まだ大人の事情すら何も知らない、そんな俺がある日に、そんな慕情のアニキ、シズカお兄ちゃんの家に行った日曜日の朝などは、そのママと、知らない大人の男性が、一緒の布団で寝ていて、そして、アニキも問題児の弟の姿も、一切見掛けなくて、そして、幼いながらに感じたのは、濃厚なる性臭であり、噎せ返るみたいなあの不快なる臭いが、こうして後から思えば、思春期に体験したあの臭いと良く似ていて、以来、そんな情事を大人になって体験する度に、偶に、その昔のママさんと似たフェロモンを持っているのか、その記憶を連想させる女に会ったりする事もあったのである。
思えばそんな、よく言えば破天荒な環境に、ずっとシズカお兄ちゃんは居たのだから、きっと俺が見えていない苦労やら苦難やらが、彼には数多にあった筈なのに、そんな弱みや隙なんか、毛程にも俺には感じさせないで、ずっとシズカお兄ちゃんは冷静に諭してくれたりする、そんな感じの存在であったのである。昔から。
親同士、付き合いが付いたりまた離れたりを繰り返していた関係もあり、俺とシズカお兄ちゃんとの交流の記憶は、稍、飛び飛びにはなっていて。
記憶がある頃に住んでいた「ポプラ荘」にて、夜に、大根菜と油揚げの炒めモノを作ったのを、フライパンに入れたままで机の上に乗せて、親がバイキングみたいにして、子供達がリクエストすると、例えば油揚げが食いたければ「あげ」と言えば親がそいつを箸でつまんで子供達の口元へと運び、子供達はそうやって夕食を摘みながらも遊び呆けて駆け回り、今思えば、両親やシズカお兄ちゃんの母親のママも、どうやら酔っ払っていた様子であるのだ。
そんな飛び飛びの記憶の中で、シズカお兄ちゃんが度々に出てくる。小学生の高学年の時に、対立していたグループとの、一触即発な場に、決意を胸に秘めた、腹に一物持った気配で、しかしながら、敵対心を全く感じさせない、仲介役として出てきたり。
そんな感じでシズカお兄ちゃんは、相変わらずに骨の髄まで格好が良かった。
片親になり、役所の世話になっていた時期に母親が、ママのスナックに行った時に付き合わされて行ったりした時に、シズカお兄ちゃんがやってきて、どうやらバンド活動をやっていて、相変わらず格好が良かった。心底に昔からシズカお兄ちゃんは格好良かったのだ。
やがて、自分の人生の中で色々とあり、あれは、北海道を出る数年前だったろうか。
ある、貧相なチビおっさんに出食わした。
ハゲ上がり、すっかりと草臥れていて、目は虚ろだった。まだそんなに歳をとって居ない風なのに、恐らくは薬物に手を出していて、身体を急速に老化させたであろう人間が放つ、その、判る人間には判ってしまう、独特な姿…
僅かに面影がある!
それは、シズカお兄ちゃんだった。
シズカお兄ちゃんは、ずっと、きっと、俺に打ち明けていないだけで、苦労に苦労を重ねていたのだろう。大人になったあの頃に初めて自分は、そんな彼、シズカお兄ちゃんを取り巻いていた様々な境遇、それについて、ようやくと理解が及び始めて来た頃で… だから、俺がそんなシズカお兄ちゃんに話かけようと、何があったのかと、散々に世話になったアニキ、シズカお兄ちゃんに、今の俺ならば何かを返せるのかも知れない、と、当時の俺が彼に近づいた時に。彼が近寄る俺に気が付いて無言で見詰めて来た、その顔が、俺を見て昔の面影に思い当たり、明らかに思い出してくれた様子だ、淀んでいた目の虹彩の輝度と呆けたみたいな表情筋の様子を僅かにだが変化させたのだ。俺はそんな彼の様子を見て、更に距離を物理的に詰めようとして歩み寄ろうとした、その瞬間… 直前まではまるで虚ろで空虚だったその彼の目は、一瞬にして知性を感じさせる思慮深気な、昔に見慣れていた彼の視線が蘇ったのだ、そこには確かに、昔のままの、しっかりとしたあの、冷静なるシズカお兄ちゃんの、優れた霊性を秘めた瞳が戻っており、そうして、無言で彼は俺を見詰めてきた。それだけで、俺には伝わってきた。
〈よう 久し振りだな〉
〈元気か?〉
〈随分と色男になったのじゃないか?〉
〈しかし… うん、そうかそうか〉
〈苦労してるみたいだな〉
〈俺に近寄ってきたのはアレか〉
〈同情だな それは〉
〈お前の気持ちは素直に嬉しい〉
〈だが断るよ 情けなんて〉
〈お前だって そうだろ?〉
〈だから 話し掛けんな〉
〈今のお前を 助けてはやれないんだ〉
〈これからは 自分で歩いてみな?〉
〈元気でいろよ〉
〈じゃーな〉
それは、視線だけで交わしたやり取りで、けれども、この視線は決して俺の独り善がりな妄想や空想の産物ではなくて、シズカお兄ちゃんは、俺にそうやって語り掛けて来たのだった。それはある種の、霊的なやり取りだとしか思えない、人生の中での、数少ない稀有な体験の1つだ。
俺はこうして、俺が世話になったアニキ、シズカお兄ちゃんに対して、未だに恩を返せないままで、そうして、北海道を離れて今や一人暮らしである。あの時… あの、目だけで彼が話し掛けてきた時に、俺とシズカお兄ちゃんとの距離は僅かに2メートル位だったのだ。その距離が、また、近いようで絶望的に遠くて、とても遠く感じて仕舞っていて、けれどもいつか、俺の歩みが、彼に追い付く、その時が果たして来るのだろうかなぁ?




