【43】心霊写真 (エッセイ)
『幽霊』を、信じるだろうか?
つまり、此処で述べる、『幽霊』とは。
それは、あの、昭和の時代の、自称霊能者達や、番組の企画担当者達が、視聴率を狙い、決まって夏休みだ、お盆だと季節がやってくると企画する「あ○たの知らない世界」だとか、稲○淳二さんの、 やだな〜 こわいな〜 的な怪談、はたまた、中○俊哉さんの「恐怖の心○写真」それ以降の時代は、次第に世の中の法整備なんかが進み、そーゆーオカルト話に便乗した様な
「あなたの先祖が日本兵でその昔に酷いことをしたからあなたは呪われているから何をやっても上手くは行かないのだ」
「うちの宗教に帰依しなさい、そして私物の所有を放棄して土地や通帳を寄付なさい」
「この霊験あらたかな壺を200万円で…」
「この水晶玉を100万円で…」
「この新聞を定期購入してお布施を…」
こんな類のビジネスに思い至った方々に、そのお話の持ち掛けに乗ってしまって、後から夢から醒めたみたいに訴えたり、泣き寝入りしたりの悲劇だか喜劇だか知らないが、その辺りを牽制する世の中にはなって来ている様に思う。
若干、話が本題からは逸れて仕舞ったが、その様な悲劇・喜劇を防ぐ為なものなのか、心霊番組がテレビの世界の中から締め出しを食らう様になってきた、世知辛い世の中。そんな時代の中でも、矢張り、「本当にあった呪いのヒデオ」的なモノが、世の中にひっそりと、ある一定数の嗜好を持った方々の需要に応える役割りを着実に担っている。
自分自身は上記の様な『幽霊』を。
代入して、こう入れ替えた理解をやっている。
即ち。
幽霊=エンターティーメント
である。
誤解しないで頂きたいが、前もって述べると、私は上記の様な『幽霊=エンターティーメント』を馬鹿にする気は一切、これは無い。むしろ上記で述べた様な怪談話を好んで嗜好選択して楽しんでいるタイプである。彼らはサービス心旺盛に、人を怖がらせようと、こんな世界があるのかもしれないよね、と。汎ゆる手段の表現を尽くして、お話を作り上げて居るように思う。実に尊敬すべき方々だし、自分なんかは、子供の頃は上記の様な『幽霊』を真に受けて怖がっていた。今、それを振り返って思えば、楽しい時間を確かに彼等の作品は幼い自分に豊かに与えてくれて居た様に思える。騙されて、なお感謝の思いだ。
しかしながら、それに追従便乗した上記の、大変に商魂逞しい、かのビジネス、これに関しては些かならぬレベルに冷淡なる視線を向けざるを得ないでいる。
さて、「心霊写真」をご存知だろうか?
昔は 中岡○哉さんやなんかの、「恐怖の心霊○真」は、それはそれは世の中の、一部の嗜好者達を虜にしたし、しばしば一部嗜好者に留まらず、広く一般社会にまで認知されていた時期もあり、ブームを博した現象であろう。
最近になり、そんな心霊写真を人体工学やら他の科学やらの観点で理路整然と解明し始めた動きがある。
なるほど、と、感心する反面、
「また野暮な事をやりだしたものさ、何かと世知辛い世の中で、また一つ、意味不明だが魅力的だったなんか素敵なモノ、ソイツのベールを野暮な連中が剥いだ訳だ、こいつはある種の戦犯だなぁ。」
と、何とも複雑な心持ちで以って、それらの文章を眺め遣っている。
自分の好きな作家さん、ミヒャエル・エンデ氏はその著書の中で、こんな事を書いていた。
神の存在が証明された瞬間に
神の存在は消滅するだろう
まさに、彼等の究明作業、それは科学万能主義者が行った、『野暮の極み』と言う名のメスを用いたオペに見えて来るのである。
科学に関心がある方は或いは『二重スリット実験』をご存じだろう。光子が観察者の存在が在ると、空気を読んで、その観察結果にとって望ましい動きをする、みたいな、その様な不気味な現象である。ご存じ無ければ『二重スリット実験』で動画検索を掛けてみてほしい。彼等の究明作業、そいつが、まるで二重スリット実験の如くに、世の中に溢れていた『未知』の方が、空気を読んで、その結果に忠実たらん、として、寄っていって、また一つ世の中の未知が解明して、種を明かせば至極つまらない証明結果が成立する、彼等はとどのつまりはその様な、野暮の極みをやっている風に見えてきてしまうのだ。
心霊写真、そいつに野暮なるメスを入れた彼等の究明は以下に示した如きである。どうにも、科学と言うやつは野暮である様に思う。そう思うのであるが、また、同時に、とても面白くもあるのだ。『幽霊』を嗜好している反面、矛盾するのだが、私は確かにこの様な、『科学』も好んでいるところがある。
【パレイドリア効果】
意味のない対象に知っている意味を当てはめてしまう錯覚であり、視覚や聴覚からの刺激に対し、それが本来存在しないにもかかわらず、既知のパターンをあてはめてしまう現象を言うらしい。例えばイタリアの国全体の地形かブーツの形に見えるというのもこの現象であるとの事。
『月の模様がウサギの餅つきに』
も、脳が知っているパターンを当てはめて解釈した結果であり、心霊写真も、パレイドリア効果によって、別のものが顔や人体に見えてしまうことが原因との説明である。
【シミュラクラ現象】
どうも人と言うものは3つの点があつまった画像を見た時に、それをまるで「人間の顔」だと錯覚してしまう。シミュラクラ現象と言い、パレイドリア効果の一種なのだそうでこれは、人類の進化の過程の中で、周りの動物が果たして敵なのか味方なのかを判別する必要がしばしばあり、本能的に脳が人間の顔かどうかを識別しようとする事からこの現象、『錯覚』が起こるのだ、と言われている。
なるほど、関心深い。
写真や画像にある風景の、例えば森の木々が日差しの中に、光に照らされた部分と、影になっている部分との、あの、緑色と日陰とのモザイク模様の中の日陰の部分、そこにある、たまたま隣接した円形部分を見て、無意識に2つの眼窩とその下には口を想起させる様なたまたま近接した3つの穴が揃っていた時に、人間はその視覚情報に『霊』を見い出したりするのだろう。
幽霊の 正体見たり 枯れ尾花
種を明かせば何事も、どうもその様な野暮な結果が待っているのかも知れない。
しかし、逆に。
逆説的にはこうはならないだろうかな?
件の、【二重スリット実験】でも、全く別な根拠に基づいた科学者が、いや、どちらかと言えば、ファンタジーが好きな人間が妄想と空想を混ぜた飴細工を練り合わせて打ち立てた理論。
そいつに対して、光子や世の中の謎の数々が、その理論に、空気を読んで寄っていく。その様な事があるのかも知れないよ? 否定は出来ないなぁ。そして、そんなファンタジーや空想。そいつにまったく価値が無い、全くのナンセンスだ、なんて事も思えないんだ。
3つの隣接した穴を見て、それを『霊』だと認識するみたいに。もしも、仮にその様な現象と似たことが心の内にて作用を齎した時に。
そんな『霊』だけではなくて、きっと人間は、生きている上で様々に見聞きして、感じて、ソイツを手掛かりに、その体験から来た2つくらいを手掛かりして、誰かに投げ掛けられた何気ない一言を最後の呼び水として、突然に、3つが揃った時に。
別の意味での
『心霊写真』
が生み出されて行くのかも、知れないんだ。
それは、己が内面にて像を結ぶ心霊写真。
例えばね、こんな体験があるのさ。チャットで知り合った知り合いの一人。迷彩柄の軍服が好きで、そいつを手に入れて、わざわざ、その軍服を纏った姿をスマホカメラにて撮影して、俺に送信してきた知り合い。
その姿に、まるで、小学生の時に俺がファミコンの待望のソフトを手に入れた時みたいに、または、遠足の前日みたいに。そんな無邪気で誰も傷付けていない類の、素朴な歓喜の気持ちが、まるでこちらにも伝わる様であり、なんだか、良いイメージを貰えたのではあるのだが……
その姿を見て浮かんできたのが、小野田少尉である。
あの、終戦を報せるビラやマイクを用いた呼び掛け等の一切合財を、敵の詐術、工作だと疑い、一切耳に入れる事なく過ごすも、はた、と、遭遇した一人の日本人の若者の言葉を受けて、ようやくにして彼は彼の中の戦争に、長い戦争に終止符を打ち、そうやって本土の土を踏み締めた、そんな彼が下世話なる好奇を帯びた報道陣に向けて放った一言。
『恥ずかしながら、帰ってまいりました。』
その、チャットの知り合いが自身の軍服姿を撮影して送って来た画像に、「なんかコレ、見たこと有るぞ!」思わずそんな、小野田少尉の姿を重ねてしまい、返信に。
「コレ、小野田少尉ぢゃんwwwwww
恥ずかしながら、帰ってまいりました!
の人ぢゃん!」
と、その様な内容を返信して、その日はそれだけで就寝。
翌日に、滔々と、稍、熱を帯びた彼のチャット発言を目にする事となる。
以下、「彼」
T氏 の発言。
小野田さんは大事な祖国を護るため 愛する場所を護る
ために 戦ってた訳ぢゃ無いですか 終戦を知らず 発見されるまで独りで 戦死するのが美徳 玉砕しても戦うって精神でずっと…
でも自分は死ねなかった 祖国の為に戦ったのに 発見され 日本は戦争に負けたんだと知らされ 玉砕する事も出来ず 生きて帰って来てしまった 恥ずかしながら帰って参りました("`д´)ゞ
あたしはそういう風に感じました 生きて帰ってくるのが恥ずかしい そういう風に思わせてしまった 戦争の狂気 無事に帰って来ます 大好きな場所へ 大好きな人たちがいる場所へ
戦場=仕事場となぞらえ 生きて帰って来ます 五体満足で帰って来ます 仕事をきちんとこなし 大好きな場所へ 大好きな人たちがいる場所へ 護りたい場所へ つらい仕事から逃げたらイカンと また恥ずかしながら帰って参りました
("`д´)ゞ
って言えるように。
チャットなんかやめちゃえよっていつも言われ続けながら 恥ずかしながら またこの場所へ帰って参りました
("`д´)ゞって
大好きな場所へ 大好きな人たちがいる場所へ 護りたい人たちがいる場所へ そんな思いで 使わせて頂いてます 恥ずかしながら帰って参りました
("`д´)ゞ
って言いたい人へ 今日も戦場へ行って参りますって言いたい人へ あたしはそんな思いで書いてます♪
なるほど。
恐らくはこの、T氏は、彼の人生の中で得た考え方、価値観、主観、その、どれかに2点の隣接したポイントを手掛かりに、最終的に私が引き金となった言葉。
『恥ずかしながら帰ってまいりました』
を最期の1点とした、さながら険峻なロッククライミング、そいつの3点を確保して、そうやって、人生クライミングを死ぬまでの間、生きていく上での、しぶとく生き残る為の動機付け、気付けのポーションのレシピ的な役割りを果たす、そんな何がしかの範となり得る『像』を結んだのだろう。
こんな、心の中の『心霊写真』
隣接した3つの穴を無意識に像として、偶然にそう見えている、しかし、それは勘違いだ。
等と。
科学者達はそうやってまた、無粋で野暮な証明・究明作業を試みるのだろうか?
私はこう考えている。
この宇宙が、銀河が、太陽系が、地球が、生命が、そして、自分が、生まれたのは「たまたま」である。
そして、この場に於いては、
たまたま=なるべくして
に、代入可能であり、
宇宙がなるべくして原初の質量無限・体積0の矛盾から爆ぜ
銀河がなるべくしてガスを集め
太陽がなるべくして恒星となり
地球がなるべくして形成され
大気がなるべくして生まれ
有機物がなるべくして生まれ
結合し
絡まり合って
生命が生まれ
そうやって
自分と言う存在も
なるべくして=たまたま
その流れの仕組みの中に発生した。
きっと、「何故〜」から端を発するあらゆる事について、この世の中に於ける疑問の全て。厳密には誰もが正しい解なんて見付けられないだろう。だって、我々はこの宇宙の仕組みだって説明が未だに出来ないでいるのだから。
我が我以外を視る時に、つまりは我が彼を視る時に、我々は常に『公正で狂いの全く無い完璧なレンズ』で視れる訳がなく、『主観のレンズ』を用いて我々は我々以外を認識するしかない。『主観のレンズ』とはどうしても公正なレンズなんて呼べるものではなくて、そのレンズは常に、『恣意』的な力場の力によって歪められており、その歪み具合いがまた、人それぞれの個性なのだろう、と、私は思っているのである。故に、同じモノを二人の人間が観た時にだって、それぞれ各々の『主観のレンズ』を用いて観ているのであるから、そのレンズの歪み具合の違いによって、当然とまた、観測結果に差異が生じるのは、こいつは避けられない運命であるから、だからゲーテなんかは、その事について理解して、
『我々は互いに誤解し合う、これこそが運命なのだ』
なんて言っているし、私も全く同意であるのだ。きっと、我々が宇宙や世界や社会や人間個人や風景や現象や、他にもあらゆるモノなんかを視る時にも、そうやって差異は生まれていて、そもそもに於いて、宇宙なんかは我々には認識仕切れない事象や概念であるのかも知れない。間違い無い、理解なんてきっと、無理だろうさ。出来たとしてもそれは『誤解の中の理解』に過ぎないのだと思う。
そんな我々であるのだから。
だから、たまたま生まれて、たまたま消えてく存在なんだと、自分なんかはそう漠然と考えている。
世の中やら社会やら宗教やら法律やらマナーやら常識やら。
それらは一応、そうやって、なるべくしてなった世界の中での、便宜的な杖。『恣意の木を用いた杖』なのであって、きっと厳密には、正しい、そうであるべきだ、なんて、そんなベクトルの考え方は正解ではなくて、あくまでも、波風を建てずに、余計な気疲れやら苦労やらの、
「流れるプールの中で逆に歩いて見る」
的な類の、そう言った寄り道やロス、それを人にさせぬ為のいわば、たまたま出来上がってきた仕組みの中の世界を比較的に楽に、苦労を減らして貰って、その中で、何とかそのままで世界を維持させよう、としている目的みたいな、最低限のガイドブック。仮初めのルールであり、きっと、全ては、
「誤解の中の理解」
なのだと思う。
だから、もっともらしい、自信に満ち溢れた態度にて、
「これこそが正しい」
「私こそが正しい規範である」
「キミ、流れるプールを逆行して遡上する事に果たして何の意味があるのかね? 止め給え!」
何て嘯いている、そんな人間なんかを、私なんかは詐欺師を見るみたいにして観ている時があるのだ。『誤解の中の理解』しか出来ない『主観のレンズ』の歪みを知らない『恣意の木を用いた杖』に頼り切った、こいつはまるで、とんでもない道化師で、しかも詐欺師だな!
見ていて耐え難いバカだ!
でも、だけれども、よく見てみりゃ、どうした事か。
そいつは紛れもない、鏡に映し出された自分の姿でもある。
無論、自分だって、
『誤解の中の理解』
『主観のレンズ』
『恣意の木を用いた杖』
の装備品を身に着けていると云う次第である。
きっと、生命が生きている以上は、そいつは人間の範疇に留まらずに、遍く全ての生命が持っている、持たされて仕舞った運命なんだろうさ。
流れるプールを逆に歩いてみても、いーじゃない、それは無駄な苦労かも知れないのだけれどもさ、少なくとも、それはその人間の自由じゃない?
そう思っている。
先程の、T氏。
彼のその、モノの考え方。
彼が結んだ1つの像。
彼が彼の中で発生させた、
心の中の2点と私の1言を合わせた
3点から像を結んで作り上げた
それは1枚の心霊写真。
それにすら、恐らくは意味は無いのかも知れない。
全てはたまたまであり、思うべくして導き出された解に見える、これも誤解の中の理解なのかも知れない。きっとこの彼が結んだ像ですら、誤解の中の理解に相違ない。
然しながら。
そいつについて、
指差し笑う趣味もなく。
どちらかと言えば、
むしろ、
あ。なんかいーもん貰った、あんがと。
と。
それを、美しい、と。
善きモノだなぁ、と。
私なんかはそう思うのである。
だが、矢張りこいつも、
自分のこんな考え方なんかも。
とどのつまりはそれだってさ。
恐らくは 誤解の中の理解
なのであろう。
果たして皆さんはどうだろうかなぁ?
どう感じるだろうかな?
野暮かな?




